墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

極めて個人的な経験

 あれほど劇的な出来事だったのに、いったん文章に整えてしまうと軽々しい絵空事になってしまう個人的経験、といったものには悩まされることが多い。それは、自分の力不足であったり、そもそも言語表現としての限界であったり、無意識のうちに事実が大仰な物語へと脚色されてしまったがゆえの嘘臭さであったり、そういったものが原因になる。この記事もおそらく「軽々しい絵空事」になってしまうだろうし、逆説的だがまさにその「軽々しい絵空事」っぽさこそが肝要となる。つまり、過去の個人的経験を今の自分が描き出すことは、大体の場合において、物語にはなりえても実際に起こった感情の記録としては不完全なものにしかなりえない、ということを僕は伝える事になると思う。

 しかも、今回、僕はその「個人的経験」とやらを具体的に表示しない。ただひたすらぼんやりとした物言いで終始することになるだろう。事実の仄めかしに留める理由は、自分の汚点とそれに由来する瑕疵が中心となる「個人的経験」を暴露するほどには、いまだにその出来事が過去になり切っていないこと。また、その暴露を良しとしないぼく自身の心の薄弱さ。要は、出来事の詳細が分かりづらいのは、いたって個人的理由です。

 

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 最近、といっても数ヶ月前の話だけれど、ぼくの心がほぼ瀬戸際まで追い詰められていた時期があった。平たく言えば、抑うつ状態になり、まず心のバランスが崩れて、それから身体のバランスが崩れた。思考がドン詰まりになって、ご飯が食べられなくなって、感情が鈍麻して、自律神経がぶっ壊れて、お腹を壊して、足元の感覚が分からなくて、息が苦しくて、でも誰かに相談できることでもなくて、逃げ場はなくて、目が覚めても現実は続いていて、トイレに逃げて、殻に閉じこもった。

 これは自分という個人の経験なんだということを認めたくなくて、ぼくはまず類型化を求めた。他人の類似した経験のうちに、自己を埋没させれば、この目の前の世界から目を背けられると思った。検索エンジンに情けないキーワードを打ち込んでは、自己啓発やらメンタルケアやらの記事を阿呆みたいに読み耽った。もうぼくはこういうサイトとそれを見る人を馬鹿にできない。

 けっきょく苦悩というのは個人的経験でしかありえなくて、あるがままを他人とは共有できないから、人を強制的に孤独にさせる。自分は孤独に強い方だと思っていたが、それは嘘だった。自分から他人を切り離して生きることを、孤独と呼ぶのは違う。切り離すかどうかの選択権が自分に委ねられている時点で、可能性を許すだけの甘さがある。自分が他人から切り離されて生きることが、真の孤独なのだと思った。こちらの意思に関係なく、強制的に可能性が奪われて初めて、真の孤独が正体を現し始める。

 これは紛れもなく、現在進行形の、現実のはなしで、ぼくがこの「ぼく」であって、いまこの世界でしか生を許されていないということが、信じたくなくて、信じられなかった。

 

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 この苦しみからなんとか逃れようと、いくつかの足掻きを行った。ショック療法として『さよ朝』を観た。去年大いに感動して執着して生き方さえ変えさせられたように感じた作品だった。でも、いくら鑑賞に集中しようとしても、現実世界に意識が向いてしまい、気もそぞろになり、気が付くと一粒の涙さえ流さずに物語は終わっていた。現実と仮想の比重があまりにも違いすぎた。この治療の失敗がさらに心を苛んだ。あれほど好きだったはずの作品にさえ心を揺さぶられなくなったぼくは、果たして生きているのだろうか。

 『夜と霧』を読んだ。現実で過酷な苦悩を過ごした人間の思考や感情をひとつひとつ追随してゆけば、暗がりから抜け出せると思ったが、この治療もやはり失敗に終わった。目は文字を追うだけで精一杯で、文字をつなげて文に、文をつなげて文章として解釈するほど、ぼくの頭は万全に機能していなかった。かろうじて文章を掬い上げることが出来ても、それは他人の現実、それも過去の話であって、今を生きている自分の話ではなかった。フランクル博士がその苦悩を既に高潔な精神で乗り越えてしまったことで、別次元の存在に感じられて、壁の向こう側にいる彼の声が、壁の手前にいる僕の耳に鮮明には届かなかった。苦しみを乗り越えた人の話はたしかに美しいが、その美しさは第三者の苦しみを暗に強調する効果さえ秘めているということをぼくは失念していた。被災地にて、今すぐ救助してもらわなければ死んでしまうような極限的状況で、救助隊に発見されることを神にも祈っている被災者に対して、「私もギリギリのところで救助されて今は平和に暮らしています、だからあなたも希望を失わないで」といった話が、どれほど心の支えになるだろうか。

