墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

井の蛙は青い芝の夢を見るか

隣の芝は青い。

この諺の意図は、単純に「人は常に他人を羨ましく思ってしまうものだから、あまり他人と比べても心が波打つだけで幸せにはならない」という個人主義的人生論におさまらず、「自分の手の届かないものにこそほんとうの美しさが潜んでいる」という神秘主義的美意識にまで広がりをもつ。

ここでその美意識の是非や賛否につき議論するつもりはない。ただ、ぼくは性懲りもなく、この意識を作品鑑賞のうちに読み取ってしまう。つまり、こうだ。誠実な鑑賞者とはおそらく感動のその一部を、作品中に自分がいないということ、そして作品中の事実が自分の掌中にないということに由来せざるを得ないものだと、かたくなに信じ続けている。これがもし井蛙の思い込みだったら、以下に書くことはすべておじゃんになってしまうわけなんだけれども。

 

なんだか端から雲行きが若干不透明で怪しいので、色を付けるために、美少女ゲームについての話でもする。不幸にも今回俎上に置かれるのは3月末に発売された戯画の『アオナツライン』。

それとの邂逅はふとしたもので、正確に思い起こすことはできない。批評サイトを見て、どうやら此奴は最高なる青春をテーマにした作品であるらしいとだけ読み取り、「これは……性癖、きたんじゃね?」と心の内でウキウキしていたのは確かだった。

ぼくは性格が捻くれている割に、爽やか青春モノが好きだ。もちろん、爽快感をまっすぐに受け取るわけではない。アー青春って最高だなァーと思うわけではない。画面内に広がる青春を外から眺めることで、もう取り戻せぬ自らの過去に世界の広がりを感じ、そして感傷に浸る、というプロセスを経て、ぼくの脳髄は愉悦を感じるように出来ている。自分の心の埋まらない創をわざわざ突きにいくような人間や性癖を指して「感傷マゾ」と呼ぶ文脈があるようだが、とりあえず安易にカテゴライズするならそれだ。

ここまで書いてようやく気付く。どうやら、前言は撤回しておいた方がいいらしい。

ぼくは性格が捻くれている故に、爽やか青春モノが好きだ。

 

ちなみに、巷での評判の良さにも後押されてか、初回限定版はすぐ在庫切れになり、中古品の値段も跳ね上がったため、泣く泣く4月末に遅れて発売された通常版を入手する運びになるが、これについてはどうでもよい。とりあえず弱いオタクだったということだろう。

しかし、これだけお預けを食らいながらも、いよいよ久々に王道っぽい青春モノと直面することになり、パソコンの前に座るオタクのテンションはそりゃもう天元突破してBeyond the Earthだったわけです。数分後には、お?と思い、それから十数分後には、あれ?と思い、数十分後にはもう青春の影に呑まれて気持ち良くなることもなく、違和感の中にポツンと一人残されるとも知らずに。

 

あたりまえのこと─と、信じたい─だが、青春は純粋でなければならない。まっすぐすぎて眩しくなければならない。自分本位の限りない追求がなければならない。

おそらく第一の躓きは、あからさまな勧善懲悪(具体例をあげるまでもない)に対する僕自身のアレルギー反応だ。露骨に描かれる悪は物語内ではいずれ罰されることになる“弱者”であるからして、それを懲らしめる様子を描くのは、作者や鑑賞者という“強者”同盟による弱いものいじめに他ならない。弱肉強食を気持ち良いと感じること自体は否定できないが、それはあまりにも安直で低俗な動物的感情ではないか、と人間至上主義者ばりの演説をかましてしまう。それに、敵を打倒することで味方との絆を深めるというのは、自分本位では全くない。「敵倒して地固まる」では青春からあまりにも遠い。青春の原動力は常に自らの内にあるはず(べき)だ。

ただし、この躓きについては自分の潔癖症が一時的に発作を起こしただけと考えればなんとか納得できるという留保もあり、目くじらを立てすぎないことにした。もっとも、第一印象に目を瞑ったところで、第二第三の印象は第一のそれに引きずられることは往々にしてよくあることで、覆すのはなかなかむずかしい。

 

第二の躓きは、もう少し広い範囲に路石となって散らばっていた。

眩しいほどにまっすぐすぎることと、単純に直線的であることは似て非なる。この差こそが、青春モノの巧拙を分けるといってもよい。少なくとも作中では人間たちを含み世界は複雑であるべきで、複雑系の中で自分を一直線に貫くことで眩しさは煌めく。一方で、単調なキャラクターたちが類型化された行為の繰り返しによりまっすぐを演じていては、ハリボテのせーしゅんが鈍い光を返すだけだ。

