墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

語り部の永遠の不在

ごく平凡な出来事が冒険になるためには、それを物語り始めることが必要であり、またそれだけで充分である。人びとはこのことに騙されている。というのも、ひとりの人間は常に話を語る人で、自分の話や他人の話に取りかこまれて生きており、自分に起こるすべてのことをそうした話を通して見ているからだ。そのために彼は自分の生を、まるで物語のように生きようとするのである。

 

ジャン=ポール・サルトル 『嘔吐』 (鈴木道彦訳、太字は作中傍点部)

 

欲しいもの、ドラマ。生きるのに必要なのはこれに尽きる。人はドラマを求める。序破急を、起承転結を求める。ここに自分がいることを感じたい。物語の主人公、せめて登場人物になりたい。

夜、空を見上げて、立ち止まる。天蓋は遥か遠く、星はスポットライト、僕は世界の中心。これは小説の一節、もしくは映画のワンシーンなんだ。暗い路地と等間隔に並ぶ電灯。かすかに聞こえる騒ぎ声。涼しくてぬるい風。空を見上げる男。自分に酔い痴れて心が疼いて全能感でたまらなくなって、それこそ星が瞬く間におーいここは現実だよと脳髄から指令が届く。心地よさをふり切り、退廃の残滓を噛みしめて、どこか歩きづらさを感じながら、また路地を歩いてゆく。自動販売機でペットボトルのお茶を買って、喉を冷たい液体が通るのを感じてようやく地面が現実に戻る。中二病もそろそろ治さないと。

 

生まれてこの方、僕の周りでドラマが起きたことはない。いや、こんなどこか厭世家を気取って、僕の周囲だけ大した出来事が起きないと思うことで、平凡さを逆説的にアイデンティティにしようとするのは間違っている。結局、いくら事が起こっても語られない事は物語にはなりえない。だって、物語は物を語るって書いて物語なんだからね。

だから、ドラマに本当に必要なのはイベントじゃなくて、語り部。もっと言えば、イベントさえ必要ない。平凡な高校生が紡ぐ平凡な物語、なんてものは大うそで、語られて物語になれた時点で非凡なんだよと常日頃から嫉妬に悩まされる。

物語のキャラクターが狂おしいほどに羨ましい。それが優雅に暮らす貴族でも、生活に困窮した下層市民でも、平凡を平凡に続ける平凡な人間でも。語られることの特権は、何ものにも代え難い権利だ。

彼らは語り部に対して、何一つ抗う手段を持たない。彼らがいくらメタ的な発言をしたところで、しょせん操られ続けるマリオネットでしかない。次元の違う奴らにただ一方的に語られる代わりに、物語上の全ての責任は語り部に押し付けられ、彼らは綺麗なまま物語へと昇華していく。僕は、語られるだけのために生まれては消えていく彼らが、ひどく妬ましい。

 

現実を生きる僕たちが、まっさらに綺麗なかたちでは語られることは、ほぼない。語られることや語られた内容に対して逆らえるから。誰かに見られることを意識してしまった時点で、全てが屈折してしまうから。(視覚に訴える、とよく言われる通り、見られるということはもっとも簡単な語りの一つだ。)

既にこの世にはいない歴史上の人物を描いた小説。屈折率は低い。でも、これは現実を生きていた人であって、いま現実を生きてはいない。死んではじめて舞台上のマリオネットになれる。生者は概念上の世界に飛び立つにはすこし身が重すぎる。

世間で喚かれている言説。あまりに多くの人の目を通じていて、まるで歪んだ万華鏡のように屈折と反射を繰り返す。みんな語ることに慣れすぎて、語られる内容に目をむけず、ただ汚い何かを美しいものだと信じこんで周囲に押し付けてゆく。

自分語り。ドラマを目指すあまり、自らで脚本家も演者も担当して自分劇を始めてしまう。一番醜いけど、一番自然で人間的な終着点。平均的に脆弱な精神を持っている人なら、この世には真の語り部はいませんと言われることに耐えられない。たとえ何かに語られていたとしてもそれは私たちには知りえません。あなたは一生舞台の上には立てないんです。

 

どん底の人生の涯、いまわの際に生の悦びに気付く。何かを求めあがき続けてどこまでも堕ちていく。報われようとも報われなくともただひたすらに全力で生きていく。滅びゆく世界で最後の一瞬まで生き続ける。もう二度と出会うことのない二人がお互いを想い続け、思い出の中を背中合わせに歩んでいく。

ぼくは、生きることを過大に誇張して演出する、これらの“偽物”が大好きだ。それらは舞台の上で物語られるときに“本物”になり、究極のドラマを作り上げ、僕の心を突き刺し、苦しめる。かたや、観客席で声を荒げることに疲れた僕は、たまに周りに聴こえるような独り言で自分を慰める。この対比が、乖離が、矛盾が、齟齬が、今の僕を不格好に支えている。