墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

ふたことみこと

 ひとこと、と呼ぶには長すぎるため。

 四月の前半は生きるのに精いっぱいで、最低限の生活しか出来なかったけれど、後半に至ってようやく、なにかを生活に上乗せできるようになった。桜の木は気付くと青葉だけになっていた。朝の冷たさに身を縮めることはなくなった。何かについて語る気になるということは、こころが落ち着いているということで、それはとても喜ばしいこと。多分この場でさえ何も語らなくなったときが、僕のおわりです。

 

客観的主観の粋

 事実は、おおきく客観と主観にわけられる。外的と内的といってもよい。こう抽象的に何だか思わせぶりに風呂敷を広げてみても、蒙昧のごときこの身、大したことを言えるわけではない。しかし、この若干偏った二元論をもとに泉鏡花の初期作品を読んでみると、なかなか面白い。物語の断片だけでその全容を測れるとはつゆほども思わないが、まさにその断片の理解出来なさが肝要になるので、不躾に二つほど切り抜く。

 

三秒にして渠が手術は、ハヤ其佳境に進みつつ、刀骨に達すと覚しき時、

「あ。」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえも得せずと聞きたる、夫人は俄然器械の如く、其半身を跳起きつつ、刀取れる高峰が右手の腕に両手を確と取縋りぬ。

「痛みますか。」

「否、貴下だから、貴下だから。」

恁言懸けて伯爵夫人は、がっくりと仰向きつつ、凄冷極り無き最後の眼に、国手をじっと瞻りて、

「でも、貴下は、貴下は、私を知りますまい!」

謂ふ時晩し、高峰が手にせる刀に片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼になりて戦きつつ、

「忘れません。」

其声、其呼吸、其姿、其声、其呼吸、其姿。伯爵夫人は嬉しげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、唇の色変りたり。

其時の二人が状、恰も二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきが如くなりし。

─「外科室」

 

「水島友、村越欣弥が……本官が改めて訊問するが、裏まず事実を申せ。」

友は纔に面を擡げて、額越に検事代理の色を候いぬ。渠は峻酷なる法官の威容をもて、

「其方は全く金子を奪られた覚は無いのか。虚偽を申すな。設い虚偽を以て一時を免るるとも、天知る、地知る、我知るで、いつがいつまで知れずには居らんぞ。(中略)卑怯千万な虚偽の申立などは、命に換えても為せん積だ。」

恁く諭したりし欣弥の声音は、啻に其平生を識れる、傍聴席なる渠の母のみにあらずして、法官も徴収も自から其異常なるを聞得たりしなり。白糸の愁わしかりし眼は卒に清く輝きて、

「そんなら事実を申しましょうか。」

裁判長は温乎に、

「うむ、隠さずに申せ。」

「実は奪られました。」

竟に白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁なる哉、渠は其懐しき検事代理の為に喜びて自白せるなり。

「何?盗られたと申すか。」

裁判長は軽く卓を拍ちて、屹と白糸を視たり。

「はい、出刃打の連中でしょう、四五人の男が手籠にして、私の懐中の百円を奪りました。」

「聢と然ようか。」

「相違ござりません。」

─「義血侠血」

 

  整った前置きもなしに旧式に書かれて読みにくい文章を羅列してしまったわけだが、実はこの二つの場面には共通点がある。それは「互いを想いあう男女の訣別」ということである。クライマックスであるにもかかわらず、このことに断片の一読で気付くことは難しい。もし一瞥しただけで捉えたとしたら、それは抜群の勘、あるいは深読みだろう。

 あらためて冒頭の句に戻ると、事実は客観と主観に分かれるという。登場人物について言えば、客観的事実とはその言動であり、主観的事実とはその心理である。と、ここで「外科室」や「義血侠血」を読み返してみると、人物の表情は幾分か描かれるものの、内心についてはわざと隠そうとしているかのように客観に偏って描写されているのがわかる。