複雑さによる真作と単調さによる贋作は、はっきりとした差異があるわけではない。作者がどれだけ身と頭と心を削ってオリジナルを追い求めた分だけ、その差は自ずから現れるというのが僕の経験則だ。例えば、青春イベント類型の外延的定義として、

・みんなで放課後を無為に過ごす

・みんなで花火大会や夏祭りに行く

・みんなで深夜のプールに忍び込む

・みんなで文化祭限定のバンドを組む

・みんなでテストを乗り越える

・みんなで修学旅行に行く

・みんなで雪合戦をする

・みんなで初詣に行く

……など羅列すればキリはないが、どれもどこかで見たようなことのある要素に過ぎない。しかし、これら青春イベント類型の単なる足し算では青春に一切如かない。大切なのは、扱うイベント類型ではなく、そのイベントの具体である。

また、よりマクロにイベントを語るのであれば、青春の必須要素のひとつとして、「一度は大きな壁を前に挫折するものの、まっすぐさでその壁をぶち破ったり乗り越えたりする」みたいな挫折と克服がある。その挫折克服パターンとして、

・集団内における不当な扱いを、仲間たちとの絆で乗り越える

・友人との間の葛藤を、本音の語り合いで乗り越える

・過去のトラウマを、成長し強くなった精神で乗り越える

……などこちらは羅列も難しいくらいに類型としては限られてくる。もはやこれらの類型から外れることは難しい。しかし、本当に大切なのは、類型から外れることではなく、物語上の出来事が類型以上の情報、つまり複雑さを持つことである。半ばトートロジカルであり判断基準は鑑賞者の主観に依存するが、鑑賞者が「これはパターンに要約されない部分があるぞ」と思えば、その作品は複雑さを持っており、真摯に(今回の論点であれば純粋な爽やか青春モノとして)鑑賞者へと伝わる。王道だからといって飽きられることなく多くの人に好まれる作品は、パターン化の不可能な部分があるのだ(もしくはその作品が新しいパターンを創り上げた結果、後付けで王道と名付けられるようになった)と推し測る。

ここまで書いてようやく気付く。どうやら、結局言いたいことは一文に尽くされるらしい。

要するに、『アオナツライン』からは類型という要素たちの単調な寄せ集めしか見て取れず、僕の瞳に青春の像は結ばなかった。

 

しかし、『アオナツライン』だけが特別に単調だったというわけではない。このような話をするきっかけはおそらく何でも良くて今回たまたま贄に選ばれた、という偶然的要素を強調した上で、いくつかの必然的要素を挙げておく。第一に、コンセプトが分かりやすかった。その結果、作品のコンセプトと自分の感覚との懸隔もまた分かりやすくなってしまった。第二に、前評判がよかった。その結果、膨らんだ期待の分だけ感情の落差は激しくなってしまった。そして第三に、ぼく自身が「青い芝」に飢えていた。その結果、運悪くも偏狭なオタクが渇望のあまりに物足りなさを大声で嘆いてしまった。

すべては運の尽き。だから前にも述べた通り、「不幸にも今回俎上に置かれ」てしまった。

 

隣の芝は青い。

その言葉は諺になってしまうほどに、我々日本人ひいては世界中の人間の逃れがたい性質を表しているに違いない。だが、すべての隣の芝が青いわけでもない。荒れ果てているものもあれば枯れ果てているものもあり、青い(緑色の)ペンキをぶちまけただけの叢だってある。それと同じことだ。青春を掲げた作品が、必ず青春を果たすわけでもない。

どうにも説教臭くなってしまって─と言ったって、どう取り繕うとも内実は説教なのだからその臭さがあるのは当然なんだけれど─恐縮だが、あまり形式やテーマというレッテルに躍らされないようにした方がいい。特に美少女ゲームなどの萌えコンテンツは、美少女の可愛さの分だけ、隣の芝が青く見えがちなのだから、周到に評価軸が制御されないと、ギコギコと傾いてゆく。恥ずかしながら、この言葉は自戒の念や、自責の念さえ込められている。あるいは、いつの間にか可愛いだけでは耐えられないようになってしまった、哀れなオタクたちへの慰安も。

 

ここまで書いてようやく気付く。どうやら、この記事は虚空へ向けた愚痴らしい……。