墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

血の軛

 父は僕を偏愛した。末っ子として、三度目ではじめて得た同性の子として、そしておそらくは教育に成功した子として。父は人格者だったから、傍観者が一瞥するだけでは周囲への愛情の降り注ぎ方と僕に対するそれとの間で見分けがつかなかったかもしれない。しかし、感情の客体は主体よりもはるかに敏感なものである。好悪の感情を覚える本人が目の前の人間に対する自身の価値判断をはっきり自覚する頃には、もう既に当の相手はその評価を把握して身の振り方を弁えていることが多い。

 父は僕を偏愛した。直系の血族としてではなく、子として。父方の祖父、つまり父の父に対して、父は冷徹だった。僕が中学生のとき、祖父は病身である祖母の闘病に付き添って、地方からはるばる我が家に居候していたことがあった。たがいに八十を超していて、多感な若い少年には終日コタツの辺を占める老人に対してあまり良い思いをせず、まるで老いが空気によって伝染することを恐れるかのようにひとり部屋に籠っていた。

 ある朝、寝ぼけまなこで朝食を口に突っ込んでいるとき、食事後の珈琲を片手にした父が、その対面に座った母を相手に言葉を交わしていた。霞の向こうから聴こえてくる会話の内容はあまり覚えていない。いつものように繰り返される議題で辟易としていたから意識的に無視していたこともあるだろう。昨日お義母さんが……、入院して……、〇〇(父の実家のある地名)に帰って……、断片だけがかすかに記憶の澱みから引き上げられる。

 子の隣で両親が愉快ともいえない会話をしていると、祖父が居間からダイニングを通ってトイレへと入っていった。今度は父は祖父の話をしはじめた。祖父に対する文句をいくつか並べたてた。義理の父に対して強く出られず、切実な夫の訴えを無碍にも出来ず、母は眉を寄せて困ったように憐れむようにただ頷いていた。そのとき、個室から大きな破裂音と液面の弾ける音がダイニングまで響いてきた。動揺した僕の心は、慣れたもので数瞬ののちに無理に均された。頭の中の霞が晴れたかのように、誰かの声が意識の上まで届いてくる。いつもよくわからないサプリなんか飲んでるからお腹こわすんだよ、もういい加減歳なんだよ。父は筋の通らない苛立ちをぼやき、母は大変ねとどうとでも取れるような返事をした。祖父は耳が悪かった。個室から息子の罵倒を聴いていたのか分からない。ただもし聴いていたとしたら、僕にはあまりにもやり切れない。誰かが悪いわけでもないのに結果的に誰もが悪くなってしまうような、そういう不条理は些細な日常にも潜んでいる。

 僕はそのまま食卓を立った。激情に顔を歪ませていた父は、とつぜん顔に朗らかな笑みを浮かべて、こちらを向いた。いってらっしゃい、気をつけてね。何かがおかしかった。親を侮蔑した直後に子を慈愛する、その不平等はどこから来たのだろう。僕は一体この人に対して、侮蔑と慈愛のどちらを返せばいいのか分からなかった。親の愛情が遍く全世界に満ちわたるものではなく、子に対してのみ一方的に集中するという重みをはじめてこのとき感じた。

 結局祖母はそれから数か月後に亡くなり、人生の片翼を喪った祖父もひとり実家で数年すごしたのちにある日孤独死した。白い衣装に包まれた祖父を見て、黒い服を着た父がほんとうの涙を流したとき、その隣で僕は場の雰囲気にそぐわない安堵の念を抱いた。父の、祖父に対する愛情が僅かでも残っていたことが、父の、僕に対する愛情の重さを軽減してくれた。それから、目の前で眠る老男性のことを自分の祖父としてではなく、ずっと「自分の父」の父として間接的に認めていたことを知るのである。

