墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

さよならスポンジくん

先日、流し台の片隅にて、この部屋最初で最後、唯一無二のスポンジが、無残にもカビだらけの姿で転がっているのを見つけました。ぼくはすぐに次のことに気付きます。これでは、どんなに皿を洗いたくても、この部屋に残されたスポンジはもうない以上、皿を洗うことはできない。それなら仕方ないな全くもって本当に仕方ないと、数ヶ月ぶりの皿洗いは無念にも未遂に終わるのでした。とりあえず今はカビがスポンジに飽きて立ち去ってくれるのを待っているところです。

 

さて、これは一応笑いごとなわけですが(笑えなかったらすみません)、これが笑いごとになりうるのは皆さんにとって他人事だからです。笑いの必要条件として、他人事である、ということは欠かせません。実際に、このカビまみれスポンジ発掘事件は当事者のぼく自身にとって笑いごとであるはずがない。大体スーパーまで新しいスポンジを買いに行くのなんて面倒事でしかありません。それでも、今これを書いているぼくは笑いごとだと思っているし、心の底から笑うことができる。それはなぜか。

自分について喋ったり書いたりすることは、その経験を自身と切り離すことにも等しいことです。もう少し堅苦しい言葉を使えば、自分の外的・内的経験を外部に発露するということは、本来連続しているはずの今の自分と昔の自分を峻別することです。喋っている今の自分と喋られている昔の自分、あるいは書いている今の自分と綴られている過去の自分。自分語りには、かならずそのような分裂が発生します。

カビまみれのスポンジを見つけた過去の自分(そして、皿洗いと尻拭いをするために嫌々スーパーへ向かう未来の自分)と、それを他人に語る今の自分。もちろん両者ともに「ぼく」なのでしょうが、いまの時点では後者にかなり寄っていることは間違いありません。つまり、過去や未来の自分のことは今の自分にとっては他人事だし、それゆえに笑い話、ということになりうるわけです。

自分を語ることによる自己の分裂は、一種の精神防衛機能として人に備わっているものだと、ぼくは勝手にそう思っています。例えば、人はなぜ自分の後ろめたい過去、「黒歴史」を語れるのか。それは今の自分はもう黒くないからです。いや、より正確にはこうなのでしょう。黒歴史を語る事で今の自分が昔の自分とはっきりと区別され、黒くなくなるから。一生黒いままではまともに前を向いて生きていくことができない、じゃあどうしよう。そうか、語る事で過去とサヨナラしよう。かくして安穏な精神が手に入ります。

反省という行為にも近いものがあるかもしれません。何かしら失敗を為した昔の自分を、今の自分が客観的に分析することで、自分を過去から切り離す。そしてさらにその分析を未来の自分─真っ白でいまだ穢れのない自分─に託していく。この視点から言えば、自分の非をあまり認めたくない人は、時間軸としての自分を重んじる人(昔と今で自分は同じ)で、自分の非を容易く認められる人は、現存在としての自分を重んじる人(今の自分が一番大切)なのでしょう。

この切り離しの極限として、今の自分と昔の自分ではなく、今の自分と今の自分で分裂してしまった結果、精神症状として解離性障害などが現れるのだと想像していますが、正直専門外なのでよく分かりません。でも、どんなに異常な精神症状も、恐らくは健常者の心的反応が極端になっただけのものではないかな、と思っています。(異常か健常かは質の差ではなく、量の差ということになります。)

切り離すのは黒歴史や過去の失敗のように醜いものだけではありません。 自分の内に芽生えた何かを、確固たる形に象ることで、自分から切り離す。自分と一体化して混然としていた「それ」に形を与えて外部に放出するということは、カタルシスとなって日々の鬱積をある程度払い除けるだけの力があります。語る事でサヨナラ、するのではなくむしろコンニチハ、なのかもしれませんが。

 

何かを語る、ということにはどうやら様々な利点があるようです。自分の世界を構築する、自分の世界と他者の世界を擦り合わせる、世界における不明瞭なものの輪郭を鮮やかに描いていく、逆に不明瞭なものを曖昧なまま楽しむ、などなど。その中でも、自分の心を救うという作用はとりわけ大切なことだと思います。ただその重大な副作用として、分裂を繰り返しすぎると、どれが本物の自分か分からなくなるということがあります。これはいまだに厄介な難題ですが、根本的存在(造語、多分もっと適切な哲学用語があると思います)としての自分を自覚することに尽きるのではないか、みたいなところに今は答えを求めてしまいます。

なんか前の記事と似たようなところに収まってしまった。試験勉強ばかりしていると、頭がとろとろと鼻の穴から零れ落ちてゆく感覚がありましたが、何かしら語ったおかげで、ぼくは少し救われたような気がします。それにしても、全自動生活機が欲しいなあ。朝。