墓の中

穴は真珠貝 標に星の破片 傍には百年の待ち人

夢と現のアポリア

 季節の変わり目だからか、衰えた体力のせいか、定かではないが、生活的には全く寝不足でないときに夕方とつぜん眠くなって、そのまま睡魔に身を委ねてしまうことがよくある。日本では毎日毎日季節が曖昧に変わりゆくようなものだから、おそらくこのへなちょこな身体が眠気の原因なのだろう。抗えぬ眠気に襲われていると、ふと記憶が今現在の状況とほとんど関わりのない過去へと飛ぶ。そのかつての出来事は、本来短編小説のような形で書きたいと思っていたものだが、己の経験や感情を過剰に演出するのはともかく、他人の人生にまでずかずか踏み込んで書き換えるに堪えず、そのまま随筆的な日記として一筆残すことにした。

 

 およそ一年前、僕は一介の学生として都内の某病院を数日間見学していた。その一環に、回診に同伴していくつもの病室と患者と疾患を巡ることがあった。この人はこういう背景があって今現在はこういう状況でこれからの方針はこうしよう、ということを繰り返しているのを後ろから眺める。この「繰り返し」という表現はもしかするとかけがえのない個人という地位を侵すものであり、相応しくないかもしれない。でも、そもそも病気とは、多くの症例が繰り返し提示される中で帰納的に他の病気と切り離されて分類されてきた概念である以上、そこで嘘を吐くのが誠実と言えるのだろうか……と、道徳の主張を勝手に誇張して道理が崩れたところを狙い撃ちすることにより既存の道徳を批判するのは、根性の捻くれた人間の考え方だ。表現や思想の弁護はともかく、事実として僕はそれを一定の繰り返しとして観察し続けていた。というのも、患者たちの回覧は朝に始まり、昼をはさみ、夕方まで続いていた。徒歩と直立に疲れた両足で身体を支えるのが精一杯で、僕はあまり多くのことを考えられていなかった。

 そろそろ終わりも間近かなと思いはじめた頃、ある部屋に入った。これまでの病室と同じく、細長い台形をした手狭な部屋だった。一辺には大きくも小さくもない窓が拵えてあり、外から内側を見えにくいような角度で窓を配置した代償として部屋の中からも外の景色が眺めにくい構造をしていた。ベッドには四、五十代の女性が一人、複数の看護師に囲まれて座っていた。服の前ははだけており、腹部の創を生理食塩水で洗浄していた最中に我々がドカドカと入ってきたようだった。水に濡れてしまわないよう下げられたズボンの裾付近には陰部も僅かに覗いていた。自らの招かれざる状況に気付いた医師は一旦ためらい、出直そうか訊いたが彼女は「大丈夫です」と小さな声で応えた。室内には洗浄水を吸引する機械の音が響いており、承諾ではなく無関心による放任のような返答はさらに小さく聴こえた。医師は繰り返しのルーチンとして患者に最近の体調や気分を尋ねたところ、彼女は気だるげに、そしてかぼそく声を発した。

──先生、なんだかとてもねむたいんです。

 彼女は間違いなくこう言ったということを、今でも一字一句その言い方まで含めて覚えている。「なんか」ではなく「なんだか」と、「ねむい」ではなく「ねむたい」と言っていた。彼女の顔も名前も忘れてしまった今でも、あの不思議な響きだけは残っている。

 ところで、心身の疲労で若干気が立っていた僕の第一印象は、こっちも眠いよという自己中心的な反応だった。病人とはいえ臆面もなく肌を晒したまま会話してしまうまでにこの人は眠いのだろうか、と軽蔑する心さえ生まれていた。しかし、医師と患者がそれぞれ速度の異なる会話をしているうちに、対話の内容からではなく病室全体を包む雰囲気からある匂いを感じた。核心を外した喋り方をする医師、妙に明るく処置を行う看護師、医療を疑っても信じてもいないような反応を返す家族、時の流れを感じさせない患者。その全てが一つの可能性を示しているように感じられた。

 結局病室にいる間、話題が核心へ転換されることはなく、疑念が確信へと至ることはなかった。あの「ねむたい」女性が妙に頭から離れなかったので、また別の部屋へ移る途中、今の人はどのような状態なんですかと近くの医師に尋ねた。

