墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

墓の中にて死を綴る

回想

たまたまとある法医学教室で一ヶ月間司法解剖やら行政解剖やらのお手伝いをさせてもらったときの話。

朝、解剖室に入ると、死体がある。特に何も感じない。今日はちょっと臭いなぁと思いながらも四肢を捌き胸と腹をかっさき脳を取り出す。臓器のことだけを考えて慎重に剖出する。ふと部分から目を離し全体を眺めると、死体がある。やはり何も感じない。感じたとしても、死んでもこれにはなりたくねぇなという自己中心的なことばかり。人間として何か感じるべきなのだろうが、何を感じればいいのか分からない。

初めに疑ったのは、こいつ(僕)はニヒルとかマッドとか気取ってんのかということだった。まともな感情を喪って何を見ても心を動かされないキャラクターをカッコいいと思って真似してるんじゃあるまいなと自分を強く問い詰める。でも、心のどこにも負の感情の欠片が見当たらない。指が疲れたとか腹減ったとか眠いとか肉体的な感情だけが掘り出される。次に疑うのは、死体と触れ合うショックを和らげるために自己防衛反応として心を鈍感にしてしまったのではないかという仮説だった。これについては思い返す限り初めからこんな心の持ちようだったから、すぐに棄却された。結局、この無感情が素の自分の反応であることを認めざるを得なかった。

しかし、同時に大きな矛盾を孕んでいることも確かに気付いていた。僕は現実でも物語でも人一倍に敏感な死生観を持っているつもりだったのに、死の帰結とも言える死体を見て何も感じないのはどういう了見なのだろう?

 

私とあなたと誰か

死は最も迫力のある概念のうちの一つで、「決死の覚悟」とか「死に物狂い」だとか、そういう最上級の真摯さを言い表す慣用句にも度々登場する。これほど強い概念なのに─いや、だからこそと言うべきなのだろうか─雑に使われてしまうことも多い。実際には、死というものは歴代の宗教家や哲学者が考え議論し続けても見解が一致しないほどの難題であり、個人個人において死というイメージはある程度確定しているが、集団全体で見たときにてんでんばらばらだから、雑に見えてしまうのかもしれない。(18/5/21追記: 社会学者ジェフリー・ゴーラーがこれについて興味深い考察を述べていたので自分なりに要約してここに記す。「近代以降、死はタブー化されて覆い隠されてきたことで、逆に暴力的な死のイメージが大衆において重要な消費物となってきた。これは性におけるポルノグラフィと同様の動きと言え、これにより『死のポルノグラフィ』という商品としての死が生まれるに至った。」僕が上で"雑に使われている"と述べていたのはまさにこのことを表している。)

一言に死といっても様々な程度がある。例えば、大腸菌が死ぬのと人が死ぬのではその重みは違ってくる。大腸菌の死も人の死も大して変わらんでしょうに、というサイコパス気味の方は、「人」の射程範囲を「どこかで生きている誰か」ではなく「自分、そして自分が人として認められるモノ」にまで狭めてもらえれば少しは分かって貰えるのかもしれない。ともかく、他の死とは一線を画する「人の死」というものについて考えていきたい。

さて、人の死にも更に細分化を進めていくことが出来る。よく使われる用語だが、一人称(=自分)の死、二人称(=隣人)の死、三人称(=ただの知り合い、赤の他人)の死という、対象による分類は簡単だがその分分かりやすく説得力を持つ。(18/5/21追記: 後になって知ったが、ヴラジミール・ジャンケレヴィッチという論者が1966年に提唱した分類だそうだ。意外と近年になってからの提唱にも思えるが、以下でもチラッと述べている通り、近代まではそもそもこの分類に意味はあまり無かったのだから、この近さは特に驚くべきことでもないのかもしれない。)

