墓の中

穴は真珠貝 標に星の破片 傍には百年の待ち人

すばひび日記1:語りえなかったものを語りなおす

謝辞

 元々この場は自分のこころを書き留める為の備忘録であったはずなのに、今となっては筆不精もあり色鮮やかなイメージが身体中から奈落へとぽろぽろ零れ落ちていくのをアーと口を開けながら眺めるばかり。思えば、近頃はネクラなオタクの反省会を実況中継するのみで、外界の事象によりデバッグした自己流の道徳をウーム一層盤石になったかナと眺めては、先走った衒いを御し切れずに「公開する」ボタンを押すのが常だった。ただ文字を書き連ねるときには感じなかった焦燥感や疚しさが投稿行為を皮切りに己を苛み始めたことは、この“公開オナニー”の自覚を示す十分な証跡だろう。

 これ以上の前置きは言い訳の領分を超えて、また反省会の様子を見せびらかすことになるから慎む。とりあえず今回は『素晴らしき日々 ~不連続存在~』(以下、『すばひび』と略称)について、グダグダ管を巻くことで、自意識第一主義から脱却して少しでも自分以外のものに対する熱心さを取り戻すことを目的として書き出した。では、褪色しかけの備忘録の取るに足らぬ五、六章を見ていただく事にしよう。

 

前提

 『すばひび』は2010年にケロQから発売された成人向けビジュアルノベルゲーム(エロゲーをカッコよく言うとこうなる)である。歴史は繰り返しその度黒歴史が生まれる、とでも言うべきか、以前も『すばひび』についての目も当てられぬ記事(語りえぬものについては、語りえぬと正直に語らなければならない - 墓の中)を書いていた。奇しくも丁度二年前のこと。あれから、今年7月にフルボイスHD版となって再度発売され、歴史は浅いが思い出深いゲームの一つだったので、さほど長い間積むこともなく再び相見えることになった。

 二度目の邂逅は一度目より多くを僕に齎した。というのも、物語の背景にどんな事情があって、そこからどのような結末に至るのか、半端な理解の半端な記憶にしろある程度は了解している訳だから、その理解の補填に加えてもう少し穿った見方─穿つ方向の成否はともかくとして─をする余裕が生まれる。特に、『すばひび』などの最後まで全貌が見えにくいように巧みに作られた作品については、相当に聡い人でなければ周回プレイは徒労に終わらない。僕はものぐさ太郎ゆえ普段は記憶を辿る程度の疑似周回しかしないので、このように新版発売という周回の良い契機に恵まれたのは大変幸運なことだ。この幸運に感謝して、以前に描いた粗雑な輪郭からより鮮明な輪郭を得る際に更新された部分について詳しく取り上げよう。

 なお、こういう考察系の記事は筆者の背景もその信頼性に影響を与えるだろうから、それについて述べておく。『すばひび』は1999年に同社から発売された『終ノ空』を下地にして制作されたと言われているが、寡聞(寡プレイ?)にして僕はこの前身の内容を詳しく知らない。公式ビジュアルアーカイヴやオフィシャルアートワークスなどに掲載されている、本作のシナリオを書いたすかぢ氏の発言も結局今日に至るまで流し読み程度である。臆病な自尊心が生んだ怠惰、とでも言えば伝わる人には伝わると思うが、他の方の『すばひび』についての考察もきちんと読み込んだことはない。(だから、この考察もどきも大半が読み飛ばされるだろうと十分に覚悟している。)このように信頼を担保するための礎を欠かした僕に出来る最大限は、この記事が作品の意図するところを遥か超えて一人相撲になってしまわないよう自らを律し続けるのみである。

 

導入

 以前の記事を読むと、「これは文学・哲学か」という観点で非常に表面的な議論に終始していたことを痛感する。文学・哲学をなんかカッコいいからという曖昧な理由で神聖視し、自らをその神からの使者と信じ、自称ブンガク自称テツガクを裁く意気込みだけを原動力に書き殴ったのだろう。しかし、薄っぺらいことしか書き残せなかったのも頷ける。二年前の自分は後ろの方でこのように告解していた。

 

こんな記事を書いておきながら恥ずかしい話だが、僕には(『すばひび』の背景に広がる哲学の存在が)まだ分からない。

……ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をベースに「世界の限界」について考えているという事は伝わってくるが、不完全にしか分かっていない構造を基に、作者の意図を読み取るのはかなり困難である。

─『墓の中』2016-09-15

 

  これは、「語りえぬものについては、語りえぬと正直に語らなければならない」というタイトルの通りで、『すばひび』について深く理解できていないから踏み込んだ内容は書けませんでした、と懺悔しているのである。しかし、この懺悔は同時に「だからお前らも分からないままギャーギャー騒ぐのは止せよ」という牽制も言外に含んでいるのだから、性格が悪い。

 ともかく、よく分からないので思考停止、では良くなかろう。いや、現実的には何度も読み直して考え尽くす気力も時間もないことを踏まえれば、それは思考の停止ではなく一時停止だったかもしれない(よくあること)。であれば、周回の機会を得た現在の自分がするべきは、あの日止まってしまった思考の先を紡いでゆくことだ。

