墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

鏡の国の某

ぼくにとって、誰かに対して過度の発言を控えるということが、自分が心身ともに侵されずに現実を生き抜いていく上で必要な技術のようです。

 公平性や公正性といったものが重要視されるようになった現代社会において、知識などの情報を共有する、それに伴い活発に議論するということが、少なくとも建前上は良いとされています。ぼくもそれは正しいと信じています。また、それを建前以上のものだと思う気持ちは強いつもりです。
 でも一方で、たしかに他人から不要な情報(と自分が感じるもの)が与えられてもなんだかなぁという感じですから、同じく逆の行為として、他人へ不要な情報(とその人が感じていそうなもの)を与えてもなんだかなぁという感じになります。ここに他人の意識と自分の意識のせめぎ合い、共有するという事柄に必ず付きまとう緊張関係、そして他人への思いやりが発生します。

 「情報や意見の共有」という体裁で、一見高尚に見える目的にすり替えているけれど、じゃあ情報を持っていることで自己顕示したいという欲望がゼロかというとそうも言い切れない場合があるから、問題はさらに混迷を極めることになります。例えば、啓蒙という言葉は、一見文明の成長を美しく象徴していそうですが、その背景には近代西洋文化の上から目線、そういった嫌味を多分に含んだ概念であることを、ふとした瞬間に気付くわけです。下手したら教育だってそう。無知蒙昧な人間へ教育を施すことでより高次元な人間にして差し上げる、そういう欺瞞がないとは必ずしも言えないでしょう。
 だから、挨拶や相槌、事務的な発言はともかくとして、いわゆる「意見」的な発言は、対話の中で相手とともに自分を高めるというキラキラ輝く目的の下に、正当正義の紋章を掲げて相手を跪かせたいというドロドロな意識(あるいは無意識)が見え隠れすることがあります。そこまで行かずとも、自分の発言だけでなく、それを利用して自分という存在さえも他人に強く焼き付けたいという意識(あるいは無意識)は、ほぼ常にあるような気がします。ある人が発話内行為と呼んだように、発言には必ずその内容以上の行為が込められてしまいます。
 何の因果か、自意識が肥大化してしまったせいで見ない方がいいものだけを執拗に見つめ続けてしまうというやつなのでしょう。ほんらい見えないものまで作り出して見ようとしてしまうこともあります。もしかしたら健全に発達した人は、そういう醜い一面が存在しない、または直視せずに済むのかもしれない、と2割の皮肉が混じった8割の本気の羨望を覚えてしまいます。

 ある人は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と語ったようですが、論理の世界に自意識という概念を付与した現実において、沈黙しなければならない場というのは他にもあるようです。またある人は、対話的理性という概念を持ち出して新しい形式で理性を定義しなおしたようですが、対話の中に潜む、理性で制御しきれない自意識という化け物を彼は想定していたのでしょうか。別のある人は「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」と諭したようですが、知者であり仁者であり勇者である人々も、そうであればあるほど、結局は自分という唯一無二の存在を強く意識することになるのでしょう。そして、ある人は精神の最終的な形態、つまり超人として無垢な赤子を讃えました。ぼくはまさにそういうことだと思うのです。上手く言葉にはできませんが、無垢という美徳は博識や深慮、勇敢をはるかに凌駕するとぼくは思うのです。
 醜い自分を鏡の中に見つけてから、かれこれ数年経ち、なんとか口を閉ざすという対症療法を学びましたが、これではあかんと一歩踏み出そうとしたはいいものの、うまい足場が見つからず、自分の足に躓いて転ぶ間抜けのようになっています。のよう、ではありません、これでは間抜けです。阿呆です。