語りえぬものについては、語りえぬと正直に語らなければならない
最近『素晴らしき日々 〜不連続存在〜』(略称:すばひび)というノベルゲームをやった。某批評サイトでは「インテリなエロゲー」というタグが多数付けられ、そして「哲学ゲー」と謳われている。
オタクは基本的に逆張り(主流に逆らうこと)が行動指針なので、次に生まれるのは「これが哲学とか流石に調子乗りすぎでしょ」という流れである。
それに対する反論も大体決まっている。「『これは哲学じゃない』は『俺は本物の哲学を知っている』というマウンティングの為に作られた虚偽の感想である」。
このように、オタクコンテンツではよくある流れで、終わりの無い論争が勃発する。
何故終わりが無いかというと、それは「哲学」が明確に定義されにくいものであり、人によって、そして場面によって定義が異なるからである。「文学」や「芸術」についても同様である。
どちらも正しいかもしれないし、どちらも間違ってるかもしれないという状況下で論争に終わりが見えるはずがない。
周囲の流れに身を委ねず自分の感覚だけを信じるのが一番正しいのだろうが、オタクと雖も人間であり、人間は社会に生きる動物である為、そうはいかない。
というわけで、「哲学」や「文学」という、少し気を緩めると不誠実に使ってしまう(不誠実扱いされてしまう、と言っても良い)用語について、思い切って自分なりの暫定的な定義を述べ、その上で所感を述べたいと思う。
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僕の経験に基づいて最も適切であろう定義をすると、哲学とは「世界と折り合いをつける為に、世界に対して問いを投げかけ、答えを見つけること」であり、文学とは「自分の、もしくは登場人物の世界を他人に見せる為に、世界を文字媒体で記述すること」である。(この定義における「世界」とは、現実の世界に限らず、その人が想像できる事柄全てを指し、かなり広義に捉えて貰って良い。)
故に、知識そのものは哲学ではないし、また文学になりえない。あくまで、知識は手段に過ぎない。「シーザーを理解するには、シーザーになる必要はない」という言葉があるが、「シーザーという名前を知ったところで、シーザーを理解する事はない」のである。
逆に、些細な事柄でもそれと向き合い答えを見つけたら哲学だと思うし、自分の考えている事を"素直に"書くだけでも文学だと思っている。
加えて、世界を記述することで世界と折り合いをつけることはあるだろうし、世界と折り合いのつけ方を文字媒体で他人に見せることはあるだろう。このように、文学を通じて哲学を行うこともあれば、哲学の為に文学を行うこともあり、二つはきちんと分けられるわけではない。よって、次の話題においては、文学・哲学をひとまとめにして扱っていく。
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話をオタクコンテンツに戻して、上記傍線部「知識は手段に過ぎない」という事についてもう少し深く掘り下げ、「文学・哲学的な引用は文学・哲学たり得るか」について考えていきたい。
よくノベルゲームの作中に文学・哲学に関する知識が引用される事がある。しかし、「知識は手段に過ぎない」という立場をとると、単純にそれだけで文学・哲学をしているとは言えない。
そこで、僕はこの引用をいくつかのレベルに分けたい。とりあえず、事実・例示・議論・テーマとしての引用、くらいに分けておく。これで全ての引用が分類される訳ではないが、今回は体系立たせる事ではなくとりあえず伝える事が目的なので、ご容赦を。
例えば、
《事実》「◯◯の◻︎◻︎によると、△△である。(物語とは関係ない)」
《例示》「◯◯が◻︎◻︎と言っていたように……」
《議論》「◯◯が◻︎◻︎と言っていたけど、僕は△△だと思う(以後それに関連する会話が続く)」
である。《テーマとしての引用》とは、「過去の文学・哲学的なテーマを物語の根幹におくこと」である。
僕は下に行けば行くほど、その文学・哲学レベルは高くなると思っている。つまり、ただのパクリではなく、そこから何かを有機的に紡いでいるかどうかが重要である。
元々引用とは自分の意見により説得力を持たせる為に行うことであって、やはり引用自体は手段として扱うべきなのだろう。
こういう観点から見ると、『素晴らしき日々 〜不連続存在〜』は《議論》が多く、いくつかの知識を有機的に繋いで上手く物語に組み込んでいたと感じた。いわば、良い言葉遊びだった。
(一応比較対象を出しておくと、文学だと謳われることの多い『霞外籠逗留記』は《例示》に留まる事が多かった為、僕の評価はあまり高くない。悪い言葉遊びだった。)
結局、僕がこの話題について主張したいのは「引用は確かにチョーカッコいいし、そのカッコよさに飛びついてもいいけど、飛びついた後は一旦離れて、再び飛びつくか考えましょう」ということである。
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さて、引用についての話はここまでにして、最後に考えておくべき事がある。『素晴らしき日々 〜不連続存在〜』は本当に哲学レベルが突き抜けるほど高かったのだろうか。それとも、哲学的にはお飾りの言葉遊び(以下でも述べるが、これは決して貶し言葉ではない)だったのだろうか。
こんな記事を書いておきながら恥ずかしい話だが、僕にはまだ分からない。
まず、僕には物語の構造(具体的に言うと、最初と最後の繋ぎ方)が完全には分かっていない。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をベースに「世界の限界」について考えているという事は伝わってくるが、不完全にしか分かっていない構造を基に、作者の意図を読み取るのはかなり困難である。
公式のビジュアルファンブックを買った(高かった)(オタク特有の余計な補足)(オタク特有の多過ぎる括弧)のでそれをシコシコ読んでいこうと思う。詳しく分かったらまた何か書きます。
少なくとも言えるのは、哲学的にはお飾りの言葉遊びであろうと、それらによって醸し出される雰囲気はとても素晴らしかったという事である。雰囲気とはキャラクターを取り巻く世界やキャラクターの内面を上手く描く事で伝わってくるものであるから、僕の定義によればそれは文学と言えるものであった。
念の為注意しておきたいが、文学・哲学レベルが高くないとコンテンツとして価値が低くなるという訳ではない。幸いな事に、エンターテイメントでは文学・哲学以外にも楽しませ方は無限にある。というよりもそれ以外の方が主流かもしれない。
全てをぶち壊す結論を言います。
「楽しめればOK。すばひびは楽しめた。よって、OK。」
2018/09/18追記
フルボイスHD版発売をきっかけに再度プレイして感想やら考察やらを書きなおし始めたので、以下にその端緒を掲示しておく。