墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

年の終わりと終わらぬ時と

また一年が終わります。流るる季節はその残り香だけを心に染み付かせて僕の上を通り過ぎてゆきます。宝石のような寒空に凍えた手が陽気な春一番に芯まで溶かされて、眩しさの下で滴り落ちる汗の粒は色づく葉の上に朝露を落とし、そしてまた──。

 

ぼくは自分が嫌いなくらいに大好きなので、自分のことをよく見つめます。自分のことをよく護ります。自分のことをよく虐めます。論う、これで「あげつらう」と読むようですが、特にこの一年はスキとキライの論いがマーブル模様に溶け合ってぼくの頭では到底分からないくらいに曼荼羅が広がっていました。

結局言い争いはだいたい同じ場所で睨み合いに終わりいつまでも結論は出ず、こころ、というか頭だけがヘトヘトに溶け、ポカンと呆けています。自分は阿呆なのかな、と思いながら、いやいや自分はきちんと考えている、と思いながら、どちらにしても自分は今ここにいる自分だな、と思いながら。

このように、何かの価値や意義ということをいきなり超えて、あるいはそういう面前の問題から逃げるために、自分は一体どこにいるのだろうか、ということも考えてしまいます。もちろん今ここにいるんだけど、おかしなもので、それは違うような気がして、なんだかムズムズして、でもムズムズしてるのは自分で、自分から逃れられない自分を見つけて、頭をかかえます。どうして、ぼくは自分ではなく、彼や彼女であってはいけなかったのでしょう。

そういうふうに悩むこと自体に意味がある、という慰めで生き延びる手立てもあります。現に最終的にはこの自己弁護がぼくのこころを護ってくれています。でも自分を護るのが自分って、ちょっとカッコ悪くって、あとやっぱりあんまり信用できなくて、いたたまれなくなります。

それで、あーあ、と意味もない声を出して、用を足すために椅子からとつぜん立ち上がると、いつもの立ち眩みに真白の視界の中を揺蕩って、そのときに、うわーんさっきまで考えてたことぜんぶ忘れちゃったぁ身体は言うこときかないしけっきょく人間はポンコツだなぁ、とか嘆きながら、頭に血が巡るのを待ってからお手洗いに行きます。この嘆きが意外と気持ち良かったりします。議論とか前提とか全てぶち壊してくれるところが特に。強制的に何もまともに考えられなくなる瞬間はなんだかとても気持ちがいい。剥き出しの生物でいられるとき、自信をもって、はい!自分はただの物体として今ここにいます!と言えるような気がして、それが心地よさを与えてくれるのだと思います。瞬間的な則天去私、とでもいうのでしょうか。

ぼくが人生でかなり厳密に鮮明に信じられるのは、今のところこの経験くらいなので、ここが出発点だなと考えています。出発点が分かるだけで、すごく落ち着きます。もしグダグダになっても立ち返る場所がある、というのはたいへんなこころの支えです。どこに向かえばいいのか分からなくても、心がけっこう穏やかでいられるものです。

 

それから、この一年でもうひとつ、この経験ほどではないけれど、信じていいと思えるものが増えました。それは自分の揺れ動く心の存在です。ぼくは自分の感情を自覚するのがひどく苦手なようで、自分が今何を考えているのか、ということはある程度素直に分かりますが、自分が今何を感じているのか、ということになると、よく分からない。感情の解像度が低くてぼやけてしまいます。嬉しい、笑える、切ない、悲しい、こわい、しんどい、ムカつく。形容詞と動詞を交えても多分このくらいしか分かっていませんでした。

ただ、切なさについてだけは幾分か敏感だったような気がします。ぼくは自身の人生や他人の物語を通して、いろいろな感情のうち、切なさというものだけは、真摯に理解できていたと思います。詫び寂びくらいは弁えていたと思います。でも、それは、あーいいな、と思うくらいで、切ないと良いの違いもよく分からなくて、ぼくは今感動している、という自覚にはほど遠い状態でした。

皮肉なことに、ぼくに感動のあり方を教えてくれたのは、感性ではなく思考の方でした。ある作品に触れ合ってから、時間が経っても何かが心の奥底にこびりついて、日常に侵蝕してくる、という感覚が何度かありました。ぼくはそれを何らかのバグのような扱いで、なるべく無視するようにして、生きてきました。

この、侵蝕される日常、という経験が積み重なって、ある日、というほど明確な区切りがあるわけではありませんが、ようやくぼくの頭は理解しました。これはもしかして、心が揺れ動いている、ということではあるまいか。過去に何度も経験したこの心の運動を思い返してみると、大体が相似形を描いている。なるほど、これが感動か。そうはじめて実感とともに自覚するようになったのです。

この歳まで、感動、より広く言えば自分の心の動き、ときちんと向き合ってこなかった代償はかなり重いものです。だけれど、心のあり方を自覚するようになってからは、素直に自分の感動を受け入れるようになったように感じます。

この感覚に慣れはじめた最初期は、感動、というものはやはりパチモンではあるまいか、とどこか懐疑的に受け止めていました。その疑いを晴らして自分自身を納得させるには、自分の好きな作品を何度もくりかえす、という反復練習をせざるをえませんでした。ほら、この、心が不安定な感じは、やっぱりその場限りの作り物ではないよね。これが作り物だとしたら、こんなにこころが苦しいはずないもんね。そう何度も何度もくりかえしました。

作品の絶対的な評価法とか分かんないけど、生きている意義とか実在とかもっと分かんないけど、この揺れ動いた心、という経験は信じてもよさそうだ。ここもまた別の出発点だ、と認めるようになりました。

 

異なる二つの出発点。言葉にしてしまうとチープな感じになってしまいますが、僕の心の中ではオアシスのような存在です。でも、出発点というのは、言いすぎかもしれません。ここからどこか新しい境地へと旅立つような未来も見えない。だから、それは心の拠点です。人生は基本守りです。無理にどこかへ旅立つ必要もない。

結局自分が信じられるものを見つけて、それに縋って心の拠点を増やしていくしか、このよくわからない世界というものの中でよくわからない自分というものを生きていく方法はないのかなと思います。この謎方法論が、この一年、もしくは二十数年の蓄積、を過ごした確かな証で、これからの暫定的方針です。

自分にはどうやらジメジメしたことを考えつつもなんとかして前を向きたいという心が運良く備わっているようです。やってること、考えてることはネクラでも、こころ自体は存外健康なものを持ち合わせているようです。本格的につらい事にぶち当たるのは、きっとこれから先のことで、そのときにも同じ健やかさを保っていられるかどうかは分からなくて、だからまだ確かに信じられるものではないけれど、自分の心が簡単には壊れ切ってしまわないくらい頑丈だといいなと、ほんとうに強く願っています。ぼくにはもう願うことしかできないので。

二度と訪れないこの一年に、一年に一度の最後を過ごしている、この“自分”くらいは、過去の自分を代表して未来の自分を応援してあげてもいいだろうと、そう年の瀬の魔性に身を委ねたまま、モラトリアム最後の年を越します。ところで今日はコミケに行ってきました。疲れました。おやすみなさい。