墓の中

穴は真珠貝 標に星の破片 傍には百年の待ち人

すばひび日記2:語られざるべきものを語りあかす

この記事は前回の記事の続き。

再開

 第一章では登場人物たちの目を通じて「世界」を見て、そして心を通じてその向き合い方を了解してきた(ということにしておく)が、第二章、第三章ではより感性的な概念である「幸福」、「素晴らしき日々」を感じ取っていきたい。再び書き始めるに当たって、一点ばかり葛藤を告白しておく。おそらく、物語を多少嗜まれる方─そして、この記事を読み始めた奇特な人々は大体が物語中毒者だろうと予測する─にとって、『すばひび』をプレイしている最中には、これから説明される「幸福」や「素晴らしき日々」のイメージを曖昧であれ既に胸裡に抱いていたはずである。「上手く説明はできないけど、彼らにとっての『幸福(もしくは素晴らしき日々)』って何ていうか……まぁ、言わんとしたいことは分かるよ」。そう皆がプレイ中には感じ取っていたはずのことしか、僕は感じ取らなかったし感じ取れなかった。書き残さなかったし書き残せなかった。それなのに、わざわざ文字を書き続ける意味は、自己満足以外の何処にあるのだろう?

 登場人物と同じように物事を感じる──これが、この記事(群)の第一義であるならば、実は既に達成されているかもしれないのだ。僕が自分自身で定めた自身の役目からは既にお役御免なのである。その上で、あらかじめ宣言しよう。これから、暗黙のうちに感じている“それ”をわざわざ分節化しては、「どう?」と露骨に提示する悪趣味を行うことになる。その行為を言語による秩序化として崇めるのもよし、直感の冒瀆だとして貶すもまたよし。それを選ぶのは、これを読むあなたである。

 

第二章「幸福」とは

 『すばひび』の世界を生きる少年少女。彼らは物語の末に「幸福」たるものを見つけ、感じる(感じ、見つける)。この「幸福」という言葉はその曖昧さゆえに深遠な意味を持ち始める。このような言葉を僕は「強い言葉」と呼んでいて、「神」とか「永遠」とか「究極」とか、それこそ第一章で扱った「世界」「世界の限界」などはその筆頭かもしれない。強い言葉に人は弱く、すぐに心を揺さぶられてしまいがちである。「幸福に生きよ!」なんて著名な哲学者が臨終に言っていたとしたら、その意味が分からなくてもカッコいいに決まっている。

 その文字列自体に酔い痴れることを否定はしない。もしかするとそれは最も純粋な言葉の愉しみ方だろう。ただしそれはどちらかと言えば詩的愉しみであって、登場人物に寄り添って「幸福」を眺める、という物語的愉しみはまた別種の悦びを我々に与えてくれるはずだ。

 

間宮卓司の「幸福」 

感動も、苦痛も、快楽も、ただ遠くにある宝石。それでも人よ。幸福たれ!

─間宮卓司、Ⅱ. It’s my own invention

 

  突然の人間賛美っぽい独白で始まる2章は、他の章に比べて異様な雰囲気を漂わせている。救世主・間宮卓司は数々の“奇跡”を引き起こし、深夜の校舎で“巡礼”を行い、屋上で“聖戦”に打ち勝ち、狂信者の“救済”に至る──。相互監視の閉鎖的な環境。薬物と快楽と言葉による洗脳。終末思想と選民思想の植え付け。外部の人間には集団ヒステリーとカテゴライズされて忘れ去られていく一連の出来事を内部から狂気のままに描き出す様子は圧巻の一言だ。その異端の章である2章のクライマックスに卓司がこれまた突然に「幸福」を嘯く。

 布教の終盤、怪我や疲労困憊によって体力を奪われ、それに伴って気力も衰えていった卓司は、救世主としてのやる気も次第に失せて、側近である橘希実香に教団の運営を全て丸投げする。そして、最後の“救済”─つまり、終ノ空へ至るために屋上の縁から飛び出す儀式─の際に、賢者モードの卓司は己を信じついてきた狂信者たちの乱痴気騒ぎを見てこう述懐する。

 

屋上の真ん中で大きな炎の柱が立つ。巨大な炎の柱。何人か巻き込まれて火だるまになっている。いくらクスリ付けだからってあれはさすがに熱いだろう……全身火だるまだ……。もう、端から見たら地獄だよな……この光景。でも、なんでこの地獄をそんなに楽しそうにみんなはしゃいでるんだ?