 

目次

第一部『すばひび』の中に生きる

第一章「世界」とは

-高島ざくろの「世界」

-悠木皆守の「世界」

-間宮羽咲の「世界」

-悠木皆守・高島ざくろ・間宮卓司による問題提起

-悠木皆守による擬似回答

-おまけ:間宮卓司の「世界の限界」

第二章「幸福」とは

-間宮卓司の「幸福」

-水上由岐の「幸福」、あるいは「素晴らしき日々

第三章「素晴らしき日々」とは

-高島ざくろの「素晴らしき日々

-悠木皆守の、そして少年少女の「素晴らしき日々

-おまけ:音無彩名の「素晴らしき日々

 

第二部『すばひび』の外を生きる

第四章「終ノ空」とは

-間宮卓司と信者たちの「終ノ空

-音無彩名の「終ノ空

-ありふれた「終ノ空

-水上由岐の「終ノ空

-エピローグの「終ノ空」?

第五章「音無彩名」とは

-遍在転生する「音無彩名」

-遍在転生の破片たち

-『すばひび』における「音無彩名」

-エピローグの「終ノ空」再考

(以上の目次は全てを書き終えたあとに作成し追記した)

 

第一章 「世界」とは

 作中に幾度も登場する「世界」の意味するところ、彼らの「世界」の感じ方を実感のうちに理解することから始めよう。きっと少年少女たちの「世界」を知ることは『すばひび』における全ての思想の出発点であるから。その際に既存の哲学的知識を持ち出すことはなるべく避けたいと思っている。(僕は哲学について明るくないため避けるのではなくそもそも出来ないのだが)出来合いのものの当てはめという意識を少しでも排除して、フラットな視野で己と彼らの考え方と擦り合わせていくべきである。もちろん作者の脳内に、そして作品の背景にヴィトゲンシュタインの哲学が重きを占めていることはどう見ても明らかだが、それでもまず登場人物固有の哲学を明らかにしてからヴィトゲンシュタインの哲学と比較検討していく、という流れが方法論として筋だと僕は考える。人が哲学を創るのであって、哲学が人を創るのではないのだから、そこを逆転しては本末転倒だろう。

 あらかじめ共通認識として持っておく必要がある物語的事実は「物質的には間宮皆守である身体の中に、悠木皆守(本来の人格)と水上由岐と間宮卓司という三つの人格が混在している」程度で十分で、必要な部分は適宜補っていく。「過去の因縁として何があり、現在はどのような状況で、どのような結末が待ち受けているのか」という一連の物語の流れを逐一追うことはしない。それは、物語の根底にある思想の抽出を目指すこの記事の領分ではない。 

 

高島ざくろの「世界」

 「世界」について考え始めるときに、高島ざくろによる問いかけが導入として最もふさわしいので、そこから踏み出すことにしよう。全ての人間が消え去った世界、屋上でざくろは由岐に問いかける。

 

内なる世界と外なる世界……そんなものがあるのでしょうか?今、あなたが感じてるすべては……外にある世界のものですか?内なる世界のものですか?この青空はあなたの内なる世界のものですか?外の世界のものですか?

(中略)

あなたが今口にした紅茶の味は、外なる世界のものですか?内なる世界のものですか?あなたが触れるそのティーカップは外なる世界のものですか?内なる世界のものですか?あなたが見ている私は、あなたの内なる世界の私ですか?それとも外なる世界の私ですか?

─高島ざくろ、Ⅰ. Down the Rabbit-Hole (ざくろルート)

 

  私達は普段、「外なる世界」から五感を用いて情報を得て、「内なる世界」つまり自分の心中でそれらを処理し分析し総合し、再び「外なる世界」へと干渉する……というプロセスを経て活動している。このモデルは近代になってから現れた世界観かもしれないが、現代を生きる我々にとっては直感的な捉え方だろう。

 この世界観を下地に、高島ざくろは疑問を投げかける。私達が何気なく信じて生活している「外なる世界」って何ですか?それは本当に確かに存在するものですか?あなたは紅茶の感覚という「内なるもの」を証明することが出来ても、紅茶の存在という「外なるもの」を証明することはできないのではありませんか?

 

私、今見ている世界以外の世界……外の世界なるものを知りえる事が出来ません。私は、私が今此処でありえる世界の文脈でしか……私の答えは……その答えを知りえるプロセスからでしか語る事が出来ません。

─高島ざくろ、Ⅰ. Down the Rabbit-Hole (ざくろルート)

 

  その問いに対するざくろ自身の答えはこうである。「内なる世界」しか知らぬ私には、「外なる世界」についての事柄を証明することは出来ません……。

 ここに「疑わしきは全て認めず」という懐疑的な世界の捉え方が姿を現し始める。あなた方が「外なる世界」について信じていることは、あくまでも信念であって真実ではない。証明できないものは、真実として認められない。だから、唯一の真実は、自分だけの「内なる世界」。こうして、(認識論的)独我論が萌芽する。

