墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

救済とは神に騙されることである

白鳥は死に臨んで歌うと言われている。

白鳥が売りに出ているのを見つけた男が、最高に歌の上手な生物だと聞いて、これを買った。そして宴会に人を招いた時、白鳥の所へ行って、飲んでいる横で歌を歌ってくれと頼んだ。白鳥はこの時は黙っていたが、後に死が近いことを悟ると、自ら悲しみの歌を歌った。飼い主がこれを聞いて言うには、

「お前が死ぬ時にしか歌わないのなら、歌を頼んだあの時、お前を殺さなかったのは愚かだった」

このように人間の場合でも、進んでする気はないことを、不本意ながら果たす人もいるものだ。

ー『イソップ寓話集』「白鳥と飼い主」(中務哲郎・訳)

 

Le.Chocolatにより発売されたノベルゲーム『SWAN SONG』についての感想を書く。6000字弱。

多分本作品をプレイしたことが無ければ伝わりにくい内容だと思うので、対象として本作品をプレイ済みの方に絞って語っていく。故に、ネタバレは気にせずバンバン突っ込んでいく。予めご了承いただきたい。

 

はじめに、簡単にあらすじを纏めておく。
物語はクリスマス・イヴの晩、大地震(実は本当に大地震かどうか微妙なのだが)から始まる。主人公である尼子司を含め、何とかして生き延びた若者6人が倒壊を免れた教会に集う。
援助がいつまで経っても訪れない為、外部と接触しようと6人は移動を開始して、遂に自分たち以外の生存者が避難している学校に辿り着く。
これで一安心……していたのだが、その安心も長くは続かなかった。いつまで経っても援助は訪れず、外部との通信すらいまだに出来ない。
徐々に環境は逼迫していき、人間関係に軋轢が生まれていく。そして……

 

この作品で、ライターたる瀬戸口廉也氏(以下、敬称略して瀬戸口と表記)が、極限状態に置かれた人間の心理(というよりもひねくれている人間の心理)を巧みに描き出したことは言うまでもないが、今回は最終的に「なぜ『SWAN SONG』というタイトルだったのか」に焦点を当てていきたいと思う。 

 

1. 一縷の光か 一面の向日葵か

まずこの物語にはNORMAL ENDとTRUE END(以下、N√とT√と略記する)が用意されている。

N√では、様々なすれ違いの末に、遂に避難所である学校内でも分裂が起きて、お互いに殺戮し合ってしまう。不幸にも左手を失った尼子司は、満身創痍ながらも生き延びて、昔かつての仲間たちと出会った教会に辿り着く。そして、(詳しくは次の章で述べるが、)最期の瞬間にキリスト像を見上げながら人生を賛美して命を引き取る。

一方、T√では、すれ違いを乗り越え、避難所である学校内の意識をなんとか統一し、他に生き延びている人々と手を組んで頑張っていこう、俺たちの戦いはこれからだ、といったような感じで終わる。いわゆる"ハッピーエンド"である。

 

1周目のプレイではN√にしか進めないので、最初にN√のシナリオを見るのだが、僕はとても良いと思った。過酷な環境下で沢山の事柄が否定されていくことで、ほんの僅かな素晴らしいものに気づき、そしてそれらは光り輝くのだ、というようなメッセージを僕は(プレイ時に)感じた。勿論他にも様々な感情が渦巻いていたが、多分この感情が一番強かった。

そして、2周目のプレイで迎えたT√。正直な感想を述べさせてもらうと、ここまで描いておきながら、最後を俗的なハッピーエンドに仕立て上げてしまったことで、そこら辺に転がってる物語に成り下がってしまったように感じ、落胆した。これまでの苦悩や葛藤に重みが無くなり、作品全体をぶち壊しかねない終わり方だと感じた。

 

どうやら聞くところによると、ライターの瀬戸口ははじめN√のみを以て完結しようとしていたらしいのだが、何らかの圧力により仕方なくT√を付け加えた、らしい。

「瀬戸口が書きたかったのはこんな終わり方じゃないでしょ、頼む僕を失望させないでくれ」とずっと悶々としていた僕はこの話を聞いて安心した。

というわけで、資本主義の闇による産物であろうT√は無いものとして扱う。ごめんなさい。

 

2. 全体とは、部分の総和以上のなにかである

さて、真の物語である(と僕が勝手に思っている)N√のラストシーンについてもう少し詳しく見ていく。正直、上手く言葉に出来るかどうか分からないけど、頑張ります。

 

まず教会へ向かう途中のシーン。尼子司は瀕死状態で意識が朦朧とし始める。

このまま僕の生物としての機能はどんどん失われていくのだろう。少しずつ、僕を構成していたものたちは、僕を形作ることをやめて、元々そうであったようにただの物質へ帰ってゆくのだ。そして最終的に僕は消えてなくなる。二十年ちょっと前に何かのいたずらで組み上げられた僕は、またバラバラに分解され世界に還元されるのだ。