終ノ空の下……ボクは戸惑っている。世界の果てでボクは狼狽している。ここにある快楽に……ここにある心地よさに……。なんでこんなに輝いてるんだ?なんでこんなにみんな輝いてるんだ?みんな輝いてる。みんなの生がまるで光に照らされている様に……輝いている。最果ての空が人々の生をこれ以上ないほどにうつしだす。その命の意義をこれ以上にないほど美しく光らせる。

そうだ輝け!最果てよ、我々の生を照らせ!

─間宮卓司、Ⅱ. It’s my own invention

 

  「終ノ空」「世界の果て」などの用語について深く考える必要はない。ただ、信者たちが己の死という終焉の間際にあるということ、その状況下で半狂乱になって宴を楽しむ彼らがなぜか輝いて見えること……それがここにおける全てである。

他記事で幾度も取り上げてきた、個人的にお気に入りの、そして多くの物語に根ざしている「極限状態にこそ真実は現れる」理論(極限理論とでも略しておく)が兆しを見せる。それは例えばありきたりなところで、文化祭の後夜祭。楽しかった非日常から平凡な日常へと戻ってしまうその境目、ギリギリのところで、キャンプファイヤーを中心に踊り明かすからこそ、かけがえのない価値を生み出す。

 

突如、記憶に浮かび上がる言葉。

時は第一次世界大戦!その戦場に立った、若き日の20世紀最大の哲学者。その飛び交う弾丸の中で、自らの生が輝くのを見いだした。いつ死ぬとも分からない世界でこそ、彼は生が輝く事を書き留めた。

「神よ我の生を照らし出せ!」

彼の名はヴィトゲンシュタイン

「伝えて下さいな、俺の人生が最高すぎだったってさ!俺、すんげぇ最高すぎな人生を生きてやったって、友達共には伝えておいてくださいな!」

彼は死ぬ瞬間にそう言って息絶えた。誰が見ても不幸な人生。誰が見ても大変すぎる人。

(中略)

彼は言う。

幸福に生きよ!

誰が見ても不幸だった人が言うなよ!

でも、今なら分かる……。

─間宮卓司、Ⅱ. It’s my own invention

 

  死と隣り合わせの状態、戦場そして臨終の場において、ある哲学者は己の人生の至高の輝きを発見する。たとえその人生が不幸の連続だったとしても耐えがたい醜さに溢れていたとしても最高のものであったと言を残し、現世より立ち去った。在りし日の彼はその煌めきに「幸福」の可能性を見出していた。卓司はこの史実を自らの状況を重ね合わせ、その意味を実感する。

 しかし、醒めた目で眺めると、一つ疑問が生まれてくる。極限理論がなぜ成立しうるのか?たしかに「最後の最後でボロボロになったときに昇華の瞬間を迎える」というのは、傍から見ている分には、救われた感じがしてとても気持ちが良いわけだけど、でもそれって気持ち良さだけを優先させてない?極限理論は物語のテクニックとしては使えるかもしれないけど、現実の人生においてどれほど適用できるものなの?せめてその理論の根拠がどのへんにあるのかくらいは知りたい。(これは最近の僕の考え事で、悩み事である。)

 『すばひび』における極限理論の理由づけは、薄い。そもそもこの作品自体が「それが正しいかどうか考えるよりも、それを信じることの方が大切だ」と多くの場面で主張しているので、「正しいかどうか考える」ための理由づけなんか薄くて当然なんだけれども。

 

世界の限界が……此処であるなら……。世界の果てが此処であるならば……。世界は器でしかない……。

誰かが言う……人生は空虚だ……。当たり前だ……世界は器でしかないのだから、其処に何か満ちてるわけがない。その器を満たすモノは何か……。金か?夢か?名声か?女か?エロゲか?馬鹿馬鹿しい……それも器にしかすぎない。それらは世界の一部だ。記述可能なすべて……言葉に出来るすべて……それは世界でしかない。

世界を満たすものは、世界の外にあるもの。

─間宮卓司、Ⅱ. It’s my own invention

 