 そんな中、ぼくの心を唯一慰めてくれたのは、あるアニメ主題歌の歌詞2,3行だった。他の歌詞はほとんど耳にさえ響かなかったのに、これだけは妙に心の奥までじわっと響きわたった。この単純すぎる歌詞を不細工に切り取ってもう何十回も何百回も反芻していた。耳で聴いては心で口ずさんで、まるでお経みたいに。いまの自分を護ってくれるものに依存して、まるで狂信者みたいに。それから、あぁ精神的危機に陥った人が宗教にはまっていくのって、つまりこういうことなんだなと気付いた。

 

「後ろ指さされたって一目散に逃げちゃっていいよ」

「後ろ指さされたって緊急回避決めちゃっていいよ」

「どうにもならない事があっても幸福な君を守ってあげる」

 

とにかく、ぼくは弱くて単純な人間で、情けなかった。

 

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 それから、どうやって乗り越えたのか。ぼくの場合は卑怯にも逃げ切ったといった方が良いかもしれない。つらいことから逃げ続けて、周囲の環境が変化していくのを待ち、時の魔法で傷が和らぐのを待った。だから、それは受動的で偶然的で、そしてまったく根本的でない解決にすぎない。そこに何か類型化に値する方法論があるわけでもない。

 ところで、時の魔法、という言葉はもう少し一般的な用語だと思っていたが、実際に検索してみると、ある有名なゲームソングの曲名が検索結果の一番上に現れるくらいにはありきたりな表現ではなく、言い方を変えれば詩的な表現だったようだ。そのゲームの中にも「時の魔法」に物事の解決を委ねるシーンが(いくつか)あり、プレイ当時はこの「時の魔法」というやつに対して少なからず疑いの目を向けていたが、一度当事者になってみると分かる。自分から変われない人間には、自分を取り巻く環境へ変化を託すことしかできない。そして、その委託は必ず無駄に終わるというわけでもないらしい。ということで、いま心身ともに健康でいる自分は「時の魔法」をもう少し信じてみようと思っている。もっとも、再び抑うつ状態へと陥ったときに、心身共に不健康となった自分にとっても、この「時の魔法」たるものに対する信頼が、心身復帰の役に立つかどうかということは、まったく別問題だけれど。

 そして、まさにその別問題が、その別問題こそが大問題なのだ。大きな苦悩から抜け出した人間と、大きな苦悩の最中にいる人間。この人種の間には深い懸隔がある。いま過去の想起と解釈と理論化を施している自分と、あのとき死を一瞬考えるほど思い悩んでいた自分。同じ自分でさえこれほどの格差がある。(といっても、この「二人」の格差を読者は分かりづらいだろうが、少なくとも本人である─そして、本人であった─自分はその格差を強く自覚している。)

 それでは果たして、(苦悩と無縁な人間などほとんどないだろうから、次のような言い方になるが)苦悩をコントロールできている人間が、今まさに苦悩に潰されようとしている人間のことをどこまで慮れるのだろうか。

 これは本当に難しい問題で、僕の限られた知見では、ありきたりでいかにもな道徳的提言しか出て来なさそうだし、過去の自分の経験に不純物を織り交ぜる始末になるだろうが、少なくともこれだけは経験による確信をもって言える。似たようなことを上でも述べたが、つまり、苦悩とはきわめて個人的で現在的な経験であり、それを他人─そして一度過ぎ去ってしまえば自分でさえも─完全に理解することは不可能であり、完全に理解しようとすることはむしろ倫理的ではない。また、ある人の苦悩とまたある人の苦悩を並列に扱うこともやはり倫理的ではない。ゆえに、ある人の苦悩脱却経験を、またある人の苦悩にそのまま適用すれば脱却できるというものではない。もちろん、これらのテーゼは苦痛に苛んでいる誰かは無視して放置するしかないということを意味するものではない。

 さて、これ以上の回答は蛇足になりかねないので、問題提起した口を噤み、それぞれの信念に委ねておく。あとは、この記事が、この記事自身の主張する通りに、きちんと「軽々しい絵空事」になってくれていることを願うばかりです。

 

 

 

 

死者たちは生きている者たちにたいして、自分の命を奪った者たちにたいして、目撃者たちにたいして、またわれわれにたいして、まったく関心がない。彼らがわれわれのまなざしを求める必要がどこにあろう。彼らはわれわれに何を言う必要があろう。「われわれ」─この「われわれ」とはこの死者たちの体験のようなものを何も体験したことのないすべての人間である─は理解しない。われわれは知らない。われわれはその体験がどのようなものであったか、本当には想像することができない。

スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』、北條文緒・訳、みすず書房