墓の中

穴は真珠貝 標に星の破片 傍には百年の待ち人

すばひび日記3:語りきれぬものを語りつづける

この記事は前回の記事の続き。

予鈴

 再び幕を開ける本鈴の鳴り響く前に一つお喋りを済ませておこう。

 先日、前回までの記事を読んでくれた聡明な友人から「記事の方向性が少し不鮮明かも」という指摘を得た。再度フレッシュな視点で初めから読み返してみるとたしかに、天下りに議題が生まれて終着点もいまだ分からないままいざ出発、という印象を受ける。この分かりにくさの由来を突き止めようと、まずその発端を執筆中の記憶という自己体験のうちに探し回ってみたところ、どうやらある程度は意図したものであり、また一方で意図を超えた過失もあり、その境界を明らかにするためには記憶を遡るときに直面した三つの問題について述べておく必要があると考えた。

 第一に、記事の指針における問題。既存の整備された山路を辿るのではなく、「世界」「幸福」「素晴らしき日々」といった一見バラバラの概念を標に登場人物たちの山路を辿るということを目的としている以上、結論から先回りしてあらかじめ山の地図を見せてしまうのは若干憚られた。もちろん過度に山を登りにくくさせることは本意ではないので、道中案内人の義務として入念な下調べの上で適切に道案内するということは果たしたつもりである。

 第二に、僕自身の主義における問題。前回の記事の終わり、第三章の結びにて、彼らたちが紆余曲折の上に到達した地点が実は同じ山頂であったということを確かめた時点で一応の終着としているが、少年少女の頂きでの思わぬ(少なくとも僕にとってこのように結びつくのは半分予想外であった)邂逅を予告するのは、まるでミステリ小説の冒頭で犯人とトリックを明かしてしまうが如きナンセンスなことではないかと思うのだ。過度の分かりにくさは除かれるべきだが、過度の分かりやすさも時には毒となり得る。効率化・合理化・簡易化が神話として仰がれる現代において、このような事を述べるのは時代の逆行も甚だしいけれど。

 第三に、僕自身の能力における問題。第一第二の問題を取り除いてもなお問題点が残るとすれば、それは執筆者兼ガイドである僕の責任である。これについては弁解のしようがなく、力不足を詫びるほかない。意図して見切り発車するにしても、もう少し見かけを取り繕うことは出来たのだろうから、自ら気付きしだい修正していく義務が僕にはあると考える。そのささやかな手始めに例えば、この記事を書き終えたときに、初めに目次くらいは残しておくことにする。

 以上、第一第二の問題に起因するのが意図した分かりにくさ、残った第三の問題に起因するのが意図しなかった分かりにくさと言えるが、正直筆者としてこの二つの区別は読者という第三者の介入無しには成し得ない。ただ誰かに、あるいは未来の自分に、諭されるのを待つことしか出来ない。

 少し長く喋りすぎた。開演の合図が鳴り出した今、壇上に立たぬ僕の話についてこれ以上は口を噤むとしよう。

 

再々開

 「世界」「幸福」「素晴らしき日々」という相互連関する三つの主題に対する少年少女の思想から彼らの至った境地を巡った前回までを第一部だとすれば、この記事は第二部という括りが相応しい。「終ノ空」「音無彩名」を扱う第二部は一新して、登場人物に寄り添うという感情的側面よりも正体の掴みにくいものの追究という理論的側面が強い。一度誰かが通った道を辿りながら周りを眺めるのではなく、獣道を手探りで歩んでいくことになる。大まかな道順は用意していても、この叢中の小径が一体何処に辿り着くのか、そもそも辿り着くことはないのか、不安は募るばかりだが、しかしここは一度歩み入れた暗闇、勇気を出して二歩目を踏み出すことにする。

 

第四章「終ノ空」とは

 『すばひび』には前身の作品『終ノ空』が言葉として何度か登場する。主に間宮卓司の信仰を支える重要概念として、時には遊園地のアトラクションとして、そしてエピローグのタイトルとして。それらは頭を介さずに雰囲気だけで何か伝わってくるものの、やはり掴みどころのない朧げな輪郭をもってあらわれる。幽霊にも似た概念を言語化することによりこの手で直に触れる、それが第四章の目指すべきところである。

 

間宮卓司と信者たちの「終ノ空

 そもそもこの訳の分からぬものはどうしてここまで訳が分からなく見えるのか、それを考えるには第一章の末尾に述べた事柄が取っ掛かりになるだろう。つまり、『すばひび』で描かれている内容は、論理的で理性的なものだけでなく、この物語の性質上自ずから非論理的な狂気の表現も現れるため、読解・考察に当たっては二つの峻別に気を払う必要がある。特に、卓司視点で描写される2章はこの混在が激しく、その区別は安易ではない。

 

地上すべて炎に包まれる前に……我々は空に還らなければいけない。そうだ!空に還る!我々は空に還るのだ!そうだ!世界の果て……空の果てがやってくる!世界が灼熱に包まれるその前日……世界の果てがやってくる……世界の限界がやってくる……そう、すべてが終える空がやってくる。終わりでも始まりでもない……空……空の臨界地点……無限と有限の境界……すべての対が終わる場所……すべての対が終える場所。終ノ空

─間宮卓司、Ⅱ. It’s my own invention

 

 これは卓司が信者の前で弁舌を振るった演説だが、僕はこの演説に限らず、宗教家としての彼のほぼ全ての発言に対して、論理(logos)ではなく情熱(pathos)の力を感じた。明確に筋道だった論理により場を支配するのではなく、曖昧で強い言葉を修辞的に用いることによって信者たちを熱気で沸かせる。こいつの喋り方も喋る事もなんかよく分からんけどカッコいい、と思った時点で信者(とプレイヤー)は既に説得されかかっているのである。頭でっかちで論理第一主義の現代人に対しては中々できることではないが、それにもかかわらず卓司は(クスリを用いているとはいえ)言葉で他人を自分の虜にし、また画面越しにもその迫力が伝わってきた。僕はこの事実をかなり高く評価している。