 だが、引き続く独白を読んでみると、うっすらと伝わってくるものもある。妄想を交えて必死に読み解いてみることにしよう。

 第一章で見た独我論的「世界」観によれば、「世界」とは「自分の感じている・考えているもののすべて」である。ならば、ただ記述されるだけの「世界」それ自体に言葉以上の意味はない……。では、どこに意味を求めればいいのか?あえて意味を求めるなら、それは「世界の外」であろう。語りうる「世界」の外である以上、それは語りえず信じるしかできないものだが、そこから意味は生み出されて「世界」を満たしていく。例えば、「死」はその本質を、生きている人間には語りえないことから「世界の外」に所属するが、その「死」こそが対立概念の「生」に意味を与える。

 この論理から極限理論はこのように基礎づけられる。極限状態を迎えたとき、それはすなわち自分の感性・想像力の限界を迎えようとしているときであり、また「世界の外」を普段よりも強く意識するときである。そのとき、意味が「世界の外」より訪れ、「世界」という“器”に満ち溢れるのを感じる……。

 

 こうして、彼の「幸福」談義は終わりを迎える。極限理論を礎に置いた「幸福」。それは「世界の外」に近付いた者にのみ与えられる意味の奔流。卓司が終ノ空信仰の末に辿り着いた境地。我々は彼と共にその深淵を覗くことは出来たかもしれないが、いまだ飛び込むことは叶わない。そこに飛び込む資格を持つのは、「世界の限界」に挑んだ者だけである。

 

水上由岐の「幸福」、あるいは「素晴らしき日々

 作中で「幸福に生きよ」と明示的に語る人物は間宮卓司の他にもう一人いる。それは6章、つまり回想における水上由岐である。彼女は人生最後の晩(もちろん彼女はその運命を知らない)に、弟分の間宮皆守と二人で壮大な星空を眺めて、渺渺たる天蓋の下で「幸福」を悟る。その悟りの語りに耳を傾けてみよう。

 

由岐「人は先に進む……その歩みを止める事はない」

由岐「たった一つの思いを刻み込まれて」

皆守「たった一つの思いを刻み込まれる?」

由岐「そう、命令にした刻印……すべての人……いや、すべての生命がその刻印に命じられて生きている」

皆守「全ての生命を命じる刻印……」

由岐「そうね……その刻印には、ただこう刻まれている」

由岐「幸福に生きよ!」

由岐「猫よ。犬よ。シマウマよ。虎さんよ。セミさんよ。そして人よ」

由岐「等しく、幸福に生きよ!

─Ⅵ. JabberwockyⅡ

 

 幸福に生きよ。由岐は定言命法、隈なく全生物へと無条件に下された命令としてその言葉を唱える。卓司の辿り着いた「幸福」が限られた人間にしか到達できなかったのに比べると、幾分か大乗的な「幸福」である。しかし、その普遍性の精神は理解したとしても、その正体を掴むにはまだ至っていない。由岐さんや、その「幸福」とは一体何ぞや?

 

由岐「死を知らない……動物は永遠の相を生きている……だから、幸福に生きようとする動物は、いつだって幸福なんだよ……」

皆守「動物って死を知らないのか?」

由岐「当たり前じゃない?」

皆守「なんで?」

由岐「だってさ、本当は誰も死なんて知らないんだからさ」

皆守「誰も?」

由岐「そう、誰も死なんて知らない……死を体験した人なんかいないんだからさ……死は想像……いつまで経っても行き着くことの出来ない……人は死を知らず……にも関わらず人は死を知り、そしてそれが故に幸福の中で溺れる事を覚えた……絶望とは……幸福の中で溺れる事が出来る人にだけ与えられた特権だな」

皆守「特権って……どう考えても悪いもんじゃん」

─Ⅵ. JabberwockyⅡ

 

  人以外の動物は「幸福に生きよ」をただ実践して生きるから幸福である。人以外の動物は自らの死を知らずに生きるから永遠の幸福を疑わない……。しかし、人は知恵の実を食したが故に、本来知りえないはずの「死」を想像して恐れるようになってしまった。「人は死を知らず……にも関わらず人は死を知り」というのは、「人は『死』を何一つ理解できないはずなのに、想像により疑似的な『死』を作り上げて、そのハリボテの『死』を以て『死』を理解したつもりになる」ということだろう。

 死を恐れた人間は、そこから目を背け、ただ夢中になって生を貪る。死との対峙を避けんがために必死に「幸福の中で溺れる」が、ある日死の不可避性に(再び)気付いたとき「絶望する」。由岐は生への耽溺と死への絶望の間での往復が生と死を弁えた人の「特権」であると考える。それは自由が生み出した責任、権利を享けたがための義務。

 

でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた……空を美しいと感じた……良き世界になれと祈る様になった……言葉と美しさと祈り……三つの力と共に……素晴らしい日々を手にした。

人よ、幸福たれ!

