墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

自我的対称性の破れ

鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰。そう妃が鏡に問いかけると、鏡は答える。世界で一番美しいのは貴方です。妃はその答えに満足する。白雪姫が成長して美しくなったある日、再び妃は問いかける。鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰。すると、鏡はこう答えた。世界で一番美しいのは白雪姫です。この返答をきいた妃はガチギレしてモンスター化して童話特有のパラノイアククイーンになって、白雪姫の物語は始まる。

しかし、果たしてこの「鏡」は本当に全知の力をもった不思議な鏡だったのだろうか。

 

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鏡の前に立って自分の顔を一瞥するだけで異様な気持ちになる。雑な生活リズムのせいか傷み切ったモサモサの頭髪。少しの面皰と黒子を抱えた角ばらずふっくらせずの顔面。顎下の髭は一部が剃りのこされたまま不規則に長々しく伸びている。鼻毛は出ていたり出ていなかったり。その人を一番よく表すと言われる瞳は、自分であまり見ないのでよく分からない。そもそも僕は他人の目を直視するのが苦手だ。それは相手の心を見透かしてしまうのが怖いのか、それとも逆に自分の心を見抜かれてしまうのが恐ろしいのか。どちらにせよ、僕は自他の顔を見るのが(上手か下手かという評価がもしあり得るのであれば)上手くない。

僕は自分の顔が人前を歩けないほど醜いとは思っていない盲目的に能天気な幸福人間なので、この性格は容姿に対するコンプレックスに依るものだとは思わない。いや、仮にイケメンだったら道行く人々とビシビシ視線を交差させてモテモテウハウハな人生になってる可能性もあるから、ほんの少しは関係あるのかもしれない。ほんの少しはね。ほんの少しだけだよ。いや本当に。多分。

鏡の中の自分を見る、この異様さを一言で言い表すなら、ふとテレビを点けたら見知らぬ番組に自分が出演して勝手に喋っていた、ような感覚だ。そいつは、勝手にあることないことぬかして、場を沸かす。そのくせ、僕の知識や基本的な思考だけはなぞってくるから、たちが悪い。僕はそれを茫然と見つめて"あれ"は一体何奴かとほとほと困り果てる。……というのはどこまでも妄想なのだが。

僕は自分の存在を、自分の意識に紐づけて、そこから手繰り寄せることによって、確認する。雑に言えば、観念論かぶれなのだ。だから、「自分とはどのような存在か」と訊かれたら「それはここにいる私がこれまで感じてきたこと、いま感じていること、そしてこれから感じることの全体だ」と答える(日常でこんなにペダンチックな返しは恥ずかしくてできない)し、「他人とはどのような存在か」と訊かれたら「その実在は実感できるが、そこに意識が芽生えていることは頭で理解できても実感まではできない」と答える。「世界は自分を中心に回ってる」と考えるのを自己中心的と言うなら、このように「世界は自分の内部に広がる」と考えるのはまさに"超"自己中心的だ。

人体の構造上、人は自分の顔を見ないのが自然な状態であって、鏡・カメラ・ビデオといった道具や媒体によって初めて自分の容貌をつぶさに確認できる。ところで、新生児や乳児は、鏡の中でハイハイする自分を、なぜか寸分も違わずに真似してくる謎の物体のように考えるらしい。次第に、自他の境界がハッキリしてゆく中で、鏡の中にいる自分と鏡の外にいる自分をすり合わせてゆき、それらは最終的に合体して、鏡を「遊具」ではなく「道具」として使えるようになる。

だから、僕は赤ん坊と大差ないのかもしれない(!?)とふと思ってしまった。鏡の向こうにいるのは自分じゃないし、写真に写っている僕らしき顔をした人間は自分じゃないし、動画の中で似たような見た目と声をして動き回っているのは自分じゃない。偏屈な自己愛ゆえに、自分の意識とそれにしっかりと結びついた身体以外を自分として正式に認められず、視覚情報化された自分と顔を見合わせてお互いに疎外感を感じてしまう。こんなしょうもない赤ちゃん性の暴露にこんな小難しい言葉は必要ない。要するに、"自分"は"ここ"に一人しかいないのだ。

 

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本当に喋っていたのは「鏡」ではなく、「鏡の向こうの妃」ではなかったか。得られた答えは鏡の魔法によって得られた「世界の真理」ではなく、ただの「妃の心情」ではなかったか。自分のことを世界で一番好きでたまらないという妄念が、認めたくないが認めざるをえない白雪姫の美しさに対する烈しい劣等感が、「鏡」を通して答えを引き出してしまったのではなかったか。

鏡は、いつでも見えなくてもいいものまで映し出す。それは例えば、妃にとっての「ホンネの自分」で、僕にとっての「自分以外の自分」だった。