 なればこそ、この捉えにくさの正体もおぼろげに見えてくる。普段から私たちは物語に当然のように感情表現があることを受け入れている。客観的事実同士を繋ぎあわせる糸筋として、ときには客観的事実を紡ぎあげる糸筋として、主観的事実を物語のうちに受け入れている。「太郎は次郎を憎んだ」なんて太郎以外が断言できるはずもないのに、読者はそれを事実として難なく受け入れる。しかし、とつぜん内面を見渡す神の視点を取り上げられると(それは現の世と同じ視野なのだが)、跛となった読者は躓くことが多くなり、喪った片足の重さを知る。

 

 とはいえ、主観により客観は補完される、という結論では、ありふれていてすこし味気ないので、ぼくは敢えて次のように嘯きたい。つまり、泉鏡花は、客観により主観を補完した、と。

 おしなべて最終盤というものは、自ずからその緊張感を醸し出すことが多いが、泉鏡花が断片だけではどうにも捉えづらいのは、上にも書いた通り、内面の描かれることが少ないからだろう。しかし、何度でも強調したいが、捉えづらいのは断片であるが故であって、けっして作品本来の性質ではないのである。

 断章だけでは見えないものも、冒頭より読み始め、末尾まで読み終わると不思議なことに、やはりこの二つの場面はクライマックスであり、確と深い印象を刻む。どの部分をとっても根底にある本心は露わにならないまま、多くの客観と僅かの主観だけが綴られるが、にもかかわらず行間、言葉の裏には情感が満ちあふれる。ここに、泉鏡花の卓越した技巧があらわれる。ぼくは大仰にも、この現象を客観的主観の粋と名付けたくなった。一瞬の思いつきなので、多分来週にはこの命名を忘れているけど。

 言動により炙り出される本心は、仄めかしの美徳という日本的な感性ともよく調和する。傍観者に徹するからこそ、知れないものがあるからこそ、魅惑的な妄想は自己生成的に膨らんでゆく。

 これが、泉鏡花は客観により主観を補完した、と壮語する所以であり、この解釈が理に合するかどうかは実際に手に取って確かめてほしい。けっきょく僕は僕の意見しか言えないからこれについては仕方ない。初期作品に絞って話をしたが、初期を越え書かれた「高野聖」や「眉かくしの霊」を読む限りでは、やはり客観的主観の粋は深く根付いていると感じた。

 また、一つ付記しておくとすれば、昔の言葉で書かれているということがこの議論ではまったく無視されている。旧式の言葉で書かれたものはすべて過去の“記録”であると考え一歩引こうとする無意識が、現代語で書かれたものよりも主観をより客観的に見せているのかもしれない。だから、主客の判断に若干の贔屓がある可能性は否めない。

 

 ついでにもう少し話を延べておく。

 京アニ制作の劇場アニメ『リズと青い鳥』は、映像として素晴らしい。あれは映像表現であることが作品完成の必須条件だった。麗らかな一枚絵を見せるのは漫画でもできる。手の込んだシナリオは小説でもできる。音声表現が優れているのはボイスドラマでもできる。しかし、最初の数分で、少ない台詞や挙動─たとえば歩き方、さらにはその歩幅まで─から、二人の関係性を暗黙のうちに浮き彫りにするのは、映像でなければ不可能だと、思わず感心した。

 映像は客観的事実の宝庫である。どんなに解像度の高いカメラも人の心までは映し出さない。心の声を逐一取り上げるような映像作品は駄作でしかなく、せめて独白やナレーションがいいところだが、それらもやはり多用すると違和感を生み出しかねない。ゆえに、映像作品はいかに客観で主観を補うか、というところに力点を置くと考えるのは自然なことだろう。(もちろんそれだけが力の入れどころだと言うつもりは毛頭ない。ここでは、映像による面白さと映像自体の面白さは、また別物だろうとだけ述べておく。)ぼくはその技術を体系的に羅列できるほど玄人ではないが、たとえばじっとりした梅雨に濡れる教室の窓や春の陽気に包まれた川沿いの桜並木といった風景によって、間接的に感情を描写するという手法は古典的ながら王道だ。

 そのような観点からすれば、『リズと青い鳥』は「客観的主観の粋」の真骨頂だった。そして、それはきわめて映像的な粋だった。どの一挙動にもその裏にびっしりと意味が貼りついているようで、気持ち悪ささえ感じた。むろんこれは誉め言葉なんだけれども。

 いつものように、小説の話からアニメの話に落ち着くのは、多分ここが一番心地よいから。

 