幸福に溺れる事なく……この世界に絶望する事なく……ただ幸福に生きよ、みたいな。

─水上由岐、Ⅵ. JabberwockyⅡ

 

  知恵ゆえにそんな面倒くさい動物になってしまった人が知恵から授かったもの、言葉と美しさと祈り。「世界」を語るための言葉、「世界の外」より意味として出づる美しさ、「世界の外」に意味を託す行為としての祈り。我々はそれら三つの贈り物を胸に仕舞い込み、耽溺と絶望の中庸を目指そう。生─「世界」─に過度に依存せず、死─「世界の外」─を過度に意識せず、ただ動物的に生を享受しようぜ?彼女はそう提案する。

 この場面について考えていると、『サクラノ詩』のラストで、祝勝会のあと孤独にトイレで嘔吐する主人公・草薙直哉の嘆きがどうしようもなく思い出されてしまうので、ここに書き残すことを許して欲しい。

 

なんだって分量を誤れば、吐き気がするぐらい、気分が悪いもんだ。それが最高にきらきら光ったもので、最高に幸せな物だって、分量を誤れば血を出してでも吐き出したくなる。最高に輝いた瞬間だって、度が過ぎれば苦痛以外の何物でもない。

(中略)

輝く時だけが生きている時じゃない。うまくいっている時だけが、生きている時じゃない。

─草薙直哉、『サクラノ詩

 

  ここに、便器に顔を埋めた直哉は星空を頭上に仰いだ由岐ときっと同じことを考えていたに違いない。これ以上作品間の対話を深く掘り下げるだけのネタも余裕もないが、少なくともこの「幸福」観に立って両作品を比較すれば、『すばひび』が中庸を目指した物語とすれば『サクラノ詩』は中庸を歩んだ物語だ、と語るのは一オタクの戯言に留まるものではないだろう。

 

第三章「素晴らしき日々」とは

 間宮卓司の「幸福」が極限状態にしか手の届かぬ困難なものだとしたら、水上由岐の「幸福」はいつでも誰にでもどこにでも感じることのできるありきたりなものだった。さて、その由岐が「幸福」を語る際に「素晴らしい日々」という言葉を使っていたことを踏まえるに、由岐流「ありきたりな幸福」観から「素晴らしき日々」に繋がっていく道筋が見えてくる。正直、一縷の細い光筋にしか見えない不確かな“それ”についてどうやって語ろうか頭を悩ませていたが、ここでも1章ざくろルート、水上由岐と高島ざくろの物語から始めることにしよう。

 

高島ざくろの「素晴らしき日々

 1章ざくろルートは、ざくろの飛び降り自殺に由岐が巻き込まれるところから分岐が始まる。現実とは異なる夢の世界で由岐はざくろと共に過ごし、その世界の終わりの日、2012年7月20日に二人は学校の屋上から銀河鉄道に乗り込む。『銀河鉄道の夜』に見立てられたその鉄道旅行は、石炭袋の近くでざくろとの別離により終わりを迎える。

 

あなたが幻想世界と呼んだ、この世界での生活は、私にとっては至極の記憶です。この夢の世界こそ、私の人生で一番の思い出となりました……書き割りの様なチープで……出来損ないの夢の世界……それでも、そこであなたと過ごせた時間は、間違いなく……素晴らしき日々でした。

─高島ざくろ、Ⅰ. Down the Rabbit-Hole(ざくろルート)

 

  壮大な物語のエピローグのような大団円でもなければ、壮絶な悲劇としての最期を迎えるわけでもない、ただひたぶるに平凡なありふれた日常。たとえそれが幻想にすぎない夢、ニセモノの世界だったとしても、それでも「素晴らしき日々」はあなたと共にそこにありました……。

 ついに物語の最後まで報われることのなかったヒロイン、ざくろは「ありふれた世界で素晴らしき日々を過ごす」生き方を演じて散った。この人生観を負け犬の負け惜しみとして一笑に付すのはあまりにも性格が悪かろう。ざくろが自らの身を挺して伝えた生き方は作品のところどころで芽吹いている。それは例えば、第二章で述べたような由岐流「ありふれた幸福」観に、あるいは以下で見る皆守が辿り着いた「素晴らしき日々」の境地に。