 一方で、卓司の舌先の暴走が考察上の混乱を生み出す原因となっていることも確かであり、「終ノ空」の見かけ上の難解さもまたここに起因すると考えられる。その上で、確からしい─言い換えれば、論理の俎上に載せるに値する─記述を選別してくる必要があるだろう。

 しかし、ここで更なる問題に直面する。我々は何を以てその記述が確からしいと判断すればよいのか。その問いに対する僕の指針はこうだ。たしかに卓司など個々人が「終ノ空」について語るときに確からしさは保証されない。しかし、複数人が「終ノ空」について会話するとき、そこに「終ノ空」の共通認識あるいは認識の齟齬が抽出されてくるだろう。その「終ノ空」の抽出成分らしきものは確からしい情報源として扱ってよさそうである。というのも、会話の際には通常であれば互いの考えている対象の一致不一致という論理的判断を経るわけだから、その分抽出成分の確からしさは担保される。よって、この方法論にならって「終ノ空」に関わる記述を探す。(実際は記述を見つけてから方法論を導いたのだが、その順序は大きな問題ではない。)

 こうして論理性の篩にかけて残ったのは、世界の終わりの日に学校の屋上から「終ノ空」へと至る直前、卓司直属の配下である希実香が信者たちに向かって「終ノ空」について問いかける場面である。

 

希実香「君達に、この終ノ空が見えるかー!見えるのかー?そしてそこに行きたいかぁ!」

希実香「うはっ!すんげぇ盛り上がってる……んじゃ、橘希実香から君達に最後の質問だぁ!君達には終ノ空がどう見えるんだーい」

みんな叫びすぎで全然分からない。もう何がなにやらだ……。もう次から次へと自分の終ノ空が語られる。叫ばれる。

(中略)

信者「す、すごい……」

信者「ものすごく大きい十字架……」

信者「私には……すごく大きな扉に見える……」

信者「俺は鍵と鍵穴が……」

それぞれが最果ての空に向かってあらゆる言葉で説明しようとする。世界最後の空……それはみんなにどう見えているのだろう。世界の最後の風景。世界最後の言葉。

─Ⅱ. It’s my own invention

 

 終ノ空とは何ですか?巨大な十字架。巨大な扉。鍵と鍵穴。各々が「自分の終ノ空」を叫びまくる。周囲の人間と様々な齟齬が生じていても構わず口々に声を荒げる。彼ら彼女らのごちゃまぜの発言スープを論理性の篩に通すと、そこに客観的認識として残るのは「終ノ空の現れ方は個人の感性に大きく依存する」という事実だけである。また、この時点で卓司は賢者モードであるのでその発言にもある程度の論理的信用が生まれ、少なくともこの場面における「終ノ空」とは「世界最後の日に我々の上を覆っている空」を指すと考えて良さそうだ。

 この「個人に依存した終ノ空」はまた別のルートでも繰り返し提示されている。希実香ルートの世界線で、同じく信者が各自の「終ノ空」を叫んでいる場面である。

 

最後の空。ここは最果ての宇宙。終ノ空と呼ばれる……場所だ。

希実香「ねーねー、あれってみんな同じ物が見えるんですかぁ?それとも違うんですか?終ノ空ってみんなにどう見えるんですか?

卓司「ちなみにお前には何が見える?」

希実香「なんか打ち上げ花火」

─Ⅱ. It’s my own invention (希実香ルート)

 

 やはりここでも「終ノ空」とはただ「世界最後の日に広がる空」であり、それ以上は個人の解釈に委ねられていることが窺える。え、じゃあなんだろう。「終ノ空」というのは難解な概念に見せかけておいて、まさかてんでばらばらな私的な感性のせいで見えづらくなっていただけなのだろうか?「幸福」とはただ「恵まれた状態を楽しむこと」だったのに、各人の考えることがあんまり多岐に渡るから、収集のつかない難解な概念になってしまった、みたいな現象と同じことが起きているのだろうか?

 

音無彩名の「終ノ空

 狂気の虜、「終ノ空」の虜となってしまった教団から離れて、外部の人間のより客観的な「終ノ空」論を頼っていこう……といっても、その論者は音無彩名のみで内容も不明瞭なものが二つばかりあるだけだ。音無彩名がどれほど論理的に発言をしているのかについても明らかではないが、手探りで暗闇を歩んでいる手前、とりあえず微かな縁でも信じて頼るしかあるまい。

 

皆守「終ノ空……それって何なんだ?」

彩名「さぁ、それはただの名前……何も語ってない……

皆守「そうか……ただの名前か……」

彩名「うん」

皆守「……そうか……なら質問次いでに……お前は何者なんだ?」

彩名「私?私は音無彩名と呼ばれてる……」

皆守「それはただの名前だろ……そんなもの何にも説明してないだろ……」

─Ⅳ. Jabberwocky

 

 これは皆守の疑問に対する音無彩名の回答である。「終ノ空」(と「音無彩名」)という名前自体に意味はあらず、命名は本質の説明に如かず。「犬」という文字は噛みつかないし、「金」という文字の書かれた紙は金にはならないし、「死」という文字を知ったところで死を理解したことにはならない、ということらしい。

 この「命名の無意味性」は前節に登場した「個人に依存した終ノ空」という概念と非常に親和性が高いことに気付く。「終ノ空」という言葉自体には「終ノ空」という言葉以上の意味はなく、そこからは個人の解釈の問題になっていく。そしてこの議論は、由岐の疑問に対する音無彩名の回答にもやはり息づいている。

 

由岐「終ノ空って何?それが何かしたの!?」

彩名「終ノ空は……間宮卓司君がそう呼んだだけ……それに名などない……

由岐「何それ?名がないって……」

彩名「週の最後の空……それに名前なんてない様に……あの空にだって名前なんてない……それはありふれた風景……ありふれた……最後の空……」

─Ⅰ. Down the Rabbit-Hole

 