なんだか寂しいな、と思った。

そして、無性に昔のことが思い出された。

そして過去の回想に入る。天才指揮者である父のオーケストラの演奏を聴いた時の思い出話。

素晴らしかった。

(中略)

他の人はどう感じたのかはわからない。でも、まぎれもなくそれは最高の演奏だった。どうして人間はこんな演奏が出来るのだろう。

(中略)

父は今日の公演を葬式だと言っていたが確かに何かが死んだようなそんな気分だった。僕はどうしてそう感じてしまうのだろうか。

オーケストラを構成する演奏者。彼らはそれぞれ別の場所に行くだけで、誰一人いなくなるわけではない。彼らに会おうと思えばその機会はあるだろうし、それは何でもないことなのだ。どう考えても、形ある何かが減ったわけでも、失われたわけでもない。なのに、妙に寂しいのはなんでだろう。誰かと別れてしまうような、変な気持ちがするのはなんでだろう。オーケストラが死ぬ。それはどういうことなのだろう。もう同じ演奏を聴くことが出来ないって、それだけじゃない、もっと深い意味があるような気がする。

その答えはきっと、今日の素晴らしい演奏のなかにあるのだ。彼らは本当に素晴らしかった。

(中略)

少年時代のあの気分と、いまの僕の気分がとても良く似ている。

下線部が現在と過去の共通点である。

昔は、「オーケストラ」という有機的な集合体がバラバラになって「人」という要素に還元されてしまうのが、寂しかった。今は、「自分」という有機的な集合体がバラバラになって「ただの物質」という要素に還元されてしまうのが、寂しい。

そして、太線部には、より直接的な感情が表れている。

何かが有機的に繋がっていることは、素晴らしく、最高だ。

 

遂に教会に辿り着く。そこにはあろえが破片を接着剤でくっつけて再現したキリスト像の姿があった。しかし、あろえはコンクリートの下敷きになっていて、既に息絶えていた。一緒に教会へ向かっていた柚香はそれを見て泣き崩れ、そして心が決壊する。

「こんな世界に私は生き残ってしまって、みんなが大事にしていた貴重な生命を、私なんかが無事のまま持たされて、だから大事に生きていかなくちゃいけないって、私にはその義務があるんだって、それはわかるんです。でも私には、ここで生きることの意味が、どうしてもわからないんです。生きていることが、喜べないんです。」

自分の生きている意味が分からないと嘆く柚香に対して、司はこう返す。

「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」

人は生きているだけで素晴らしい。上でも述べた通り、「ただの物質」が有機的に組み合わさって「人」が出来るということは、それだけで素晴らしいことなのだ。 

そして、司は「あろえが再現したキリスト像を立てよう」と柚香に提案する。

「見てくださいよ、この像を。あちこち歪んでますよね。なんだか不気味でさえあります」

「でも僕、これは好きだな。宗教的なものって、どっちかと言うと嫌いなんですけど、でもこれは悪くないです。やっぱりそれは、あろえが手で一つ一つ貼り付けたからだと思うんですよね。綺麗ではないけれど、すごく、いいと思うな」

神の子なんか関係ない。これは、いまはもういない僕の友達がその小さな両手で丹念に一つ一つ組み上げた手あかのついた石のかたまりだ。僕は誇らしくてしかたがない。だから、絶対に立ててやる。そして、このやたらにまぶしすぎる太陽に見せつけてやるんだ。

僕たちは何があっても決して負けたりはしないって。

なぜ司が突然キリスト像を立てようとしたのか、初めはよく分からなかったが、今なら分かる気がする。おそらく「破片」という要素が有機的に組み上げられた「像」が、素晴らしく、最高だったのだろう。

 

キリスト像を立てた後、司は仰向けに倒れる。ピアニストである司は恋人の柚香を泣かせたくないと思い、最期にこんな事を思うのである。

ピアノさえ上手に弾けたなら、僕は無敵なんだ。何もかもうまくゆく。泣いている柚香にも、あのピアノを聴かせてあげたい。可哀想な柚香のために、最高のピアノを弾いてあげたい。

(中略)

いま僕はとても良い気分だ。こういうときは、最高の演奏が出来るって知ってるんだ。最高の演奏っていうのは、心のなかにしかないはずの美しいものがたくさん外にあふれ出て、そこらじゅうの何もかもを輝かせて、それは本当に、最高で、とんでもなく素晴らしいものなんだ。

オタクかっていうくらい最上級の肯定。 これは完全に僕の妄想かもしれないが、やはり下線部で”繋がり”を求めているように感じる。司にとって、きっとピアノとは「自分」という要素を「周囲の人間」と繋ぎ合わせる為に必要なものだったのだろう。

