墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

図書館での一日

図書館にいる。大学の、でっかい、図書館にいる。この図書館に、いかほどの歴史があるのか判然とは分からないが、無駄に構造が入り組んで、贅沢な敷地の遣い方をしていて、高い天井を見上げても長い壁を眺めても、素人目にも分かるくらいの意匠がこらされていて、並大抵の建築物ではなさそうだ。耳を掠めるのは、頁の捲られる音と筆の踊る音と微かな寝息。ここに時空という概念はなく、それゆえに「今僕がいるこの図書館」は半概念化されて実在から切り離された静の世界へと至る。もし歴史の重みという言葉の意味の中に、積み重ねられてきた歴史を引き続き自分の手で紡いでいく使命感をも含むのであれば、そのような重みはここに一切ない。図書館において歴史は我々が踏み締めるべき大地で、決して我々が作り上げるべき建造物ではない。この大学を卒業した数々の著名人も、ここで動かない時を過ごしていたのだろうかと、僕は時を超えて彼らと肩を並べて同じ空気を吸って世界を共にしている心地に陥る。時よ止まれ、おまえは美しい。

そんな幼稚で生意気で自己陶酔的なエリート意識を振り払い、視線を天井から窓へ、そして眼前の机の上に置かれた一冊に滑らせる。中途半端に開かれた問題集は、お節介にも現実という問題まで提示してくる。健常者の為す物事には必ず因果関係や手段目的の関係という前後関係が存在するが、今ズシィと座り込みをしている現実を「後」だとすれば一体「前」には何があったのか、それについて考えることが第一の議論だ。

大学に入学して大学生という自覚も無しに大学生という地位を利用してあれよあれよと時が過ぎていくうちに最終学年になり、就職先を決めるという段階に入ったのが最近。就活というにはヌルすぎて、ただの試験というにはキツすぎる、病院の採用試験。大体どの病院も一回くらいは事前に見学しておかないと採用基準を満たさないらしい。自分であらかじめ病院に連絡して、約束を取り付けて、当日行ってお偉い先生にヘコヘコして帰ってくる。特に希望の就職先もなく、もちろんどこも見学したくないのだが、どこも見学しないまま生活できるほど図太い精神も持たないため、結局最低限の精神的犠牲を払いいくつか約束を取り付ける。このような事務仕事は身体と精神に悪影響を及ぼす。事務員という職種が何故存在するのか。それは、事務仕事だけでも十分一つの労働になりうるから、事務員が存在するのである。

文句を言いながらも一旦病院見学を少しばかりこなしてしまう(僕はなんだかんだでするべきことはするのだ、こういうところで定型発達者としての格の違いを見せつけていけ)と、試験という名の付くものは大体得意分野だったので、さしたる危機感も感じずに最近まではんなりしていたが、実際に色々と調べてみると、提出書類が多い、締切が意外と早い、採用試験の内容が全然分からない、結局病院見学もあんまりしてない、推薦状って何、ほとんどが面接重視ってマジ、キモい萌え豚オタクって流石にヤバいのでは、ママーッおっぱいバブバブ……。そう、これは現実逃避で始めた勉強だった。せめて筆記試験だけでも対策しようという、頭でっかちお受験マンにありがちな攻めに見せかけた逃げだった。今の状況にようやくたどり着く。

第二の議論。今偉そうに仏頂面でふんぞり返っている現実を「前」だとすれば一体「後」には何が待ち構えているのか。答えを出すのは簡単でも、直視するのは困難な問いかけだが、要は卒業して社会に出る、ただそれだけのことだ。一般的に人というのは中学や高校や大学や大学院を卒業すると同時に就職して数十年間労働してから退職して老後の人生を歩んで最終的に仏壇に飾られるものだから。

最初に感じた長閑さと、愚痴じみた第一の議論と、僅かな第二の議論を一直線に結合して、時の流れを再び整理する。僕は今、こんな静かで落ち着けるお気に入りの場所から出ていくために、お気に入りの場所で必死に勉強しているようだ。これは、一体どうなんだろう。これは、何かをしないために何かをするという事態に近似されないか。これは、仏教ならではの公案というやつか。これは、もしくは矛盾ではないか。だとすれば、どこかに間違いがあるはずなんだけども。勉強することが間違いか。卒業することが間違いか。お気に入りの場所だということが間違いか。僕が間違っているのか。制度が間違っているのか。常識が間違っているのか。自分自身を擁護するために制度や常識が間違っていると思う僕が間違っているのか。実は自分自身を擁護すること自体が間違いだと刷り込まれるほどに制度や常識が根付いているのであってやはり制度や常識が間違っているのか。そもそもこの二項対立的な責任の押し付け合いが間違っているのか。初めから何も間違いではなくて、矛盾があってはならないということだけが間違っているのか。間違いは矛盾であって、矛盾は間違いであって。あれ、あれれ。

頭の中でキリリリッと音がする。プチッ……ポワン。よし。ともかく、こんなときはトイレだ。トイレで手を洗うぞ。なぜならトイレの別名はお手洗いなので。お手洗いでは手を洗うべきでしょう。そういやトイレって英語でbathroomとも言うけどトイレは風呂なのか。たしかにウォシュレットはシャワー代わりになるかもしれんな。よって、水回りの原理より、風呂はトイレの代わりにならないが、トイレは風呂の代わりになることが示された。ふう。おしっこ、できた。

トイレを出ると、思考を本能的に放棄したまま適当な本棚の前に立ち、本棚と本棚の間に挟まれ、いちめんに本を見渡す。本は読んでも面白いが、読まずにただそこに存在するだけでもとても良いものだ。どんな本にも、見知らぬ人物が聞き慣れぬ概念について人生を懸けて、少なくとも人生の一時期を費やして、著した何かが詰まっている。その概念に対する本気の恋文を僕はいつか読むかもしれないし、手にとることもないまま一生を終えるかもしれない。いや、この並列はあまり適切ではなく、僕が短い一生で読む本など全体のほんの僅かでしかない。しかし、その当たり前の事実が世界の広大さを僕に約束してくれて、むしろ安堵させる。あまりにも数多い本の雰囲気に酔い痴れたかのようにうろつき歩く。僕はタイトルと直感を頼りに一冊を手に取って、なぜか満ち足りた気分になって立ち去る。それを僕はいつか読むかもしれないし、開くこともないまま貸出期間を終えるかもしれない。無駄で自己満足に終始するであろうこの行為が、無味乾燥な世界に細やかな一縷のアクセントを与えてくれる。おもしろきこともなき世を云々。

十数分の逃避行ののち、再び席に着く。事態は何も変わっていない。問題集をめくる手は鈍く、むしろ先ほど借りてきた本に手が伸び、書類の準備はこれといって進まず、頭の中では焦るものの結局は同じ場所を何度も周回しているだけで、さりとて図書館の居心地は憎らしいほどに良好で……。曖昧な意識で曖昧な物事を曖昧に処理しているうちに、このまま静の世界を揺らぎ続けるのだという綺麗事を切り捨てるように、腹の虫が再び時を刻み始める。何を考えるにしても、まず身体が第一。よし。ともかく、こんなときはごはんだ。筆箱にシャーペンと消しゴムを詰め、鞄に問題集と本と筆箱を詰め、上着に自分自身を詰めて、傘を片手に逃げ去るように図書館を出た。