 本質は命名によって指示されるだけで決して規定はされない、ゆえに命名は本質にとって相対的であり絶対的な行為ではない。これはまさに「命名の無意味性」と相似関係にある「名前の相対性」を示している。

 

ありふれた「終ノ空

 しかし、「終ノ空」は「世界最後の日の空」を指す言葉でしかない、という結論は些かトートロジカルかつ竜頭蛇尾であり、もう少し「終ノ空」に詳しい説明を付け加えたいと考えるのは自然な欲求だろう。さきほどの音無彩名の「終ノ空はありふれた風景」発言の続きを見てみることにしよう。

 

彩名「4京5千4百2十5兆6千9百8十4億5千2百3十5万5千4百8十1」

由岐「何それ?」

彩名「たぶんこの数を世界ではじめて私が言った。誰も聞いた事も見たこともない未知の数。でも不思議でもなんでもない……この数は誰にも言われなかったかもしれないけど……誰も驚かない……誰も形にした事がなくとも……誰でも理解出来……誰でも知っている……世界に一度も無かった風景だとしても……それは驚くような景色ではない……ありふれた世界

─Ⅰ. Down the Rabbit-Hole

 

 六面のサイコロを10回振って10回とも1が出る……そんな奇跡のような“ありえない”事象は1/60466176(=1/6^10)の確率で“ありえる”。しかし、例えば4→1→1→5→3→6→2→5→4→6の順で目が出るといった一見“ありえる”ような事象もやはり同じ1/60466176の確率でしか“ありえない”。奇跡一つとありふれた事象一つの間には確率上大差は無い。

 もちろんありふれた事象は沢山ありふれているので、それらの確率の総和をとれば、ありふれた事が起きる確率は奇跡が起きる確率よりはるかに大きくなる。だから、現実にはありふれた事象がありふれていることに疑問を覚えることはない。だが、今考えるべきは「ありふれた現象のどれかが起きた」ということではなく、「ある特定のありふれた現象が起きた」ということなのである。結局、奇跡一つとありふれた事象一つを分けるものは観測者の判断であり、事柄それ自体を見れば奇跡もまたありふれた事象の一つでしかない。

 それは例えば、45425698452355481が音無彩名によって人類史上初めて口に出された稀な数であり、一方でまたありふれた数であるように。終ノ空、世界の終わりに迎える空が宇宙史上初めてで唯一の風景であり、一方でまたありふれた風景であるように。それらは言われてしまった以上、見られてしまった以上、驚くに値しない。「それはどの程度の可能性で起きるか」という確率的議論も「現にそれは起きた」という事実確認の前には無条件に服従するしかないのである。

 かくして、「終ノ空」は「ありふれた風景」として現前する。

 

木村「何て言うか……これってごくありふれた風景なんじゃないかって……そう思えてしまうんだよ」

皆守「ごくありふれた風景?」

木村「うん……今回みたいなのがさ……ごく自然に起きても良いような……そんな錯覚におちいるんだよ……」

(中略)

木村「なんかあるたびに……自分はやっと死ねる……ってさ、言葉をネットで見るんだよ……世界の終わりってほどじゃなくてもいい……ただ大規模な災害……それだけでいい」

木村「そんなものでも“やっと終われる”ってさ。なんで彼らは……終わる理由を欲しがるんだろう……」

(中略)

木村「そんな人生の閉塞感はいつの時代だってある。自分の人生が、この宇宙の中で、この世界の中ではなんら価値がない……今の時代に限った事ではないさ……」

─Epilogue. 素晴らしき日々

 

 また別の場面、エピローグで皆守とジャーナリスト木村は、多数の学生が学園の屋上から身を投げた集団ヒステリー事件、「終ノ空」騒動について語り合う。自暴自棄、退廃主義、虚無思想、破滅願望、希死念慮、そういった時代の背景が今回の騒動を巻き起こしたのではないか。

 自分のこのちっぽけな人生、いくら喋って動いて学んで働いて努めても、いくら生きても特に価値はなさそうだし……もうこれ以上はいいんじゃないか。人生の閉塞感が社会に蔓延したとき、彼らは終末を救済として求めはじめる。強大な何かに呑み込まれる矮小な自分。圧倒的な力で壊し尽くされる世界。神でも仏でも大災害でも何でもいいから、とりあえず終わってしまいたい……。

 でも、この閉塞感による終末思想は今の時代だけでなくいつの時代にもあった、そんなありふれた社会心理なんだよ、と木村は述べる。だから、今回の騒ぎもたまたま若者が暴走してしまっただけで、実は多くの人間が心の内に望んでいたこと、そういうように「終ノ空」思想は「ありふれた風景」なんだ。

 音無彩名、ジャーナリスト木村の発言を踏まえた上で、「終ノ空」について総合するとこうなる。つまり、「終ノ空」とは、平和を徴すオリーブの葉を咥えた鳩のように、「世界の終わり」を象徴する風景であり、それ以上の意味は個々人に委ねられている。この「終ノ空」は集団が行き詰まりに苦悩したときに作り上げる概念であり、その終末がどんなに低確率の現象であろうともその存在を誰も疑わないような「ありふれたもの」である。だからこそ、「終ノ空」は集団によく浸透し、その姿(名前)を変えいつの時代にも社会に付きまとう「ありふれたもの」として常に隣にあり続ける……といったところだろうか。

 しかし、「終ノ空」がありふれているからといって、絶望や恐怖に慄く必要はない、と悠木皆守が悟ったことは前章でも触れた通りだ。彼は、「終ノ空」という終末が、また「終ノ空」騒動という終末思想の暴走が、えげつない「ありふれた風景」として起こり得ることを痛感したからこそ、幸せに過ごす「ありふれた風景」の不確かさに苛まれ、そしてこの素晴らしき「ありふれた風景」のかけがえのなさに悦びを謳歌するのである。

 

