墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

トルストイについての覚書

・表題について
 もとより、僕は小説の内容自体よりも小説同士の呼応や比較を興味深く思う性質だった。図々しい自己評価をするならば、そのような意味において文芸家というよりも批評家寄りと言えるのかもしれない。だから、何かを読んでいるときには、それ自体にはかなり注意が散漫で、他の書物、あるいはその書物内でこれまでに書かれていた内容のことを考えながら、目の前にある文章については上辺だけをなぞっていることが多い。この傾向は書物に限らず、もしかすると映像の方が分かりやすい。映像内で場面がA→B→Cと変化していく中で、場面Aが流れていたときに、Aについて、あるいは他作品内の類似したA´について考えていたところ、情報処理が追い付かずにいつのまにか場面がCになっており、(もし巻き戻せる状況ならば)急いで場面Bへ巻き戻す……ということが起きる。結局これは能力の問題で、頭の回転が速い人や、考える内容を目の前のスピードに合わせて自制できる人が、良い批評家たりうるのだろう。では、このように良い文芸家にも良い批評家にもなれなかった人間が、トルストイの『戦争と平和』を読み、そして何か書こうと思い立ったとして、何を書くだろうか。きっと、それについて詳しく書くのではなく、それを読んだことによって自分の中で整理された何物かについて書くに違いない。

・どれから
 かの小林秀雄は、小説は何を読んだらいいか、という人々の質問に対し、かならず「トルストイを読み給え」と諭しており、その中でも『戦争と平和』が第一の候補であった──という話を読んでから早くも数年経っていた。なぜ数年もぼんやりと立っていたか。第一に、小説は何を読んだらいいか、と思うことがこの数年そもそも特になかった。これは考えてみれば大変幸せなことで、精神的な飢えをほとんど感じずに生きていたということである。第二に、著名な文芸家である小林秀雄の感性と一介の読者でしかない自分の感性に齟齬があるかもしれないと考えていた。凡人には天才を理解できないといった現象が起きうるのではないか、自分にはもっと頭お花畑の作品が似合っているのではないか、というわけである。そして第三に、長い。これはまったく文学的ではなく現実的な理由だが、しかし多くの人間にとって、もっとも重大な理由だろう。僕はその分厚さを一切考慮しないほどの本の虫ではない。
 そんなあるとき、友人に同じくトルストイの『アンナ・カレーニナ』を勧められた。近しい友人が薦めたということもあり、また比較的飢えていたこともあり、半信半疑で縋りつく思いで読み始めた。たしか光文社古典新訳文庫の比較的新しい翻訳だったと思う。それから、一巻を半分読み終えたあたりで、なるほど、と思った。世間の評価が云々はさておき、なるほどこれがトルストイかと。(「なるほど」の具体的内容については後ほど触れる。)そんなに暇な時期でもなかったのに、半月ほどで読み終えていたことを見ると、当時の僕は『アンナ・カレーニナ』にかなり夢中だったらしい。そして、はじめてトルストイを経験した僕は、もう当分の間はいいかなと思った。読むだけで体力は使うし、そして精神的には満足感を超え、むしろ胃(心?)もたれが凄かった。
 それから約一年後、今から約一月前、その経験の記憶が薄れてきたとき、ところで『戦争と平和』とかいう小説があったっけ、と思い立ち、数年の時を経て、小林秀雄の声に従うことになる。

・それから
 「トルストイは優れた作家である」と言うには、トルストイと他の作家が違うこと、そしてその差異がすなわち優劣であること、の二点を示す必要がある。しかし、後者の命題について、僕は必ずしも正しいとは思い切れていない。だから、優劣の判断は留保した上で、彼の特殊性について語ろうと思う。
 トルストイの特殊性、それは度を越した群像劇である。群像劇としての基本に則り、彼もやはり多視点から物語を回していく。群像劇であることは、彼の生きた時代において一般的であったかは知らないが、少なくとも今となってはそこまで特殊でも何でもない。しかし、現代になってもその法外さは、あまりに特異であり、抜きん出ている。新潮文庫版の訳者である工藤精一郎によれば、『戦争と平和』には、皇帝から貧民まで、老人から赤ん坊まで、核となる人物から舞台の末端を演出する人物まで、全部で559人の登場人物がいるらしい。もちろん、それらの人物が全員主人公格であるわけではないが、描写の多寡はあれども、そこに濃淡の差はほとんどない。以下は、ナポレオンが悪戦苦闘の末にモスクワへ押し入り、その結果混乱に包まれたモスクワが大規模な火事に襲われている場面である。

小道のわきの埃をかぶった枯草の上に、羽根布団、サモワール、聖像、長持などの家財道具が山積みされていた。長持のそばの地面に、黒いマントを着て頭巾をかぶった、反っ歯の痩せた中年の女がすわりこんでいたこの女が身もだえして何やら口走りながら、はげしく泣きじゃくっていた。十から十二くらいの、膝きりのきたない服とマントを着た二人の少女が、蒼いおびえきった顔にけげんそうな表情を浮べて、母親を見ていた。小さな外套を着て、だれかの大きな帽子をかぶせられた、七つばかりの末の男の子が、年老いたばあやに抱かれて泣いていた。きたならしい裸足の女中が長持に腰掛けて、白っちゃけたお下げを解き、においをかぎながら、焦げた髪の毛をひきむしっていた。輪の形に頬髯を生やし、まっすぐかぶった帽子の下からきちんとなでつけた鬢をのぞかせた、制服姿のずんぐりした夫が、無表情な顔で、積み重ねた長持を動かし、その下から衣服のようなものをひっぱり出そうとしていた。

