墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

形而上学的環境問題

自分の記事を、書いた後に読み直すということはあまりしない。どうせ恥ずかしくなるだけだから。

 それでも結構前の記事を読み直すと、意外と難しいことを真剣に考えていたり、面白いことを書いていたり、今と違ったことを思っていて、面白い。自惚れかもしれないけれど、過去の自分はもはや別の人間だから、少しくらいは許してほしい。

 そして、昔の方が真剣にものを考えていた、言葉を選ばないなら、真剣に哲学をしていた。知識は足りなくても、論理の組み立て方が下手でも、同じことの繰り返しになると覚悟の上で、真剣にゲームのことを考えていたしアニメのことを考えていたし小説のことを考えていたし映画のことを考えていたし人生のことを考えていた。

 今はどうなんだろう。ぼくはしっかりと物を考えているだろうか。上手くいく処世術みたいなのを惰性で繰り返しているだけだ。どうせ何を考えてもいつもと同じところにたどり着くからと議論を省いてしまう。昔はあれほど自分の中で色々な疑問や葛藤と向き合っていた。偏狭な考えでも綴っていた。

 ぼくはかつて何を思っていただろうか。

 

①目の前にある事柄をすべて分析して、言葉に落とし込んで、無矛盾な体系を作り上げたかった。哲学はもちろん、道徳も倫理も感情もすべて論理の俎上に載せて、細かく刻んでしまいたかった。言葉は、正確な論理を提示するためだけの道具に過ぎなかった。それでも頭を使っていた。頭を使っていたんだ。必死に考えようとしていた。

 

②ある日気付いた(のではなく、思い込んだが正しいのだが、それに気付くのはまた大分経ってから)。物事を分析して、順序良く並び替えて、分かりやすく提示して、見目麗しく整えるのって、一定の能力があれば誰にでも出来るじゃん。決してそんなことはないのに、今読み直すからわかるけど、しっかり考えてないと、考察というものは書けない。

 もっと言葉自体を大切にしよう。レトリックを大切にしよう。この地球上で初めての表現を生み出そう。「サンゴ礁の夢」とかどうだろう、誰かもう言ってるかな、じゃあ「猫と泳ぐ月」は?なんだかメルヘンを狙いすぎかな。「冬の雨は雪より冷たい」。うーん、凡庸だけど意外と好きかもしれない。

 

③理性から感性への志向が行き着く先は、惰性だった。自分の中で既に繰り返されている感情を自分の中で既に繰り返されている言葉で表現する。言葉を書くのが、楽になってしまった。昔はあんなに大変だった作文が、今では考えていることの自動速記みたいな感じになっていて、大して吟味もされないまま、口から(あるいは指先から)飛び出てきた。

 淀みなく言葉が出てくる人を見て「頭の回転が速い」と評価するのは、リンゴを見て「赤い」と評価するのと同じくらい、中途半端だ。本当は、オコトバペラペラヨドミナキ族は、ほとんど反射的に、その場の流れに適した、それっぽい何かを発しているだけなんだと思っている。一言一言の重みはそこにあまりない。

 

④もう一度問いかけてみる。今はどうだろうか。仕事以外で文章を書かなくなってしまった。仕事以外で文字を読まなくなってしまった。淀みなく言葉が出てくるフェーズを越えて、もう何も新しい言葉が出てこない。言語野が萎縮した。言葉の井戸が使い果たされてしまった。

 言葉レベルの問題ではない。問題意識さえ薄れてしまった。実用的な精神生活へ堕ちてしまった。例えば、幸せを願うことはあっても、幸せとは一体何なのか切に考えることがなくなってしまった。目を瞑りはじめたぼくは、つまり大人になってしまった。

 

 言葉の大量生産社会に巻き込まれた人間は、どういう風に言葉を使っていたか、どういう風に言葉で考えていたか、をことごとく忘れてしまう。仕事だけが上手になる。中途半端な仕事はいつか本当の意味で頭を使わなくなる。勘所を押さえたら、あとは体力と精神力の話で、頭はそれほど使わない。

 これは過去を棚に上げて、ちょっとした愚痴かもしれない。目の前にある坂が、真に下り坂なのか、それとも上ってきた坂を振り返って下り坂と見ているだけなのか。分からない。でも、昔は「分からない」なんて棚に上げなかった気がする。「棚に上げる」なんて同じ言葉を繰り返し使おうとはしなかった気がする。

 昔の記事を読むと、すっかり彼方に忘れていた観念を思い出して、そうかそういう考え方もしていたっけと思い出す。考えていたことを忘れてしまっているのは悲しい。ぼくは知識を忘れていてもそこまで哀しくならないが、考え方のスキームというか構造を大切だと思っているので、そこを忘却してしまうと堪らない。

 

 堪らなくなって、思わず言葉が出た。