この幸福な時間は、明日にでもなくなってしまうかもしれない……。けど、それはすべてに当てはまる事だ……。目の前の由岐の姿がいつか消えてしまう……という不安は、すべての存在に当てはまってしまう。だから俺は、もう考えない。どこまでも続く坂道……。遠く霞む坂道……。まるで……そんな世界を俺たちは歩いている……。その坂道の先を気にしても仕方がない。俺たちはその道を楽しみながら歩いた。

─悠木皆守、Epilogue. 向日葵の坂道

 

 水上由岐の「終ノ空

 暗闇の中、「終ノ空」のぼんやりとした姿を捕捉したところで、この章の目的はほぼ達成された。以下で行うのは、作中に登場する他の「終ノ空」の姿がどの程度まで上記の「終ノ空」論によって説明できるか、という作業である。

 例えば、1章のざくろルートで由岐がざくろと共に古ぼけた遊園地でデートし、「幽霊部屋」という名のアトラクションに乗っている場面。ゴンドラに乗り、無人のコンビニ、無人のリビング、無人の教室、無人の病院をひたすら巡るだけのアトラクションに、困惑する由岐とざくろ。そしてその周遊の終わりに際し、唐突にその言葉は現れる。

 

頭上に広がるのは青い空。

そして、目線を下ろしたその場所には、プレート。

作品名『終ノ空

 

由岐「……なるほど、そういうこと」

背筋を通り抜けていった感覚に、思わず片頬を歪ませるかんじで笑えてしまう。普通のおばけ屋敷なら、屋敷内では大いに怖がったとしても、屋敷から出てしまえばそこで終了のはず。けれど、このおばけ屋敷はどうやら違うようだ。まるで今までの演出は、この最後の作品のためにあったような。いる筈の場所での不在と、いない筈の場所に立つ私たち、そういった薄気味悪い関係がこの空の下でずっと続いている、というような演出。

そのままゴンドラは止まる。普通ならばこういうものは回転し続けているものなんだけど……やはり終わりがなければ、看板に偽りありと言う事なのだろうか……。

─Ⅰ. Down the Rabbit-Hole (ざくろルート)

 

 「いる筈の場所での不在と、いない筈の場所に立つ私たち」というのは、「本来人がいるべき場所、例えばコンビニやリビング、教室や病院に人が一人もいない。でもそのように人が一人もいない場所なのに、なぜか私たちだけはここにいる」という状況を意味するのだろう。そして、アトラクションの最後に誰もいない青い空(もちろん元々空には誰もいないのだが)を見上げることで、「薄気味悪い関係」が屋敷の外に出ても続いているような錯覚に陥る。どこまでも広がる青い空が、人の不在と世界の終わりを予感させ、ゆえに「終ノ空」として命名される。

 前節までの流れに沿うならば、人によって見え方の異なる「終ノ空」が、水上由岐の目には「いるべき他人の不在」という姿形をもって具現化されたのだと考えられる。そして、まさにこのデート(July 18)の翌日、世界最後の日July 19はJuly ∞となって、遊園地で感じた気味の悪さは実際の世界での極度の不安となって、世界の最後は「水上由岐’s 終ノ空」=「いるべき他人の不在」となって顕現する。

 ここで、物語についての最低限の共通認識を持っておくことが要るだろうから、少しだけ物語上の補足をしておく。まず7月20日午前0時に世界が終わるなら、7月19日が世界最後の日という計算になる。別に一日ズレているわけではない。

 また、「終ノ空Ⅱ」を除く二つのエピローグでは、世界の終焉、つまり「終ノ空」の到来というのは間宮卓司と信者たちが作り出した幻想だという顛末で落ち着くのに、なぜざくろルートだけ本当に7月20日に世界が終わってしまうのか。これは他の話に対するざくろルートの特異性が原因だろう。ざくろルートの世界線では、由岐は自分がざくろの自殺に巻き込まれたことに気付かず、おそらく病院のベッドなどの中でその後の夢を見続け、舞台は夢の中で由岐が作り上げた幻想世界へと移行する。しかし、自分の真の状況、自分が今いる幻想世界の真実に徐々に気付き始めた由岐は、幻想世界の終焉を直感し、その直感の反映として幻想世界は終わる。夢だと悟った夢はもはや覚めるのを待つしかないように。だから、ざくろルートでの「世界の最後」が「水上由岐’s 終ノ空」となって姿を現すのは物語上必然なのだ。ただし、「世界の最後」の日を他の世界線と同じくJuly 19にするのは多少作為が加えられているだろうけれど。

 以上のことを了解した上で(老婆心的な補足なので別に了解しなくても問題ない)、July ∞に由岐がどのような「世界の最後」を迎えたのか見てみよう。

 

パソコンの電源を入れる。サーバーも落ちていない様でネット自体にはつながる……。メールサーバーは空だった……何も届いていない。不安はさらに募る……。だけど、その不安は少しだけ緩和される。

由岐「書き込みとかある……」

巡回するニュースサイトは更新されているし、匿名掲示板などの言葉も増え続けている。画面を通した世界では……人の存在を感じる事が出来た……。増え続けていく言葉……拡張され続ける言葉。変わらずに時を刻む音。1秒1秒は変わらない。それなのに、それだから……だろうか?逆に変わってしまった景色がちらついて、時が刻まれるたびにおかしな気分がつのる。世界が収縮してしまうかの様な感覚……。

(中略)

ネット上の言葉は増え続けている。あらゆる場所で……記述され続ける言葉。それは人の存在証明。ここは仮想空間などでは無い……記述され続けている現実世界……。なら、なんで……この違和感……。言葉は広がり続けているのに……感覚的には世界が縮まる……。縮小してゆく世界と拡張してゆく言葉……。

再びテレビをつける。サンドノイズ……。電波不調……チューニングミスだろうか?電話回線からは言葉が流れ続けている。いや、言葉だけじゃなく画像だって動画だって上がっている……。

由岐「なんだこの感覚……なんだろう……あはは」

テレビの画面は相変わらずサンドノイズ……何も受信していない……。

─Ⅰ. Down the Rabbit-Hole (ざくろルート)

 

お隣の若槻家の前に立つ。何故、彼女達は電話に出ないのだろう……それ以前にこの異変に誰も騒がないのだろうか?

