墓の中

穴は真珠貝 標に星の破片 傍には百年の待ち人

人生、一瞬の夢、ゴム風船

 ふと気が付くと自分が生きているということを忘れて生きている。自らの生に気付かずに過ごす生が一番幸せな、もしくはこの曖昧な言葉をより具体的に言い換えればもっとも心の安定した状態であるということは、おそらく誰もが勘付いている。空気の存在や呼吸という行為を意識しはじめると途端になんだか息が詰まりそうになったり、目を閉じて眠りにありつこうという段階で瞼の下にある眼球の向きを気にして悶々とした夜を過ごしたり、そのように当然のものとして日常に居座っているそれらと向き合いながら過ごすのは中々に骨が折れる。だから、無自覚が意識の自動化による心地よさを授けてくれることに感謝するべきなのかもしれない。

 「一生遊んで暮らしたい」と口ではボヤくけれど、もし仮に生涯の豪遊が許されたところで実際に自分がその宣言を遂行できるのか、分からない。頭の中だけで仮想的に豪遊する自分を過ごすこと、そしてそれを欲すること自体はいくらでも出来るが、現実世界の一角で一生という時間の幅をもって現前したときに自分自身が真に豪遊できるとはどうにも思えない。きっと数週間もしくは数ヶ月の耽溺ののちに、心の中にある鏡が自らをはっきりと映し出し、ある日とつぜん自分が生きているということに、そして自分はただ“生きる”だけをしていたということに気付き、自ら飛び込んだ思考の泥沼に嵌って抜け出せなくなる。生から目を背け続けながら生きるのは相当な心構えが必要で、一度直視してしまった生から再び目を逸らすには胆斗のごとき精神が、その特権を持たぬ人には逃げ場─労働や学業などの責務、あるいは家事や用事などの雑用、要するに習慣的な何か─が必要なのだと思う。

 他の人がどのような姿勢で人生に挑んでいるのか分からないし、各々がそれぞれの沼を這いつくばったり走り抜けたり飛び越えたり小径を整備したりしているのだろうから、正直なところ上に書いた事柄が共通認識なのか僕個人の妄想なのか判然としない。だが、少なくとも僕は何かに尻を叩かれることで視野を固定しておかないと、思考が寄り道しだして余計な煩悶に苛まれる性根を持ち合わせて生まれついたらしい。かつてあれほど輝いて見えた義務なき休日の過ごしにくさを次第に感じ始めてからはいよいよ疑えなくなってきた。今のところ義務を自給自足することで平穏な休日を生きているが、憂いなく謳歌していたあの日々は泡沫となって淡く散ってしまったのだろうか。記憶を過去として今の自分から切り離してしまうのをこれから幾度繰り返せばいいのだろうか。

 「人が生きること、それ自体が素晴らしい」というヒューマニズムの極致ともいえる文言は好ましく心惹かれる精神であり、僕もこの信念は自らの度量の許す限り他人に適用することにしている(裏を返せば、存在さえ許せぬ人も一定数いるということになる)。でも、なぜかその在り方をどうしても自分自身にだけは適用することができない。ただ生きている、存在するだけの自分を見逃すことが出来ずに、何かを成すことで自分の存在を許可するという条件付きの人生でなければ耐えがたい。何もしないことに付きまとう申し訳なさ、情けなさといった周囲に依存した感情ではない、個人的に自分を保持するための生存本能というべき何かがここには蠢いている。どのような過去の経験がこの迷妄な性格を涵養してきたのかを明らかにするのは難しい。きっと物心ついたころにはすでに歩む方向性が定められていた。

 その傾向ゆえか、単純な情緒不安定か、たまに発作的に自らを追い込む癖があり、最近またその片鱗が見え隠れしていたようだった。睡眠時間やカフェインの摂取量で客観的に判断できるはずなのに、盲目的信者には自分で気付くことができない。つい数時間前は無色透明な日常を享受しながら淡々と明日の予定などを機械的に組み立てていたが、しかし謎めいた衝動に不意打ちされてこの文章を書きはじめた今では聖域の侵蝕が始まり、自分という張り詰めた風船からどんどん空気が抜け萎んでゆくのを感じている。「何をして過ごすか」は「どのように生きるか」という一段重苦しい問いに姿を変え、生きていることが露見した瞬間に余計な哲学が“充実した”日常の邪魔をしてくる。

 僕にとって、この風船をパンパンに膨らます作業がおそらく楽しくてたまらない。なぜ風船を膨らませているのか深く考えることもその余裕もなく、忍耐と成果によって自分の生を許可していくのは身体や精神には楽でなくとも魂にとっては非常に楽な作業だから依存してしまう。今みたいにプシーと抜気してもまた近いうちに息を吹き込みはじめて、その繰り返しのうちにいつしか気圧に耐え切れなくなったそれがパンッと割れるまで続く運命の道中を歩んでいるように思えて仕方ない。まあこれは深夜に陥りがちなあの陶酔的なペシミズムかもしれない。いまだ不明瞭な未来のことをこれ以上悲観的に予測するのは度を超えた人生の物語化になりそうだから、今日の自分は領分を弁えて細やかな祈りと共に引き下がる。

 願わくはこの性癖が見当はずれの性急な思い込みたらんことを、あるいは思いのほか頑丈な自分たらんことを。