 父は僕を偏愛した。子としてだけではなく、末の息子として。姉、つまり父の娘に対しても、父は冷徹なところがあった。まだ親と姉の人格上の区別もつかないような小学校低学年のころ、愛でられることを当然の目的として二人の姉の会話に入っていったことがある。そのときの姉たちの態度は冷たく、きっと愛されるだろうという期待はおおいに裏切られた。不機嫌な姉はどんどん負の感情を露骨にしていき、親に対する愚痴が始まった。お父さんはきらい。なんで、お父さんはやさしいよ。お父さんはえこひいきなんだよ。えこひいきってなに。しらべてみな。姉弟の会話はそれで終わり、今度は楽しい姉同士の会話がはじまった。

 「えこひいき」は調べてもよく分からなかった。単語の意味がよく分からなかったし、たとえ意味が分かったとしても、その言葉が自分の環境に対して適用されるということが理解できなかっただろう。だが、時が流れ、語彙は増えていき、世界が学習によって分節化されていくと、あのときから今も変わらず「えこひいき」は続いているという事実を目の当たりにすることになる。

 時たま下宿から実家に戻り、家族とともに食事をする。姉が大皿料理を多めにー実際には全く多くないのだがー自分の皿に取るとみんなの事も考えなさいと注意するのに、僕には沢山食べてねと言ってくる。矛盾した指示に戸惑いながら、残りの分量に配慮しつつも自分の皿には多めに装うフリをすることになる。食後、姉が卓から食器を流し場に運んでいきそれを洗いはじめたとしても何も言われないのに、僕が皿を流し場に持っていくだけで親に本気で感謝されるのは、「男は仕事、女は家事」というジェンダー意識だけで解決できないほどの違和感がある。そもそも、僕は学生という気楽な身分である一方、姉はアルバイトとはいえ働いているのに、どうしてあべこべに僕だけが食器運搬ごときで感謝されなければならないのだろう。

 父は娘だけに小言を言い、息子には小言を言わない。父は仕事帰りの娘を労わず、休日にふらっと実家に帰ってきた息子だけを労う。父は家庭内で娘をあまり構わず、息子だけに構う。まさしく「えこひいき」だなと苦笑してしまう。この差異はどこに由来するのか、僕が父と同じく男だからなのか。彼は息子が欲しかったから三人も子供を儲けて、そして息子を得たから三人で止めたのか。だとすれば、僕は男として産まれるためだけにこの世に生を享けたのだろうか。性別や性差というのは本当に面倒くさい。差別される側はもちろん差別する側にとっても。

 僕は姉たちに対して罪の意識を感じている。僕だけえこひいきされてごめんなさいと。父に対して罪の意識を感じている。僕のせいでえこひいきさせてしまってごめんなさいと。僕はあなたが愛するに値しない精神性の醜い人間ですと。僕のせいで云々という意識を感じてしまう事自体、自意識デブであることの証だから居た堪れなくなる。本当はえこひいきなんてないかもしれない。父は娘と息子を同様に愛しているのかもしれない。僕の勝手な思い込みなのかもしれない。

 今でも父は僕を偏愛している。偏っているとはいえ愛情を注がれた身の義理として“立派な”人間になる必要があるという自己流の道徳が僕を奮い立たせる。一方で“立派な”人間を目指せば目指すほど家族との精神的距離は離れて、彼らに対する僕の負い目は増していく。他人に対して罪悪や憐憫の情を抱くのは容易いが、それらを撤回し親愛の情に切り替えるのははるかに難しい。

 

 今週末、実家に帰る用事があり、ついでに靴がボロボロになってきたのでせびるかなと思っていたが、申し訳なさで胸がいっぱいになった自分は親に対する頼み事も出来ないことを思い出し断念した。そんなみじめな自分を慰めるためにこれを書いて精神的自慰を致しながら良心の呵責と闘っていると、何も言っていないのに母が「これで新しい靴でも買ってね」とそっとお金を渡してきた。やっぱり母には敵わないと思った。そんなちっぽけな自分と11月の昼下がり。