由岐「……なんだこれ?」

呼び鈴を押そうとして気が付く……、この家には表札が無い……表札には真っ白な陶磁器の板がはめ込まれているだけだった。

由岐「……っく」

私はそのまま駅の方向に歩き出す。電車は普通通り動いていた……、ただしホームには誰もいなかった。それほど大きな駅では無い……それでも無人駅になる様な小さな駅でも無い……。ホームに電車が入ってくる……。アナウンスは無い……。私は苦笑いする。

由岐「いっそ人の痕跡が完全に無くなっていれば……それほど恐くないんだろうけど……」

ちらつく人の存在……ただ見ることも触る事も出来ない……。

由岐「あはは……なんだよこれ……まるで昨日のアトラクションじゃん……」

幽霊の部屋。不在によって切り取られた生活。動き続けるゴンドラ……。私は電車に乗り込む……。

─Ⅰ. Down the Rabbit-Hole (ざくろルート)

 

 「水上由岐’s 終ノ空」の描かれ方は背筋が凍るほど不気味である。目覚めてすぐに他人の不在が確かめられるのではなく、昨晩から続く微かな不安とともに起床した由岐はまずネット上で他人の存在を確かめて安堵する。しかし、テレビには電波の不在を仄めかすサンドノイズ。家の中には自分一人で誰もいない。隣の幼馴染の家に電話をかけても誰も出ない。他人がいるのかいないのか分からずに宙ぶらりんに括りつけられたかのような緊張が由岐だけでなくプレイヤーの不安すら掻き立ててくる。

 そして、家の存在と幼馴染の不在、ホームの存在と通行人の不在、電車の存在と乗車客の不在を確かめたとき、由岐は気付く。ああ、この不気味さはあのアトラクションの「いる筈の場所での不在と、いない筈の場所に立つ私(たち)」だと。私は「終ノ空」に近い領域へと足を踏み入れてしまったのだと。この幻想世界はさよならを告げようとしているのだと──。

 「終ノ空」は様々な意味でありふれているけれど、そのありふれた概念はしかし一様ではなくさまざまな姿を見せるということが分かる。例えば、巨大な十字架、巨大な扉、鍵と鍵穴、打ち上げ花火、そんな風に派手な演出を纏って現れる「終ノ空」もあれば、一方で誰もがいるはずなのに誰もいない世界、そんな風に粛々と背後より迫り来る「終ノ空」もある。ここで、章のはじめの問い─「終ノ空」たる概念はなぜここまで捉えにくいのか─に対しては、またこのようにも返せるだろう。すなわち、それは人の感性があまりに豊かで、あまりに色とりどりで、そのくせどこか似通っているからだと。

 

エピローグの「終ノ空」?

 最後に一つ残された「終ノ空」、それはエピローグとしての「終ノ空Ⅱ」である。「終ノ空」と冠している以上、終ノ空Ⅰがあるはずだが、そのようなものは作中に見当たらないため、自然な推察は作品『終ノ空』またはその結末が終ノ空Ⅰだろうという方向に向かう。しかし、最も「終ノ空Ⅱ」の考察に有用なこのゲームをやっていない今、このタイトルについて考えるには、そのエピローグの内容について、つまり音無彩名の正体について考える必要が出てくる。よって、この議論は一旦棚に留め置かれて、音無彩名に最後のスポットライトが落とされることになろう。

 

第五章「音無彩名」とは

 『すばひび』本編でも本記事群でも至る箇所で電波のような助言を残していった音無彩名。彼女の発言を何度も取り上げておきながら、その正体についての記述を後回しにしたのは、彼女との真っ向の対峙がゲームに対して否が応でもメタ視点を持ち込むことになり、全てが根底からぶち壊されてしまいかねないと考えたからである。実際に、音無彩名が自ら正体を仄めかす「終ノ空Ⅱ」が、本編でも最後に解放されるエピローグとして位置していることから、制作側も「音無彩名」という存在のラディカルさを意識していたことが窺える。しかし、最終章に踏み入れたいま、ためらう必要はもはやない。彼女の真の姿を明らかにし、様々な意味で『すばひび』という物語を終わらせることにしよう。

 

遍在転生する「音無彩名」

 「終ノ空Ⅱ」の冒頭で目を覚ました由岐は、2012年7月20日、卓司が託宣した世界の終焉を越え、学園A棟の屋上にいる自身に気付く。しかし、不可解なことが多すぎる。まず、私の身体。今ここにいる水上由岐は間宮皆守の肉体に受肉しているわけだけれど、その肉体は昨晩の騒動で腹は裂かれるわ屋上から落ちるわでこんな場所で立っていられる状態ではないはず。それに、学園の様子。2012年7月20日に世界が終わりを迎えるというのは卓司や信者たちの妄想だったということで良いにしても、信者であり生徒であった者たちの集団飛び降り自殺という事実は覆せないはず。それなのに、平穏にいつも通りにのんびりと夏休みを待ち構えている学園の風景。そして、何よりも目の前に平然と佇む音無彩名。夢現を解消しようと彼女が提示するいくつもの仮定は由岐を更に無限後退の迷宮へと誘う。

 遂に最後の注釈が付け加えられるとき、由岐の瞳に映る世界は反転し瓦解が始まる。それはサーッと静寂のうちに消えゆく砂上の楼閣のように。

 

彩名「最後の注釈……」

彩名「由岐さんに質問です……」

彩名「この世界にはいくつの由岐さんが存在しますか?」

由岐「へ?」

彩名「一人は、沢衣村で生まれ……沢衣村で死んだ水上由岐さん……もう一人は間宮皆守が作り出した人格としての水上由岐さん……そして私と話している今この場に存在する水上由岐さん」

彩名「さて問題です……あなたは何人目の水上由岐さん?

