墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

dedicato alla memoria

それから私は、最寄りの小学校から横断歩道を一つ渡った先の団地にかつて住んでいた、と思い出した。そこはこぢんまりとしたところで、中庭のようなものがあり、木々と生垣が生い茂っていた。秋は自治会全員で落ち葉の掃き掃除をしていた。まだ自宅が世界の中心だった頃の話になる。
 そして、年に一度、夏祭りが小学校の校庭で開催されていた、ということを思い出した。夕闇が広がり始めるころ、貰った小遣いとともに、横断歩道を渡った。笛や太鼓や鈴の音が徐々に大きくなり、校門をくぐると賑やかで眩しく煙たい場が広がった。水蒸気の匂いと聞きなれぬモーター音が織り交ざる中、間もなく人混みに揉まれた。ひ弱だった私はすぐに空気に中てられて、家で何度か休んだ。普段は煌々と照らす蛍光灯の下で夕食を食べている時間帯に、薄暗い灯り一つしか灯っていない家の様子はかなり異質だった。暗闇の中座っていると、遠くから盆踊りのリズムが聞こえてきた。
 祭りが終わった夜、窓辺に佇んでいた父の姿を思い出した。その頃はまだビールを飲んでいたかもしれない。祭りでくたくたになった私は和室に布団を敷いて寝ていた。小学校の中学年だった私に私室というものはなく、畳張りの部屋が親と私の寝室を兼ねていた。不意に生温い風で目覚めた。眼を擦りながらあたりを見渡した。仄かな外の光が窓辺に座った誰かの輪郭を浮き彫りにした。私は布団の中で、父のその陰影を、不思議な気分でただぽかんと見つめていた。断片的に散らばった、最古の情景の一つである。

 ある日、仕事から帰り、疲れてそのまま眠りこけ、午前2時ごろに突然目が覚め、寝付けなくなったときに、起き上がってカーテンを開き窓を開け、椅子に座りながら網戸越しに冷たい風に当たった。外は僅かな街灯が照らしていた。心地良さに一抹の棘を感じながら、何もせずにぼんやりと座っていた。棘の正体はすぐに分かった。祭囃子はもう聞こえない。
 それにしても、窓辺という空間は、なぜそれだけで情緒的に感じるのだろう。屋内でありながら屋外を感じる、その両方を兼ね備えた、曖昧な境界であるからだろうか。世界を窓枠で切り取ることで、一つの景色に落とし込むからだろうか。窓から差し込む紅い夕陽の、あの息の詰まる美しさについて、我々は一体どこまで迫れるだろうか。明日も、窓の内と外はきちんと繋がっているだろうか。