墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

あっちでこっちでにっちもさっちも

日中、下手に寝てしまわないように買い置きのコーヒーをガブガブ飲むと、その反動として、訳もわからず、いやカフェインの副作用なんだろうなと「訳」については予測はつくが、無性に心もとなくなったり、かと思うと数分後には突然意欲がふつふつと湧き出てくることがある。こういうときに、自分が精神の入れ物である前に、首をはねられれば死ぬし一酸化炭素を吸えば死ぬ、そういう物理や化学に縛られているヒトという生物であることを痛感する。この一種の単純明快さが時にひどく受け入れがたい。ぼく自身はあまりお酒を飲む人間ではないが、それもやはり、飲酒で得る高揚感に隠しきれぬ動物性を感じ、避けようとしているからなのかもしれない。ぼくはカフェインやエタノールごとき有機化合物に揺るがされる自分という存在の不安定さに不安を感じる。この場合は不安の対象がはっきりしているように見えて、実は後ろに潜んでいる抽象的な何かが原因だから厄介だ。
恐怖は未知のもの、理解不能なもの、訳の分からないものに対する感情だと説明されることがしばしばある。現代社会では巧妙にそういったものが覆い隠されていて、感じる機会は少なくなっている。でも例えば、たまにある種の人間(一応言葉は濁しておく)が電車内に乗り込んでくるのを見ると、程度の差はあれど、恐怖が思い起こされる。だから、恐怖自体を克服したわけではないが、その隔離はたしかに成功しているのだろう。恐怖を感じにくくなった一方で、人は相も変わらず、ことによると今まで以上に不安を覚えている。恐怖と違って不安は、その感情の対象や原因が曖昧なことが多く、そして感情の絶対量は比較的小さいものの長いあいだ続くことが多い。不安はただぼんやりしている。

不安といえば、この世には、理屈の通用しない人間がぼくの思っていた以上に多くて、不安になる。理屈っぽいことが、彼ら彼女らにとっての「道理」や「道徳」を否定することになるとでも考えているのだろうか。ぼくは基本的に理屈で生きてきた人間で、他人の感情そのものと向き合う気概はないが、自分の理屈と他人の感情の間に折り合いをつけることが、現実世界において重要だということを知っている。だから、毎日なけなしのMPを削りながら論理と道徳の着地点を見つけるためにウジウジ悩んでいる。
ぼくはあなたの感情が理解できなかったとしてもどんなに馬鹿らしくて面倒くさいと思っても、あなたがそう思っているのは事実だから、論破はできても否定はできない。その点についてだけはどうか安心してください。そう言ってもやはりこの「理屈」さえ理解されずに、理屈っぽいとして一蹴されるんだろうな。その瞬間に、ぼくも相手の本心へ到達しようとする意欲を失うので、相互理解は叶えられない。
唐突に、『来世ではちゃんとします』という最近読んだ漫画を思い出した。本道から外れてしまった人たちが、他人にとっては些細なことで悩み、他人にとっては些細なことで救われながら生きていくのを描いた四コマ群像劇、という紹介をしておく。なんで思い出したのかな。たぶん誰かのことを否定する前に、自分のことを否定して、お互いがそういった精神的な自傷行為をして、それでも歪なりにお互いに理解しようとがんばる姿が、すごく眩しかった。さっきみたいなことを考えているときにこういう漫画を読むとすごくグサグサくるけど、まあもう少しがんばってみるかという気にもなる。世の中にはもっと満たされない人がいるから、という理由ではなく、世の中にはもっと真剣に悩んでいる人がいるから、という理由でがんばれるなら、それはとっても純粋なことだろう。