─Epilogue. 終ノ空

 

 1章のざくろルートでざくろと共に銀河鉄道に乗り込んだ水上由岐。『すばひび』の大半で間宮皆守の一人格として過ごした水上由岐。6章で過去に間宮皆守の姉貴分として生きて死んだ水上由岐。「終ノ空Ⅱ」で音無彩名に対面した水上由岐。我々は疑うことなく、これら全てをひっくるめて「水上由岐」として、少なくとも共通の「水上由岐」の意識を引き継ぐ存在として、受け入れてきた。しかし、違う人生もしくは違う世界線を生きた、これらの「水上由岐」がなぜ皆同一性を持った存在でいられるのだろうか。同一性というものはそんな風に似たような意識を持っているだけで認められるような、自由自在で臨機応変で柔軟な概念なのだろうか。仮に、今日電車内で見かけた大学生が「あなた」と全く同じような意識を持って大学に通っているとしたら、それを「あなた」は「あなた」として認めるだろうか?夜中にとつぜんうるさく鳴きだす野良猫が「あなた」と全く同じような意識を持ってナゴナゴ鳴いていたとしたら。無残に踏み潰された公園の野草が、砂粒から生まれまた砂粒へと還ってゆく石ころが、原子分子をミクロに形づくる電子雲が、全ての星全ての天を覆い尽くす宇宙が、「あなた」の気付かないところで「あなた」と全く同じような意識を持って存在していたとしたら……。

 そもそも、「水上由岐」なんて本当にいるのだろうか?「あなた」なんて本当にいるのだろうか?

 

最後に付け加えられる注釈……

仮定7……すべての存在は一つの魂によって作り出された……

一つの魂が、すべての視点を持てば良い……

高島ざくろも間宮皆守も間宮卓司も……間宮羽咲も若槻鏡も司も……一つの魂が見た風景……

遍在転生……

たった一つの魂の……無限の輪廻転生……時間、空間を超越した……無限の輪廻転生……もしそれが可能なら世界に魂なんていくつもいらない

世界はたった一つの魂の輪廻によって作り上げられた世界……

─音無彩名、Epilogue. 終ノ空

 

 「あなた」とは、ある区切られた時間の中、ある空間の広がりをもって、一つの魂が見た風景。「僕」とは、また別の区切られた時間の中、また別の空間の広がりをもって、同じ魂が見た風景。孤独な魂だけが数多の存在の目を通じて永遠に風景を眺めつづける。「あなた」も「僕」も「あいつ」も何もかも、風景の一部に組み込まれて廻りつづける。くるくる廻りつづける。いつまでも廻りつづける。

 

私という魂は……こんな事を何億回……何兆回もやったような気もする。あらゆる魂を演じてきたのかもしれない……。ある時は水上由岐、ある時は間宮卓司、ある時は悠木皆守、ある時は高島ざくろ、ある時は間宮羽咲、ある時は若槻鏡、ある時は若槻司。そして、また、初めてやるような気もする。

─水上由岐、Epilogue. 終ノ空

 

 遍在転生する一つの魂のもとに、『すばひび』における「水上由岐」の同一性は崩れ去り、「間宮卓司」や「悠木皆守」、その他全てのキャラクターと融合する。個々の意識を否定する絶対意識の存在は、『すばひび』の根本思想でありまた本記事群の第一章から至る所で種蒔いてきた独我論的「世界」観を全てひっくり返す最悪のアンチテーゼとして立ちはだかる。しかも、そのアンチテーゼは思想の否定に留まらず、「六人の少年少女たちの視点から描かれる群像劇」という物語の構造自体にさえ異を唱えるまでに過激なものである。

 劇場も演者も台本も奪われて粉々に朽ち果てた舞台の向こうに彼女は正体を露骨に現しはじめる。アンチテーゼの使者、高次元からの観測者、遍在転生する孤独な魂、舞台裏に潜んだ幽霊、彼女の名は──。

 

「────」

どこかで私を呼ぶ声がする。

私を呼ぶクラスメイトの声……。

だから私は振り返る……。

美羽「音無彩名さーん」

─Epilogue. 終ノ空

 

遍在転生の破片たち

 

私ってさ……いつから此処にいたんだろう……

いつから私だったんだろう……

─水上由岐、Ⅰ. Down the Rabbit-Hole

 

 「あなた」の始まりは「あなた」が目を開けたとき。「あなた」の終わりは「あなた」が目を閉じたとき。「あなた」の始まりは彼女が「あなた」の後ろに立ったとき。「あなた」の終わりは彼女が「あなた」の後ろから去ったとき。

 

由岐「彩名さん……あなたは何を知っているの?」

彩名「水上さんが知る事だけ……だよ」

─Ⅰ. Down the Rabbit-Hole

 

彩名「私は……あなたを見ている……あなたの姿を見ている……」

ざくろ「私の姿を……見ている……」

彩名「そう、あなたを見ている……」

─Ⅲ. Looking-glass Insects

 

 「あなた」の知っていることを彼女は知っている。「あなた」の見ている光景を彼女は見ている。「あなた」の後ろで彼女は物事を知る。「あなた」の後ろで彼女は世界を見る。

 

皆守「忠告ありがとう……分かった……って、あれ?」

……。

ほんの少し、考え事をして視線を外した刹那。再び視線を戻すと、其処には……誰もいない……。

皆守「……彩名」

─Ⅳ. Jabberwocky

 

 彼女は「あなた」の後ろにいる。いつでも「あなた」の後ろにいる。でも「あなた」は後ろにいる彼女を見ることは出来ない。「あなた」は自分の目を直接見ることが出来ないように、彼女のこともまた直接見ることは出来ない。

 

卓司「お前は一体……今、ボクに何をした!」

彩名「さぁ……何にもしてない……私はただ見てただけ……」

卓司「何かしただろ!」

彩名「くすくす、勝手に間宮くんが妄想の中に入っちゃっただけ……私は何もしていない」

─Ⅱ. It’s my own invention

 