 

終着駅で扉が開く。人々が普通の駅よりも遥かにゆっくりと下りていく……。終着駅の扉は時間が長い……途中下車の様に急いで下りる必要など無い……。遊園地前という名のこの駅では、みんな一様にゆっくりと駅に降り立っていた。

夢の世界へ……、と言うにはあまりに古ぼけて……チープな遊園地。そんな安っぽい夢の世界に、みんなゆっくりと笑いながら進んでいく……。

─水上由岐、Ⅰ. Down the Rabbit-Hole(ざくろルート)

 

  これは、由岐がざくろと遊園地デートに向かうときの、物語としては重要な転換点でも何でもない場面での描写だが、「ありふれた幸福=素晴らしき日々」としての情緒が微かに感じ取れる。

 

悠木皆守の、そして少年少女の「素晴らしき日々」 

坂道は霊界との境界線でも何でもない……。この坂を登り切ったところで、天国も、黄泉も、新しい世界も何もない。ただ、ありふれた風景がそこにはあるだけだ……。

─悠木皆守、Ⅵ. JabberwockyⅡ

 

  向日葵の坂道、それは皆守にとっての「ありふれた風景」、そして「ありふれた幸福」の在り処。幼き妹が亡き父の魂を追って駆け上がった坂道の先には、世界の果てでも天国でも黄泉でもなく、ただありふれた街の夜景とその灯の下で生きる人々の生活が広がっていた。丘の頂きに立った妹・羽咲は感動と安堵を抱いていたに違いない、というのは第一章で述べた通りだが、小さな保護者である皆守も同じくどこか心の安らぎを感じていただろう。世界の果てを遠くにして“今、ここ”の凡庸さを噛みしめることの謙虚な悦びはエピローグでの独白で仄めかされる。

 

記憶でも美しかった……この丘の風景。でもその記憶に劣らず……今、この瞬間も美しい。ありふれた景色。ありふれた世界。たぶんずっと、ずっと変わらない風景。それがとても美しい。

─悠木皆守、Epilogue. 向日葵の坂道

 

  しかし、それは本当に「ずっと変わらない」のだろうか?世界は「ありふれた景色」のままでいてくれるのだろうか?具体的には、魂だけの存在になった由岐はいつまで寄り添っていてくれるのだろうか?……幸福はいつか訪れるその終わりの予感を匂わせ、人は一抹の疑心暗鬼に陥る。全ての幸福の裏にはべっとりと不幸の予感がこびりついている。

 こうして、丘の上で由岐と羽咲と一緒に四つ葉のクローバーを見つける場面では、皆守の不安が最高潮まで張り詰める。幸福の四つ葉を手に入れたら、この日々が終わりを告げてしまうような気がして、由岐が消え去ってしまうような気がして──。

 

由岐は四つ葉のクローバーを笑いながら空に掲げた。

由岐「あはは……見つかると思わなかった……結構簡単に見つかるんだねぇ……」

皆守「……お前が見つけようとするからだ」

由岐「だって見つけたくなるじゃん……」

皆守「見つけたくなる……か」

由岐「うん……幸福を呼ぶといわれる葉があったとしたら、人はそれを探すだろ……人ってそういうもんだよ……」

皆守「でも……その葉が見つかってしまえば……」

由岐「そうだね……その葉が見つかってしまったら……この遊びは終わりになるね……

皆守「なんでそうなるんだよ……」

由岐「だってさ……遊びには終わりがあるから……遊びなんだよ……」

皆守「そんな事ない……」

由岐「そんな事あるだろ……夕方になってさ……帰りのチャイムが鳴ったら帰らなきゃならないんだよ……それが、遊びの終わりの知らせ……」

─Epilogue. 向日葵の坂道

 

  遂に四つ葉のクローバーは由岐によってその姿を捕捉され、その笑い声が遊びの終わりの合図となり、いよいよ別れの予感が皆守の胸をきつく締めつける。永遠に続く遊びは存在しない、永遠に続く幸福も存在しない、そもそも永遠に変わらないものなど存在しない……。しかし、いつまで経っても別れは訪れず、今にも消えそうな雰囲気は由岐のイタズラで皆守の杞憂だったと分かるのはこの直後のことである。ただし、この葛藤が取り越し苦労だったというわけではない。皆守は終わりの予感を過度に恐れていた自分を認識することで、不確かな世界とそれにこびりつく不安との向き合い方を悟る。

