墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

火車

曖昧な主語でものを語るのは、あまり良くないけれど、人生というものははなはだ難しいことが多い。派手ではない地味な辛さが慢性的につづいて、いつも1週間後に避けられない悲劇が待ち構えているような焦燥感、そんな気分で日々を過ごす。そして、何かが擦り切れたとき、ものを上手に食べられなくなって、動悸とともに目を覚ますことが多くなって、複雑なことが考えられなくなって、楽しいことを楽しいままに続けられなくなるような状態が、散発的に訪れる。

 人が生きていく場というのは、いくつかに分けられる。生活の場、仕事の場、政治の場。付き合いや趣味やしがらみが多ければ、その分だけ場は多様化していくだろうが、社会人にとって一番シンプルな分類はそんな感じになるだろう。ところで、政治の場とは何か。ぼくはまともな就活をしたことがないが、表向きは笑顔対笑顔の対話なのに、至るところで値踏みされて、自分の伺い知れない何かに外堀を埋められていく、あるいは堀の下に埋められていく、それが就活の一側面だと思っている。政治の場とはそういうものを指す。仕事の場が社会性ゲームだとしたら、政治の場はメタ社会性ゲームということになる。

 これらの場が融合しはじめると、人というのはよほど強くないかぎり気付かない間に壊れてゆく。特に政治の場は怖い。自分が誰かの手のひらの上の存在であることを知りながら、知らないフリをしないと生きていけないような場というのは、怖い。怖い、というよりもぼく自身の性質にあまりに向いていない。他人の目と口に多少の恐怖を覚えるような人間にとって、修羅場と言ってもいい。そんな政治の場が、仕事の場を越えて、生活の場を侵すようになると、これはもう一大事件だろう。

 この世を直視しながらこの世で生きていくというのは大変困難な作業だなと思う。周囲からの刺激に過剰な意味を読み取ってしまうこと、これは社会人として生きていく上で絶対に避けないといけない。嫌なことから目を背けるような練習を若いうちにしておかないと、取り返しのつかないことになる。身も心も、他人までも巻き込みながら、くるくるとただ廻る。真っ赤な景色に、目が回って、束の間の夢を見て、また醒める。