 

全体とは、部分の総和以上のなにかである。全体とは全体であるというそのことだけで素晴らしい。

司が肯定したのは、世界ではない。人生の肯定とも少し違う。全体としての、人そのものを肯定していたのだと思う。

 

3. 尼子司は死ぬ前にもっとも美しい声で生を肯う

このゲームのタイトルは『SWAN SONG』であるが、このタイトルの意味するところを最後に考えていきたい。

まず、SWAN SONGとは名前の通り「白鳥の歌」である。これは「白鳥は死ぬ前にもっとも美しい声で歌を歌う」という伝説に基づいて、このような名前を付けている。この作品内でこの事について触れているのは、恐らく一箇所しかない。以下、その箇所を引用する。

新興宗教の教祖である妙子が祈りについて語るシーンである。

【妙子】

「白鳥は死ぬ間際に一声だけ美しく啼くという伝説がありますが、ご存知ですか?」

【司】

「ええ。随分古くから伝わるお話ですよね。僕はハイネの詩で知っています」

【妙子】

「そうです。しかし、実際には、たとえ最期のときだとしても、白鳥は美しい声なんか出すことは出来ませんでしょう?そんなことは、伝説が生まれた時代にだって、普通に観察をしていればわかることです。それなのに、なぜこんな伝説が生まれて、語り継がれているのかと、考えたことはございますか?」

【司】

「さあ、なぜなのでしょうか?」

【妙子】

「私は思うのです。一生をあの絞め殺される寸前のような醜い声でしか啼けないとするならば、白鳥の声というのはみじめで救いのない声になってしまいます。でも、最後に美しい声で歌えるという物語をそこに作れば、たとえ誰もが嘘だと知っていたとしても、そこに希望を見いだすことが出来るのです。この伝説をモチーフに取り入れた先達は、それぞれの自分なりの思いをこの夢の歌に見ています」

「……いや、嘘だと知っているからこそ、そこに隠された願いが、実際に聞こえている白鳥たちの鳴き声の醜ささえも美しく輝かせるのでしょう。それは見るものの心次第で色を変える孤独な美しさなのかもしれませんが。……私はこのありかたこそが、祈りの本質だと考えています。切実なのに空虚で、哀しくはありますが、必要なのです」

白鳥が最期に美しい声で啼くことは有り得ないが、そう人々の間で建前として合意することで、醜いものも美しいものへと昇華させることが出来る。そんな禁じ手とも言える手段が祈りの本質だと、ここで述べられている。

 

さて、ここでもう一度考えてみたい。この作品において「死に際に白鳥の発する美しい鳴き声」とは何か?

それは、2章で述べた「瀕死の尼子司による人生や人そのものに対する精一杯の肯定」である、と僕は考える。

あからさまに比較するのであれば、

・醜い声しか出せない「白鳥」が死に際に美しい声で泣けるはずがない。しかし、そのように「人々」が描くことで、美しい物語として見せることができる。

・悲惨な運命を辿ってきた「尼子司」が死に際に人生や人そのものを肯定できるはずがない。しかし、そのように「ライター(ここでは瀬戸口)」が描くことで、美しい物語として見せることができる。

……となる。

 

もしこの比較が正しければ、極めて残酷な話である。「尼子司がしてきた必死の肯定は、そういう風に描かないとこの物語に救いようがないから、仕方なくそういう風に描いただけだよ」という、ライターの冷めたメタ視線が窺える。

ここに至って、2章で述べてきた話、全部パー。まさに机上の空論。キャラクターがいくら肯定しようと、ライターが暗にその肯定を紛い物と認めてしまっては、元も子もない。

えげつない。本当にえげつない。

 

えげつなさ過ぎて、書く事が無くなった。この記事を書き始めるまでは「綺麗な話だったな~」と思っていたが、書き進めていくうちに不安が募って、ここまで書いておいて最後に全部ぶち壊された。願わくは僕の考察が的外れであることを祈るばかりである。

 

 

このままじゃこの記事まで救いようがなくなるので、最後に物語ではなく(ほぼ)生の実話から引用することで、そこに救いようを求めることにする。同じく極限環境の一つであったアウシュヴィッツ強制収容所に収容された人々が夕焼けを眺める一節。

そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上る雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまだ燃える空が映っていた。感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞えた。

─V. E. フランクル『夜と霧』(霜山徳爾訳)

がんばって、今日も何かを肯定していきましょう。

 

(2017.02.08追記)

「何故唐突に尼子司が人を肯定し始めたのか」など、腑に落ちなかった点について、もう少しだけ詳しく扱った記事を書きました。以下がその記事のリンクです。

paca-no-haca.hatenablog.com