ある悲壮な感激 

 フローベールの『ボヴァリー夫人』(岩波文庫・伊吹武彦訳)をいまさら読んだ。古典を読み始めるのにいまさらということはない(と信じている)が、遠い昔に買っていたものを読み始めることに対する「いまさら」である。ぼくはあまりに有名なこの作品について多くを語る度胸はないものの、次の一節を読んだとき、エンマと通じ合う感覚があったということは自信をもって断言できる。

 

母親の亡くなった当座、エンマは泣きに泣いた。亡き人の髪の毛で記念の額を造らせたり、ベルトーへ悲しい人生観を書き送って、やがては自分も同じ墓へ葬ってほしいと頼んだりした。じいさんは娘が病気だと思って見舞いにきた。エンマは、凡人の決して至り得ない、世にもまれな、青白い生活の理想郷へ一足飛びにたどりついたのが心の内ではうれしかった。こうして彼女はラマルチーヌ風の迷路に忍び入り、湖上にひびく竪琴や、瀕死の白鳥の歌のかずかず、さては落葉の音、昇天する無垢の乙女たちや、谷間に語りたもう永遠者の御声に耳を傾けた。

─『ボヴァリー夫人

 

 理想への憧れ。その理想とは、けっして明るいものではなく、苦しみやその極限としての死─そしてもっとも重要なのはこれらが自分の体験ではなく、あくまでも他人の体験であるということ─といった悲哀に満ちたものへと志向する。想像の世界にしか存在しないような悲劇的体験を、夢想の中で自分の身の上とすり替え、そこに発生する感傷を享受する。母親の死は、エンマにとって悲劇という物語に浸るための手段に過ぎない。

 これはまさにぼくのことだ、と不遜にも思ったのは確かだった。とはいえ、これはみんなも同じではなくて?「瀕死の白鳥の歌」とか「昇天する無垢の乙女たち」とか、みんな好みの一要素だと思いたい。自らの周囲の不幸を悲劇の一章へと昇華したがるのは、みんな共通の嗜好だと思いたい。

 でもやっぱり僕は僕のことしか分からない。

 

ものの静かな姿になれているエンマは、逆に変化の相にあこがれた。海を愛するのはただ暴風雨のあるためであり、緑の草木を愛するのは、ただそれが廃墟の中にまばらに生えている時に限られていた。エンマは物事から自分だけの利益を引きだし得ねば気がすまなかった。自分の心が直接取り入れる足しにならないものは、すべて不用として捨て去った。──エンマは芸術家肌というよりは感傷家肌であり、風光を求めるのではなく情緒を求めていたのである。

─『ボヴァリー夫人

 

 感受性が豊かであることと、感傷を好むことは別物で、むしろ対極に位置さえするかもしれない。感傷を偏好することは、いつかは感傷以外を感受しないことになるから。まあ僕としては、感受性とかは放り棄てて、秒速5センチメートルみたいな作品だけを延々と観続ける人生もありだと思います。

 

エンマはただ茫然とたたずんだ。血管の脈打つ音のほか、もうわれの意識はなかった。脈の音がからだをもれて、耳を聾する音楽のように、野にみなぎり渡るのが聞えるような気がする。足下の土は波よりも柔らかく、田の畝はとび色の巨濤がさか巻き寄せるかとも見えた。頭のなかにある限りの記憶や思考は、幾百千の花火のように一時にどっとはぜあがった。父親の姿、ルウルウの事務室、遠いかなたの二人の部屋、またそのほかの景色が見える。狂いそうになった。エンマはおじけづいて、やっと気を取り直したが、もっともその気持は茫漠としていた。というのは、エンマは自分がこんなおそろしい状態になっている原因、つまり金の問題をまるでおぼえてはいなかったからである。エンマはただ恋にばかり悩んでいた。そしてちょうど断末魔の負傷者が、出血する傷口からいのちが消え失せると感じるように、エンマは自分の魂が恋の思い出を通って逃れ去るように感じたのである。

