墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

久闊

 

ひとまず何から始めようと思ったときは、始めようと思ったきっかけから素直に始めれば、きっと過ちは少ないだろう。

 

出る杭は打たれる

大きな期待を抱え込むほど、裏切られたときの失望は大きい。という当たり前のこと、そして個人的な癖を性懲りもなくまた繰り返してしまった話。

具体的には2020年10月発売の『アインシュタインより愛を込めて』(略称は知らないのでアイ愛とでもしておく)というゲームについての感想。布石まで取り上げると2015年10月発売の『恋×シンアイ彼女』(略称:恋カケ)まで話は遡る。

この恋カケというゲームは、心の内側に一時期こびりついて剥がれないほどには、かなり印象的な作品だった。まぁエロゲー秒速5センチメートルと要約してしまえばそれまでなんですが。その辺はもしかしたら過去の記事でウダウダ書いているかもしれない。

で、今回ブランド名は違うけれど、似たような布陣(脚本:新島夕、原画:きみしま青、アートディレクター:志水マサトシ、BGM:水月陵)でアイ愛が制作されると聞いて、あの感傷マゾ経験で再び気持ちよくなれるぞと意気込んでいた訳である。そういうことで未来にニンジンを用意しておかないと走り続けられない馬人間の性。残念ながら、ニンジンは以前のものほど美味ではなかったようだ。持久走に疲れた馬は仰向けになり溜息と愚痴を吐く。

何が風味を損ねてしまったのか、というか風味というものがあったのかさえ確かではないので、なんで無味乾燥だったのか、ということについて、少し考えてみる。

一読者からしてみれば、物語に異常発達した科学文明は必ずしも必要ではない。科学文明というのは一例を挙げただけで、天変地異であったり魔法世界であったり、非日常的な味付けのことを含意している。平凡な世界である程度ありふれた人生を描くだけで、十分な物語が生まれることは多い。「いや、そうは言っても凡を非凡に仕立て上げるのはあんたが思うほど並大抵のことではない」という反論もまた然りで、でも並大抵ではないことをしようとするのが制作という生業じゃないかとも思う。もちろん、非日常的世界の中で非日常的生活を描く作品のうちにも、優れたものは多い。それは当然のことで、飽和した日常に中毒を起こしてしまった人間にとって、非日常は特効薬のようなもので、現代にはそういう人間が少なからずいる。いわゆる日常モノの流行は、今度は非日常に中毒を起こした人間たちによる反動の現れだという説明もまたもっともらしい。

最近は科学によって近未来への展望が開けてきたせいか分からないが、妙にSF仕掛けの作品(とりあえずここではアニメ・マンガ・ゲームを想定している)が増えてきた。ぼくはなぜかすごくそういうものを見るとウズウズしてしまって、居た堪れなくなる。

どこにウズウズしているのか分析してみると、どうやら舞台設定に恣意性を感じるところが生理的に苦手らしい。つまり、「こういう設定があるからこういう事態になった」ではなく、「こういう事態になるためにはこういう設定が必要だ」という考えのもと、設定が仕組まれているように感じてやまない。事態を進行させるたびにどんどん設定が増えていき、煩雑になっていく。この煩雑さを作り込まれていると呼ぶのは正しくても、よく作り込まれていると呼ぶのは躊躇いがある。あるいはもっと杜撰だと抽象的な物言いに終始して、曖昧な科学設定で物語がコロコロ転がっていく。

そもそも自然科学とは大概必然的なもの(とまでは行かずとも恣意性が時の中で排除されてゆきやすい分野)である。SFを「ScienceだがFictionでもある」と捉えるか「FictionだがScienceでもある」と捉えるか。ぼくはおそらく後者の方に偏っている。そして大体の場合幻滅して終わる。煩雑な設定で無理矢理こじつけて物事を説明するくらいなら、いっそ魔法や奇跡というブラックボックスを登場させてしまった方が潔いと思ってしまう。そういう点でFateシリーズはデウスエクスマキナの存在を容易に仮定できるので安心して見ていられる。

これはぼくが物心ついてから一貫しているスタンスであることは間違いない。人工知能だとかウイルスだとか仮想現実だとか魂の解析だとかサーバーだとかコードだとかタイムリープだとか企業の思惑だとか、ぼくはそういったものよりも人を知りたい。思索や葛藤や慕情や執念や愁情や美意識を知りたい。

イノセンス』や『パプリカ』が面白いのはSFだからではない。真に優れたものは設定に依らない。

結局何が言いたかったのかな。まずぼくがSFに向いていなかったということ、あとはそれを抜きにしても新島夕さんは多分SFに向いていなかったということ、それと過大な期待は予後不良だということ。

好き嫌いなんて既に直感で決まっていて、あとは論理で後付けして補強していることがほとんどだから、他にもいろいろ言い様はあるはず。それでもヒロインはきちんと可愛かったので、別に後悔はしていないし、美少女ゲームという観点からはむしろ感謝している。ありがとうございました。

 

打たれた杭はもう出ない

今日はなぜか澱んだ一日だった。無音の中で妙な生きづらさを感じた。椅子に座って、大きく深呼吸して、それが過ぎ去るのを待った。昨日書き殴った感想もどきを思い出して、多分あれが原因だと突き止めたりして、袋小路で曇り空を振り仰ぐ。

何かを否定することがどうしてこんなに哀しいことなのか、分からないけれど、大概何かや誰かの否定をするとき、自分の心も反射的に創を負ってしまう。それが、誰かががんばって作り上げたもので、かつては自分が一方的にでも信頼を寄せていたものだったら、なおさら。ひとたび自分の口から出たものは、自分に返ってくる。