 

この幸福な時間は、明日にでもなくなってしまうかもしれない……。けど、それはすべてに当てはまる事だ……。目の前の由岐の姿がいつか消えてしまう……という不安は、すべての存在に当てはまってしまう。だから俺は、もう考えない。どこまでも続く坂道……。遠く霞む坂道……。まるで……そんな世界を俺たちは歩いている……。その坂道の先を気にしても仕方がない。俺たちはその道を楽しみながら歩いた。

─悠木皆守、Epilogue. 向日葵の坂道

 

  どんな幸福もいずれは結末を見るということ、んな事は知っている。でも、それを言ったら“今、ここ”ですら不確かなものだろ?だったら、確実さなんていう指標で考えること自体無意味だ、ただ信じて生きる、それが俺たちに出来る最善の生き方だ……。

 第一章に見た、ざくろの「それが真実かどうかなんて、そんな無意味な問いに悩むよりも、自分がそれを信じているかどうかを大切にして生きる」。第二章に見た、由岐の「幸福に溺れる事なく、この世界に絶望する事なく、ただ幸福に生きる」。そして第三章に見た、皆守の「ありふれた風景を疑うことなく、その中でありふれた日々を生きる」。どうやら、この少年少女たちは各人各様の紆余曲折を経て、同じ土台に逢着していたようだ。そして、これら精神の実践で過ごした日々こそが「素晴らしき日々」の正体だということはわざわざ説明するまでもない。

 

おまけ:音無彩名の「素晴らしき日々

 謎めいた発言を残し、登場人物だけでなくプレイヤーまで混乱に陥れる音無彩名。しかし、ここまで書いてきてきた事柄の寄せ集めで、次の「素晴らしき日々」についての発言の意図するところは曖昧ながら理解できるだろう。

 

彩名「なんでせっかく遠くに隠した……死。それに人は魅せられるんだろう?一生懸命隠したはずなのに……また掘り返そうとしている……水上さんも……せっかく隠したものを……また掘り返そうとしている……それはまったく同じ事……」

由岐「私が隠したもの?」

彩名「そう、それを隠し通せば……あるいは……」

由岐「あるいは?」

彩名「素晴らしき日々……」

由岐「素晴らしき日々?」

彩名「永遠の生の中に人は生きる……」

由岐「永遠の中に人は生きるって……何それ?」

彩名「そう……生は閉じたもの……死は誰にも開け放たれてないものだから……隠し通せば……知る事などない……それと同じ……素晴らしき日々は語りえぬ沈黙の上に立つ……

─Ⅰ. Down the Rabbit-Hole

 

  初めはただの電波発言と思っていたものも実はきちんと考えて書かれていることが分かる。このように理解によって物語が以前とは異なる様相を見せ始める、そのときに湧き上がる興奮こそ読解の醍醐味である。と思いました。

 

第二幕間

 今回は構成上「幸福」と「素晴らしき日々」の二章仕立てにしたが、内容的には卓司流「幸福」と由岐流「幸福」に大きく分かれると考えている。(もちろん後者から「素晴らしき日々」が派生するわけだが。) 前者は「極限状態での真理の到達」、後者は「平凡な日常の無条件の肯定」というテーマまで抽象化されて、多くの物語に姿を現す。だからこそ、冒頭に述べた通り、物語慣れした方にとっては真新しい内容は少なかったかもしれない。ただ『すばひび』という物語の中で使い古されたテーマを再度鑑賞することが無意味であるとは僕は思わない。ほんとうに光り輝くのはそんな抽象的で無味乾燥な用語ではなく、彼ら彼女らの過ごした紛れも無い世界そのものである。作品の題名とあらすじは既に知っているからという理由で、もう鑑賞する必要はないというのではあまりに馬鹿馬鹿しい。

 恐らく次回の記事が一旦の結びを見せることになるだろう。「終ノ空」と「音無彩名」というこれまで以上に意味不明で難しい題材を扱う予定だと思うと、自然と筆と心が重くなる。そろそろ独り善がりな解釈へと傾いているのではないかとヒヤヒヤしながら書いてきたが、とりあえずは不確かな“今、ここ”を費やして不確かなこの記事を読んでくれた方々に確かな感謝を。

 

 

2018/10/6追記:残る章をどうにか書き上げることができたので、以下に掲げる。