一人称の死は自分の終焉であり、人によっては─自分は世界の観測者であって、観測者のいなくなった世界は最早存在しないと主張する観念論者にとっては─それは世界の終わりを意味する。この≪終わる世界≫に直面し、人々は様々な手を以て抗ってきた。(18/5/21追記: 一部の宗教は「世界は終わらない=来世がある」という教義によって、そもそもその前提を覆していると言える。近代以前はこのように、人の死を含めて世界全体が宗教によって意味付けられていたが、近代に入ると合理化の進展によって神秘性は否定され、マックス・ウェーバーの言葉を使えば「魔術から解放」されてしまったため、最早宗教によって自らの死に意味を付与することが出来なくなり《終わる世界》と向き合う必要が出てきたのである。)

一般的には、子孫や後継者や書物や形見などによって自分の存在した痕跡を遺す。より謙虚な手段としては、死してもなお誰かの心の中に残り続けるならばそれは自分の死後も世界が続くということだと考える。究極的なところでは、自分が死んだとしても自分が存在したという事実は消えないのだと信じる。もっと突き詰めるなら、自分の存在がたとえ虚構のものだったとしても(水槽の中に浮かぶ脳のような存在であったとしても)自分が経験し知覚したことは決して嘘たり得ないのだと自分だけを信じ続ける……。最後のはいささかデカルト的でストイックすぎる心の持ちようだが、まあ大体ここらへんが≪終わる世界≫に抗う人々の常套手段だろう。

自分が死のうが世界が終わろうがそれは大した問題ではないと考える(もしくはうつ病などで考えることを余儀なくされる)人もいるから、一人称の死にまつわる問題はより複雑になっていく。今の僕にはこれ以上踏み込むだけの知識も経験も考察もないから一人称の死の話はここまでにしておく。

二人称の死は自分の世界の一部の欠落であり、もしかすると一人称の死よりも影響が大きいと考える人もいるのだろう。エピクロスの言っている通り、一人称の死について我々は何も感じ得ない。何かを感じようにも、何かを感じる対象が既に死んでしまっているから出来ないというわけである。一方、二人称の死は否が応でもその事実を突き付けられ、何かを感じることを強制させられる。「生きているだけで儲けもん」と考えるのか、それとも「あなたがいなければ死んでしまった方がマシ」と考えるのか、これは一人称の死と二人称の死のどちらに天秤が傾くかに大きく依るのかもしれない。

三人称の死をどう感じるかは多種多様だ。それこそ大腸菌の死と同じだと思う人から深く悼み哀しむ人までいる。何が正しいとは言い切れないが、少なくとも現代日本では憂うことになっている。「お隣さんの〇〇さんが亡くなったよ」と言われれば「そうなんだ、ご愁傷様だね」と返すのが正解である。〇〇さんの家族のことを慮ってそういう風に哀情を演じているのだということで僕は一応納得しているけれど、本気で追悼している人がいるようなのでたまに吃驚する。上で「何が正しいとは言い切れない」とは言ったが、よく知らない人の死をよく知らないままに死んだという事実だけで悼むのは、その人の人生に対する冒涜であり、するべきではないということだけは断言しておく。少なくとも僕は、僕のことをよく知らない人にまで勝手に悼まれたくない。そんなものは最早僕の死そのものに対する追悼ではなく、僕の死をきっかけとして利用した、死という概念に対する崇拝だから。

ともあれ一人称・二人称・三人称の死はそれぞれ大きく性質を異にする。僕は一人称の死も二人称の死も人並み(もしくはそれ以上)の感覚を持つが、この三人称の死でどうにも世間と齟齬が生じてしまうようだ。

 

Dead or Dying

死という言葉が一体どのようなモノを指しているのかという、より根本的な区別も考えておきたい。僕が思うに、普段我々は死という言葉を使うときに①死んでいるという「状態」と②生から死へと移る「変化」、という二つの概念を度々混同している。わざわざこんな区別をつける必要があるのか、という疑問は最もだが、しかし上記の≪n人称の死≫分類とも関わってくる重要な区別だと僕は考える。