人であれ物であれモノであれ一度生み出されてしまったものを否定的に捉えるには、ぼくは甘すぎる。他人に甘くて、自分に甘い。ダメ出しが何ら意味を生み出さない場面では、とりあえず祝福して二の口は噤むのが一番心穏やかに過ごせるはずだと信じてやまない。我慢できずに出てしまった悪口を悔やむという経験は多分誰にでもあるのではないか。

感想を書いた感想というものを書くのは多分今回初めてかもしれない。これ以上のメタ感想は控えた方が、良さそうだ。

 

memento

窒息や誤嚥を防ぐために管を口や鼻に突っ込んで吸痰する。排尿できなれば管を尿道に突っ込んで導尿する。水分や栄養が摂れなくなれば管を血管に突っ込んで点滴する。歳をとれば多くの人がそうなる運命にある。いつか自分がそうなるし、その前に自分の親がそうなる、というささやかな予感のうちに生きている。時間を空け不連続に会うたびに、親が老い路へすでに足を踏み入れていることに気付く。

有吉佐和子の『恍惚の人』は50年ほど前に書かれた中編小説だが、高齢者介護に対する鮮烈な印象を50年後になってますます強く抱かせる。認知症になった夫の父親の介護を血縁的には無関係の妻が押し付けられ、その中で苦悩と屈辱とわずかな悦びを感じ、そして最後やり切れぬ哀しみの中で物語は終わる。今の世は社会構造が良くも悪くも変わりつつあるが、環境が変わっても感情の渦の様式は大きな変更を迫られない。

認知の前に身体が先に衰えても、身体の前に認知が先に衰えても、どちらもmiserableであることに変わりはない。願わくはどちらも同じタイミングで終わりを迎えることだが、そう上手くいくことは少ない。

まだ若いときには綺麗にすんなり消えてゆきたいという意識が強いが、これが数多くの柵の中で長年生きるとまた話は別になってくるんだろうか。培ってきた生に執着が生まれて、美意識より優先されるようになってしまうんだろうか。

若者はあまりにも死から遠すぎて、一人称の死というものを二人称の死の延長線上でしか捉えることができない。死について実践的に最前線で考察し続けたキューブラー・ロスでさえ、自らが脳梗塞により左半身不随となった際には、一身では抱えきれぬ苦痛に苛まれた。いわんや無覚悟なボンクラをや。

だから、死の覚悟はなくとも老いの予感くらいはつねに持っておきたいなと、大きすぎる時計の前でそんなことを想った。

 

幻影、あるいは夢

前向きに生きるために、面白かったゲームの話をしようと思う。Playdeadが制作した『LIMBO』と『INSIDE』、それぞれ発売年は2010年と2016年。『LIMBO』はモノクロ・ファンタジー仕立てで、『INSIDE』はカラー・リアリスティック仕立てといった差はあるが、両者ともに卓越しているという点では一致する。個人的には『INSIDE』の方が一歩先んじていた。

第一の感想として、余計なものを一切排除したという印象を受けた。突然始まる主人公の物語にあからさまなチュートリアルは無粋であり、過度の説明で主人公の知らない事実をプレイヤーだけが知るのは興醒めであり、雰囲気で伝わることに言葉は必要ない。

情報の乏しい世界で、孤独による不安が根源的な恐怖経験であることを、主人公と同化したプレイヤーは思い知る。『LIMBO』が救われなさだとすれば『INSIDE』は救いの無さ、『LIMBO』が自由落下運動だとすれば『INSIDE』は放物運動で、結局重力に巻き込まれて終わる。

何においても描き過ぎないことは大切だ。基本的に我々は「詩」を求めていて、全てが表現され尽くしてしまったものは、ただの事実になってしまう。意味を求め過ぎないこと、答えを求め過ぎないこと、結論を求め過ぎないこと。それらの先に趣が現れること。そうして、ぼくは脳から変な汁が漏れ出るのをたしかに感じた。

アクションパズルとしての面白さは言うまでもない。オススメです。

意味の無意味さ、あるいは無意味の意味、という話で思い出したが、それを究極まで突き詰めてしまったパズルゲームが『The Witness』なのかもしれない。これは島中に散らばる無数のパズルをひたすら解き続けるだけのゲーム。この「だけ」というところがまた重要なのだと思う。無心になって、3D酔いに耐えながら、世界観の明示されない世界を過ごす。たまに意味があるような意味がないような欠片を見かけて、首を傾げる。

禅は人々を、不可得という仕方で自証する自己に目覚めさせる。これは鈴木大拙の言葉だが、よく意味を咀嚼しないまま、頭に浮かんだ。

 

沼地の墓

sound voltexという音ゲーを、そこそこぼちぼちあれこれペチペチやり続けて、ようやく最高段位(の一コース)をクリアした。

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ここに貼るのも場違いかと思ったけれど、他に貼る場もなかったので、超嬉しかった記念に一枚。

一つの物事をしっかりやり続ける作業を長らく怠っていたので、久々にきちんとした達成感を得た。ただ、HUNTER×HUNTERならハンター試験会場の最寄の港に無事辿り着いたくらいのレベルで、多分これからがゲームとしては本番なんだろうと思う。こういうゲームはやればやるほど、自分が上手になっていき、その分自分がまだ下手だと気付かされるので、あぁこいつはすでに沼に入り込んでいるなと実感する。

 

上手くない?  あ、やっぱ下手だ  沼の中  
        ──よみ人しらず