──彼女はベーシックの人だね。

 日本人らしくとりあえず、なるほどと返したが、不勉強な僕はそのとき、ベーシックたるものが何を指すか知らなかった。ただ、その婉曲的説明がさらにあの匂いを仄めかしていたのは確かだった。ほぼ確定的ながら絶妙に曖昧な把握のまま回診は終わった。ベーシックとはBest Supportive Careの略称であるBSCのことであり、眠気がオピオイド、いわゆる鎮痛目的の医療用麻薬の副作用の一つであることを知ったのはその日の帰り道である。

 終末期患者に対する医療の無力さ、というような観念はいまさら浮かんでこなかった。僕は真っ直ぐな信念を安直さにすり替えてしまう天の邪鬼だった。彼ら彼女らに寄り添うということがもちろん心の痛みの緩和につながるのは間違いないが、それほどその緩和に興味を持つことはなく、対象を痛み自体に絞って執着していた。終わりの近い彼女がどのような世界を見ていたのかひどく気になった。死という個人的で孤独な体験を間近に控えた人間の気持ちを知りたかった。

 おそらく余命の僅かな人に出会うのはあのときが初めてではなかったけれど、あの「ねむたさ」が、ただそれだけが手掛かりとなって、その境地に近付けるのではないかと不遜にも思ってしまったことが、この経験を脳髄に沁み込ませるきっかけだったのだろう。

 

 記憶は更にさかのぼる。

 人間は時間的存在である、と述べたのはハイデガーである。僕がこの一文に無機質な格言以上の意味を見出したのは、終末期医療を扱った学生発表の場だった。テーマ自体が興味の範疇外にあったから、別段意識せずにぼんやりと聴いていたが、なにやら哲学っぽい話がはじまり食指が動いてそのまま熱心に傾聴してしまった。

 人間が現在を感覚するには過去と未来が不可欠であり、その二点を結んだ線分上に初めて現在が姿を現す。この事が、人間が時間的存在と渾名される所以である。すなわち、終末期患者などの未来を喪った人間は、たとえ物理学的に現在が存在しようとも、現在を支えるだけの時の流れを感じることは出来ない。こうして、時間的存在としての自らの本然を見失った人間は、存在論的で根源的な苦悩─スピリチュアルペインと呼ばれる─に苛まれることとなる。

 発表内容(の一部)に対する僕の理解はこんな感じだった。これがハイデガーの本来意図するところであったかは判然としないが、偉人のお墨付きなどいらないほど、感性と調和した。時間の流れに支えられた存在というものが突然僕の思想の中で圧倒的な立ち位置を占めることになった。死が決定的に迫っている人間を考えるときの出発点はきっとここかもしれないと直感した。

 この発表を聴いた数か月後、「ねむたい」彼女に出会うことをもちろん僕はまだ知らない。

 

──なんだかとてもねむたいんです。

 しかし、終わりの人間の心理の一片を理解しても、彼女の気だるげな発言をいくら思い返しても、夢現の境界も時間の流れも停滞した世界に佇む彼女には追いつくことが出来ない。やはり流れる時間の中で生きる現実を謳歌している自分には遠すぎる場所なのだと諦めて、ちょっぴり哀しくなった。多分もう生きてはいないであろう彼女を一人ぼっちにしてしまうような気がして、本当はそんなことは絶対になくて、自惚れでしかないけれど、しかしこれはいつかは向き合わないといけない問題だと信じてやまなかったから、道半ばで挫折した自分が不甲斐なかった。

 話は冒頭に戻るが、どんなに寝ても眠気から覚めずに夢現を彷徨い続けるときがある。特に冬は多い。そういうときたまに、半分意識的半分反射的に「ねむたい」彼女を思い出す。ああ、頭がぼぅっとしてとにかく眠いってこんな感じだったのかな、たしかにこれじゃあ誰かと話すのも億劫だね、これを延長して気持ち悪くして過去も未来も分からなくなってかなりしんどくしたところにあなたはいるのだろうか、と遠い誰かに自らのねむたさを言い張る。そうして、彼女の背中越しに自分もいつの日か見るべき涯を見たような心持になってほんのり満たされる。まったく陶酔的で傲慢な思い上がりだなと思いつつも繰り返してしまうほどに、僕は人の生き死にに執着しているようだ。

 これはその偏執をよく示す一つの記録である。