 彼女は「あなた」に何もしない。何もしてこない。彼女は「あなた」の後ろで「あなた」の見ているものを見つづける。ただひたすら見つづける。

 

彩名「水上さん……こんな話……知ってる?」

由岐「?」

彩名「……世界には何人の魂があれば足りるか……」

由岐「……それはどういう意味?」

彩名「そのままの意味……世界に必要な数の魂……たぶん……一つで十分……」

─Ⅰ. Down the Rabbit-Hole

 

 全ての「あなた」は彼女の御名の下に。彼女は全ての「あなた」の具象の上に。

 

『すばひび』における「音無彩名」

 これを書く「僕」の後ろに、そしてそれを読む「あなた」の後ろにいるかもしれない遍在転生存在を、「僕」や「あなた」に知る由もない。だから、遍在転生は永久に保留される仮説であり、良いところで形而上学的議論、悪く言えば荒唐無稽な病的妄想でしかない。

 しかし、現実世界における遍在転生は不可知なものとして沈黙することにしても、『すばひび』というゲームに限定すれば話は変わってくる。というのも、「水上由岐(たち)」の後ろに、「間宮卓司」や「悠木皆守」の後ろに立つ存在なら、「音無彩名」以外にも我々はよく知っているはずだ。「水上由岐」として見た世界の記憶を保ちつつ「間宮卓司」として世界を見ることの出来る存在を知っているはずだ。『すばひび』の世界で遍在転生を繰り返すたった一つの魂の存在を知っているはずだ。STARTボタンを押したあといくつかの視点の中から選んで世界を見始める、もしくはLOADボタンを押したあと再開したい世界を選んでそれを再び見始める、そして世界の観測を止めようと思ったときはSAVEボタンを押して世界を一時停止したあとEXITボタンを押す、そんな自由気ままな存在を我々は─まるで自分の事かのように─知っているはずだ。

 「音無彩名」とは誰か?遍在転生する唯一の観測者。では、『すばひび』における「音無彩名」とは誰か?それは、『すばひび』をプレイするあなた自身である。

 

エピローグの「終ノ空」再考

 こうして最後まで手元に残された、プレイヤーであるあなた自身というピースをはめ、「終ノ空」というジグソーパズルは完成する。その仕上がりを眺めることでこの最終章を締めくくることにしよう。

 エピローグ「終ノ空Ⅱ」の結末、「水上由岐」という視点は徐々にピンボケしていく。自我がぼやけていくような曖昧な意識の中、まるでずっと前から待ち構えていたかのようにその言葉は再び現れる。

 

空は、どこに続いているのだろうか……。

たぶん、世界中の空とつながっているんだろう……、

だとしたら……この空と──

──終ノ空

つながってはいない。

……、

なぜなら、

それは、

あってはいけないものだから──

けど──

それは本当だったのだろうか?

─水上由岐、Epilogue. 終ノ空

 

 前章で繰り返し述べてきた通り、「終ノ空」の見え方は個々人に依存するため、まず誰にとっての「終ノ空」なのかをはっきりさせる必要がある。「音無彩名」というプレイヤー的なメタ視点を取り入れてきたことと、この場面が『すばひび』というゲームの最後を締めるシーンであることを踏まえれば、ここでの「終ノ空」がプレイヤーにとっての「終ノ空」、すなわち「物語世界の終わり、ゲーム画面いっぱいに映えわたる青空」と第一に考えられる。

 そして、二次元存在である由岐が物語の内側から眺める「この空」と、三次元存在であるプレイヤーが物語の外側から眺める「終ノ空」は「つながってはいない」。物語の境界線を踏み越えることは登場人物にとって明らかな領域侵犯であり、語る側と語られる側という物語の構造を保つために破ってはいけない禁忌であり、そもそも次元を超越した不可能な行為だ。ゆえに、プレイヤーが見ている「終ノ空」は由岐にとって「あってはいけないもの」となる。

 

「────」

どこかで私を呼ぶ声がする。

私を呼ぶクラスメイトの声……。

だから私は振り返る……。

美羽「音無彩名さーん」

彩名「はい……」

美羽「はぁ、はぁ……ったく探したよぉ」

美羽「ったくどうしたのよ一人でこんな場所で?終業式始まっちゃうよ……」

彩名「始まる……」

美羽「そうだよ……始まっちゃうよ……」

彩名「くすくす……」

美羽「ど、どうしたの?」

彩名「終わったばかりなのに……もう始まりなんて……」

美羽「え?」

彩名「いいえ……行きましょう……」

彩名「その始まりの地点へ……」

─Epilogue. 終ノ空

 

 ラストシーン、「────」で視点はとつぜん由岐から音無彩名、つまりプレイヤー自身に切り替わる。プレイヤーにとって物語『すばひび』は終わる寸前なのに、美羽は架空のイベント「終業式」が始まる寸前だと思っている、その一方的なすれ違いという皮肉に思わず苦笑する。しかし、考えようによっては『すばひび』における遍在転生存在である我々にとって、終わりとは始まりなのだ。我々はまたSTARTボタンを押し視点を選ぶことにより「始まりの地点」からいつでも何度でも輪廻をはじめることが出来る。なぜなら、画面の前に坐する我々はみなそれぞれが「音無彩名」なのだから。

 

閉幕

 ようやく暫時の結びへとたどり着いた。ここで、長すぎる一連の流れを手短にさらい直す意味も込めて、第一章から第五章で見てきたことを模式図で表してみることにする。「世界」という土壌の上で、「幸福」という種から「素晴らしき日々」という花が咲き、「終ノ空」がそれを上から覆う……という風景を「音無彩名」が外から眺めている──。僕はこれこそ『すばひび』という作品の根底にある思想を最も簡潔に言い表している絵だろうと思っている。