日はまさに暮れようとして、からすがしきりに飛んでいた。

突然、火の色をしたたくさんの小粒の玉が、炸裂弾のように空中に爆発して平らに広がり、ぐるぐる旋回しては、木の間がくれの雪に溶け込むかと思われた。一つ一つの玉のまんなかにロドルフの顔が見える。玉は数を増した。そして近づいてはエンマのからだに突き入ってみんな消えた。エンマは霧の中に遠くかがやく人家の火を認めた。

そのとき、彼女の境遇がふたたび深淵のような姿を現わした。彼女は胸もはり裂けるほどあえいでいた。やがて、ある悲壮な感激にひたって、ほとんど喜びに近いものを感じながら、エンマは丘を駆けくだり、牛を渡す懸橋を、小道を、並木道を、市場を突っ切って薬屋の前へ着いた。

─『ボヴァリー夫人

 

 人生における全てを失い奔走しながら、「ある悲壮な感激」に打ちひしがれたエンマは、その瞬間、彼女の目指す悲劇のヒロインへと至ったことを気付いたに違いない。彼女にとって一番の罰は平凡に生きて平凡に死ぬことだったから、恋にも金にも報われない破滅が彼女への最高級の報いとなったのは皮肉というか当然というか、なんというか、同じ感傷家として羨ましい限りだ。

 しかし、フローベールはエンマの最期を小説の最後にしようとはしなかった。エンマが死んでからも、引き続き街の様子を具に描き、夫であるボヴァリーはさらに没落していき、凡人の代表格であるオメー氏が成功者となって終わる。そもそも、この作品はロマン的感傷を否定しようとするものであることは、至るところから伝わる。それなのにクライマックスにエンマの死を持ってきては、あまりにも美しく見え過ぎてしまう。だから、そのロマンを少しでも現実によって薄めるために、エンマの人生が社会の一部でしかなかったこと、そして凡人がもっとも大成するという無関係で無慈悲な事実を末尾に持ってきたのだと察する。「ボヴァリー夫人は私だ」というフローベールの言葉は、字面だけ見ればウケを狙いすぎていて、どこまで実話でどこまで本音でどこまで本気かは最早分からないが、彼は一人の人間としてロマンを望みつつも一人の作家としてロマンに抗わねばならぬ、その葛藤に苛まれながら「ボヴァリー夫人」というキャラクターを創り上げたということだけは信じたい。

 

 ところで話は変わるようであまり変わらないが、『ボヴァリー夫人』に続いてたまたま有吉佐和子の『華岡青洲の妻』を読んだ。こちらはエンマの平凡な日常と違ってドラマチックなおはなし。けっこう面白い。華岡青洲が麻酔下の外科手術を世界で初めて成功させた、その華々しさの裏には嫁・加恵と姑・於継の烈しい確執があった、というあらすじ。その最終盤、嫁姑戦争の観察者・小陸が病に倒れ、死の床で加恵に零した鋭い言葉たちが、嫁姑戦争の勝者である加恵を「女としての苦しみ」のもとに断罪する。

 その場面を読みながら、『ボヴァリー夫人』を夢見がちな女性の理想主義が敗北するまでの物語として読むこともできれば、家庭内女性の弱さというフェミニズム批評の場で語ることもおそらく可能だし、なんだか通ずるものがあるなぁと感じた。きっと彼女たちの苦悩は、加恵は華岡加恵である前に「華岡青洲の妻」であり、エンマはエンマ・ボヴァリーである以前に「ボヴァリー夫人」であったことに多くを由来するのだろう。著者が中に何を書こうとも、読者が外で何を語ろうとも、表題は何よりも雄弁である。

 

「考えてみると嫂さん、男と女というものはこの上ない怖ろしい間柄やのし。兄と妹というたら、これは全く別ものよし。もしこの病気が嫂さんに出たのであったら、兄さんは刀取って裂いたかしれへんわ。そやけど妹には何もようせえへんのですよし。そやから血縁の女きょうだいは男には役立たずで他家へ嫁に行かせられるのですやろ。こんなことはずっと昔からそうやったのですやろのし。それでこれからも永代続くのですやろのし、家があろうとあるまいと男と女はあるのですやろから。私はそういう世の中に二度と女には生れ変りとう思いませんのよし。私の一生では嫁に行かなんだのが何に代え難い仕合せやったのやしてよし。嫁にも姑にもならいですんだのやもの」

─『華岡青洲の妻

 

以上