これは僕の持論で繰り返してきたことではあるが、人は基本的に差異しか知覚しない。概念は天下り式に突然現れるものではなく、他との差異を見出すことによって人間が生み出す。赤色は赤いから赤色なのではなく、青くも黄色くも黒くも白くもないから赤色なのだ。赤と赤を区別するには他の差異を見つけないといけない。こっちは赤い林檎でこっちは赤い薔薇だという風に。同様に、時間的な差異である変化に対して(定常状態に比べて)人は敏感だとも言える。何かが壊れたり誰かがいなくなったりして初めてその有難みを知るというのは、変化に敏感な人間の最たる例だ。

であればこそ、同じ「死」でも①死んでいるという「状態」と②生から死へと移る「変化」のうち、人は①よりも②に敏感なのは必然だろう。葬式で死人を見るよりも死の瞬間を見る方が衝撃的であると言い換えれば、当然の文言に聴こえる。

この「状態」と「変化」という対比は、「三人称の死」と「二人称の死」という対比とよく重なる。よく知らない人の死体や死亡情報を見ても、その人の生きていた頃を知らなければ、ただ死んでいるという「状態」を見るだけである。一方、よく知っている人の死体を見たとき、その人の生前の状態を知っている訳だから、たとえ死の瞬間を看取っていなくとも、そこに生から死へという「変化」を見出す。逆に、がん患者を最期まで看取った親族はあまり取り乱さないというイメージ(根拠はない)があるが、その「変化」が緩やかでほぼ定常状態であったからその分衝撃も少ないのだろうという説明も勝手にしてみる。

僕は死という言葉を使うとき、主に「変化」としての死を頭の中に思い浮かべている。死の瞬間ってどんなだろうと悶々と想像し続ける。そこを出発点にして、自分がいなくなるってどういうことなんだろうとか死ぬ直前に自分は何を見てどんなことを考えているんだろうとか小学生みたいなことで悩み始める。でも、「状態」としての死はただそこにあるだけだから、大腸菌の死と同レベルの事実として解釈される。そこに感慨は生まれない。この乖離が、一人称や二人称の死に深く囚われている癖に三人称の死を異常なまでに軽々しく見てしまう歪な死生観の一つの要因になったのかもしれない。

 

回想ふたたび

解剖中にその矛盾に気付いたときは、概ねこのようなことを中途半端に考えて納得していた。(もちろんこの記事みたいに筋道立てては考えてないし、後付けの議論は沢山ある。) 理論として納得したら次は思考実験に移る。ここにいるのは赤の他人だから僕は何も感じない。じゃあもし、そこに寝ているのが友人だったら家族だったら僕は解剖できるだろうか。さっきまで喋っていた人を今解剖できるだろうか。臓器を取り出せるだろうか。父親の精巣を剖出できるだろうか。母親の子宮を剖出できるだろうか。僕は僕を解剖できるだろうか。異常な質問で自分を問い詰めていた。

そのせいか、ある日変な夢を見た。かなり強烈だったので今でも大体覚えている。

夕日がカーテンの隙間から差し込む。

僕は暗い部屋にいて、錠剤を片手に溢れんばかりに持っていた。

誰かに何かを唆される。君は死ぬんじゃないの?

そういえば僕は死を宣言していた。責任を果たさないと。

半分義務感で、夢中になって、恐怖も忘れて、それを全て飲み干す。

一息ついて周りを見渡すと、誰もいない。

薬はやがて胃の中で溶け始めて、効能が現れ始める。

僕は薬理学の教科書を開いて薬が効き始めるまでの時間を調べる。約30分。

僕の余命はあと約30分。突然怖くなる。

薬を飲めば全てが終わると思っていたのに。

今はまだ体は何ともないのに30分後に僕は死んでいる。

この30分僕は何をすればいいのだろう。なぜこんなことをしてしまったのだろう。

いくら過去を悔やんでも、僕に未来はない……。

この夢を見てから、死ぬのがもっと怖くなった。後になってさよ朝で少し救われたのはまた別の話である。