 この密度で、人物描写や情景描写がねっとりと続いていく。彼等は特別に中心人物というわけでもなく、数ページの間だけ焦点を当てられてはまた消えていく登場人物の数人に過ぎない。にもかかわらず、惜しみなく表現され続ける。あるときは煌びやかだが思惑が錯綜する上流階級のサロンで、またあるときは小汚く口うるさく率直な下級農民たちの集う酒場で、そしてあるときは銃弾砲弾の飛び交う戦場で、視点があちこちに切り替わり、その都度個性を与えられた人々が動いてゆく。
 登場人物全員に対して遍く降り注がれた執着心は、おそらくトルストイ歴史観にも依っている。しつこいくらいに『戦争と平和』には彼の主張が言葉を変えて繰り返される。

人間はみな自分のために生き、自分個人の目的達成のために自由を利用し、いまからこれこれの行動をすることもできるし、しないでもかまわないと、自分の全存在で感じている。ところがそれを実行するやいなや、時間の中にある一定の瞬間におこなわれたその行動は、もはやあとへもどすことのできぬものとなり、歴史の所有に帰して、歴史の中で、どうにもならぬ、まえから定められていた意義をもつことになるのである。

 1812年のロシア戦役は、ロシア皇帝アレクサンドル一世とフランス皇帝ナポレオンがそれぞれ両国民を代表して、彼等自身だけによって行われたわけではないし、ナポレオンが敗北を喫したのは、彼が愚かであり、またロシア軍総司令官クトゥーゾフが優れていたため、というわけでもない。いわゆる歴史的事実と呼ばれるものも、結局は一人一人が己の意志に従い行動したがゆえの結果である。それら事実が過去の中に取り残され、後世の人々によって解釈されることで、総体化と因果関係という秩序の中に組み込まれていく。もっとも、トルストイ自身は、人が己の意志だけに従い、完全に自由に行動できるとは思っていない。人はある程度は必然の法則によって、(彼はその内容を大きく三つに分類しているが、)例えば「恥知らずな父親の息子の恥知らずな行為、ある環境に落ちた女の醜行、酔いどれの飲酒への逆戻り」など、縛られている。しかし、完全なる自由がない代わり、完全なる必然もなく、自由と必然は常に互いに緊張関係にある。
 この歴史観に則り、安易に集団意志といった不確定なものに頼るのではなく、最小単位としての個人の行動、思考、相互関係をそれぞれ緻密に追っていくことで、歴史の真の姿を抉り出したい、と強く願ったことが、『戦争と平和』を作り上げたのだろう。トルストイは己の小説の要約に全力で抗った。「要するに」という抽象化による支配を受けることは、つまり彼の精神性の敗北を意味するからである。

・あれから
 特殊であることがすなわち優れていることを意味しないのは、既に述べた通りである。実際に、僕は『戦争と平和』を読んでいてそれほど面白いとは思わなかった。(ここで論点がすり替えられているのはどうか見逃してほしい。優れていることと面白いこともまた必ずしも一致しないのだが、それを扱おうとするとあまりにも面倒くさい話になるので。)『アンナ・カレーニナ』を読んだときに感じた、あの興奮にはまったく及ばなかった。この理由について少し考えてみたところ、案外単純なことが原因だったのかもしれない。
 まず、『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』を比較したとき、人間たちを描くことで世界に輪郭を与えていくというトルストイの重厚な精神性がより露骨に現れているのは、前者である。この二作品はそれぞれ1869年と1877年が初版であり、時系列的には『戦争と平和』が書かれてから『アンナ・カレーニナ』が書かれたことになる。これは僕の憶測になってしまうが、彼はストイックで自己批判的な人間だったために、『戦争と平和』で自らの思想を表に出しすぎてしまったことを反省し、より一層の洗練を目指して『アンナ・カレーニナ』を執筆したのではないかと思う。
 『戦争と平和』はあまりに現実の話だった。それは彼が目指したことであったから、失敗ではなく、むしろ成功なのだろう。しかし、現実であるがゆえに味気なく感じてしまうということもある。だって、仮想の世界を志向する理由の一つは、現実に味気ないことが多いからでしょう……なんて、こんなことを言ったら怒られるのかな。一方で『アンナ・カレーニナ』はドラマティックな展開がふんだんに盛り込まれており、その代償として多少の非現実性、わざとらしさが付きまといながらも、トルストイらしさ(と僭越ながら僕が思っているもの)は保たれていた。だから、『戦争と平和』が生々しいトルストイを直接感じられる作品とすれば、『アンナ・カレーニナ』は毒抜きした上で上品にトルストイを味わう作品という印象を受けた。あとの評価は、読者の偏好に委ねられることになる。

・これから
 『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』は、同時代の多くの人々を取り上げて、空間の広がりにより広大な小説世界を作り上げたが、他にも、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は連綿と続く血脈により時間の広がりを持たせて、やはり広大な小説世界を作り上げた。ゾラの『居酒屋』や『ナナ』なども作品群で見ればとてつもない時間の広がりを持っている。どうやら人は広大なものに対して本能的に賛美の心を抱くようだ。わざとそれっぽい作品をいくつか取り上げたが、その傾向は現代にも根差しているように感じる。例えば、ジャンプ史上に残るような、王道を征く傑作漫画たちは個性的なキャラクターが数多く登場している。Fateシリーズがここまで市場を占めるようになったのは、購買戦略による成功もあるだろうが、そこに至るまでに作りこまれた広大な世界観もまた一つの理由だろう。現代がデータベース消費社会と言われるようになって久しいが、それでも要素に分解できない何かを求める心は、単純には割り切れぬ広大なものを志向する感情としてまだ人々の中に残っている。