 しかし、そもそも何故この5つのテーマ─「世界」「幸福」「素晴らしき日々」「終ノ空」「音無彩名」─を取り上げることに決めたのだろうか。これについて説明責任を重々承知していたつもりだったが、いざ説明する段階となると、まこと不可思議な直感という無責任なやつが働いたから、以外に理由を持たないことに気付く。思考を重ね作品に思いを馳せて文字を書き連ねてきた上でも、いやむしろだからこそいっそう、この直感が正しかったということを確信せずにはいられない。

 ただし、もちろん全てを扱いきれなかったという自覚もまたある。たとえば作中何度も取り上げられていた様々な死生観については、上手く合理的な理解に至らなかったため、執筆を断念した。仮に死生観を取り上げたとしても「幸福」もしくは「素晴らしき日々」という上位概念の中に組み込まれていたはずだから、やはり先の5つは絶対的なものだろう。他にも「空気力学」「世界そのものの少女」「空の少女」といった1章のざくろルートのみで出てくる概念は、僕自身が上手い解釈に至らず、また『すばひび』全体に浸透しているとは思えなかったので省いた。

 2年前のあの日に語りえなかったものはこの日をもって全うに語りなおされたか、という自問に思い悩むのはもう止めにした。少なくともこの日に明示的に語りうることは全て語ったつもりだから。本来或る素晴らしい作品について語りきるという行為はほぼ不可能なわけであって(もしかすると論理は逆で、語りきれないからこそ素晴らしいのだろうが)、沈黙するか語りつづけるかのどちらかを選ぶしかない。そして後者を選んだ者は、迷宮をグルグルと巡行する愚かな冒険者として人生の涯までその作品とともに過ごすことになるのだろう。『すばひび』が迷宮入りするほどの作品かはいまだに分からないが、これだけ長々しく語りつづけられる作品であることは確かであり、心惹かれる何かがあったということは何よりも確かであり、ゆえに僕が『すばひび』を好きだったということもまた同等に確かである……というバリバリの主観的感想をもって、なるべく客観的であろうとした考察を閉ざすことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一人だけのカーテンコール

「折角書きなおすなら、僕にしか書けないものを書こう」

 そう誓って書き始めてからは、いつも以上に繊細にテクストを読みつつ拾い上げて、記事を一貫して突き抜く軸を作って、それに則り順序だった構成を考えて、正確だが無粋でない言い回しを選ぶように気を払い続けた。外を出歩いている最中にふと、よさげな解釈や恰好の表現、いい感じの文の組み立て方を思いついたときは、書き残す前に忘却の彼方へと消えてしまわないかと自然に歩調は速まりつつ、心もまた躍っていた。と同時に、なんとかして完結させないといけないという焦りが、一方で手を抜いてはいけないという縛りが、そしてそれらの絶え間ない相克が、孤独な僕のこころを躁と鬱の間で徐々に激しく行き来させていた。息抜きに見直したSHIROBAKOは僕の息をさらに詰まらせた。キャラクター全員が一途な尽力の末に素敵なアニメーションを完成させる最終回では、かつて感じた胸の高鳴りはどこにも見当たらず、“完全なる完結”をつきつけられて身体の内側からただ張り裂けてしまいたかった。毎回書き終えて最後の推敲をしている間は、自ら課した重荷から逃げたい、ただその一心で終わりを目指していた。だから、これ以上頭を使いつつ書き記すだけの忍耐力を持ち合わせていないことも、自分の実力の一部だとして扱うのであれば、この記事たちが今の僕に出来る精一杯である。

 だが、作品に注釈を付ける作業は独創性と親和しない、独創的な作品鑑賞など矛盾に限りなく近い概念だ、既製品を分解して設計図を描くことが果たしてどれほど独創的と言えよう、と気付いたのは終盤に至ってからだったかもしれない。ふと後ろを振り返ってみると、誰でもが、とは言わないまでも誰かが既に言葉として残していそうな内容の寄せ集めが没個性な高層ビルのように組み立てられて、塗装が剥がれてよく文字が読めなくなった「僕にしか書けないもの」という看板を掲げたまま、それは上からこちらをジッと覗きこんでいる。

 その注釈の凡庸さという性質も相まって、自分の精一杯は存外ショボいのかな、と少し……どころではなく、かなり落ち込んだ。絵も音楽も運動も疎い僕にとって、何かを外部へ発露する手段として残されたのは書くということだけだったから、その手さえ無価値だと思い知らされたこころは奈落に叩き落された。間近に見えていた終点が始まりの地ですらないと気付き、行き場のなさは次第に所在のなさに変わり、凡愚の沼に足掻きながらも呑み込まれていった。でも、出来の悪い子に対する親心さながら、どんなに気取っていてもスベっていても自分で練り上げた言葉たちには愛着がどうしても湧いてしまう。そこで、この愛着を糧に僕はまた立ち直って、この愛着を言い訳に僕はまた書き続けることにした。

 マッチポンプ的な自己肯定感はさて置くことにしても、巧みでなくとも丁寧に言葉を選んで書き連ねることはそれ自体が一つの効果を生むようだ。その効果とは自分の執筆能力の限界を知るということである。頭を捻れば思いつく表現や言葉運びや文の組み方、一方で神様が下りてでもこない限り生まれないであろうそれら。次第にその境界が浮かび上がってくる。なにかを読んでいるときに、こんな凄い文章は自分に書けない、このくらいの文章なら頑張れば書けそう、という意識が芽生え始めたのは、表現への観察眼が養われたと考えれば吉であり、余計な自意識の闖入と考えれば凶である。本人的にはこの見え方の変化は今回の考察もどき執筆の最大の功績だろうと思っているのだが。

 それで結局決心やら反省やら落胆やら克服やら成長やら展望やらつまるところ何が言いたいの、という問いが自分の内側から出てくる。僕は少し迷って、たぶん上に記したどれもが言いたくて書きたくて仕方なかったんだと思う、と自分の内側へ返してから、大きくひとつ深呼吸をして「公開する」ボタンを押した。