 しかし、自分の精神以外を真実として一切認めない、という生き方は耐えがたさを生みかねない。友人に対しても、恋人に対しても、家族に対しても、──そして自分の身体に対してさえも実在を認めない、という立場をとることは、たった一人で艱難辛苦に足を踏み入れることだ。

 

私はたしかに彼女を感じている……彼女の感触、彼女の香り、そして彼女の吐息……。だからこそ……私は聞いた。

由岐「私のにおい……私の鼓動……私の体温……」

ざくろ「くすくす……安心してくださいよ……すべて確かにありますよ。私は妄想でも幻覚でもありませんよ……あなたがそう信じてくれるならば……」

信じるならば……私は存在する。

由岐「信じるならば存在する……まるで神様だ」

ざくろ「くすくす……そんな事ありませんよ。それはごく当たり前の条件……だって、人は何かを信じる事が出来なければ歩く事も出来ない……」

由岐「懐疑の迷路は、歩く事すら許さない……」

ざくろ「次の一歩が奈落であるかもしれないと疑えば、そこで歩は止まる」

由岐「ふぅ……つまりは疑うな……と」

ざくろ「そんな事言ってませんよ……問う事に意味がない答えなどいくらでもあります……それを問う事は無意味だと言ってるだけです……だって…あふぅ」

高島さんはいきなり気持ちよさそうに目を細める。

ざくろ「あなたが信じようが信じまいが私はこの腕の中で幸せです。とてもとても気持ちよいですよ」

─Ⅰ. Down the Rabbit-Hole (ざくろルート)

 

  由岐はざくろに腕枕をしながら、実在の不確かさについて思い悩んでいるとき、ざくろは助け舟を出す。実在を示すことは出来なくても、実在を信じる事は出来ます。それが真実かどうかなんて、そんな無意味な問いに悩むよりも、自分がそれを信じているかどうかを大切にしませんか?知りえないことについて語ることは無意味かもしれないけれど、知りえないことでも信じることは決して無意味とは言えないのだから……。

 これが高島ざくろにとっての「世界」、そして「世界」の生き方。小難しい言葉で纏めるならば、懐疑的認識論から導かれる独我論独我論のみを盾にして生きることの難しさ、信じることにより広がる独我論の可能性。そして、これらは高島ざくろに限らず『すばひび』に遍く横たわる思想のようだ。

 

悠木皆守の「世界」

 では、主人公の代表格である悠木皆守はどのように「世界」を見たか。4章において、悠木皆守が間宮卓司の一人格として生まれた(正確には「悠木皆守が間宮皆守の一人格として再び目覚めた」なのだろうが)ときの独白が、彼の思想を詳しく言い表している。

 

自分が存在を感じたのは痛みからだった。痛みは光に……そして視界に……。世界の姿を結ぶ……。だが、世界は光ではない。世界は視界ではない。実感としてそう思えた。存在は視界で確保されるものだけではない……。ならば、それは五感によって確保されるもの?“視覚”や“聴覚”や“触覚”や“味覚”や“嗅覚”……そういった、自分で感じられるものこそが、世界そのものであろうか?世界は見るだけで十分だっただろうか?世界は聴くだけで十分だっただろうか?

─悠木皆守、Ⅳ. Jabberwocky

 

  痛みによって自分の存在を感じた皆守は、普通の人間ならば第一に思い当たる「外なる世界」を端から相手にしない。十分成熟した精神が突然この世に生を受けたとき、果たして自分以外の「外なる世界」と自分の精神という「内なる世界」のどちらを重要視するだろうか?答えはおそらく「内なる世界」だろう。唐突に目の前に現われた「外なる世界」を信用するのは難しい。朝目が覚めた時に(寝ぼけ眼ではない状態で)昨日とは全く違う光景を目の当たりにしたら、まず「内なる世界」である自分の頭の不調ではなく、「外なる世界」を疑ってかかるだろう。故に、成熟した赤ん坊である皆守が独我論者になるのは自然なことである。

 さて、皆守は「内なる世界」を重視する立場にあるようだが、しかし何をもって「内なる世界」とするのかについてはどうやら一家言ありそうだ。

 

瞬時に存在した俺は、世界が“今感じているものすべてである”などと嘯く事を許さない。自分が感じる事が出来るすべて、それは、決して“世界”でもなければ“世界の限界”でもない。それを俺は知っていた。俺は、見る事もなく、聴く事もなく、触れる事も、味わう事もなく、世界を知る。世界の先の先……生涯見る事も触れる事も……感じる可能性がないものすら知っている。

(中略)

あらゆる経験不可なものの意味を知る。それはごく当然の事……。たとえば──誰だっていい──毎朝の登校路にある家。変哲もない普通の家。そこに毎朝見える扉。気にとめる必要もない扉。なぜその扉の先に(我々は)恐怖しないのだろうか?その扉の先が……そう、たとえば世界の果てであるかもしれない。少なくとも、見たことはないのだから、その扉の向こうが世界の限界である可能性は否定出来ない。にも関わらず。“我々”は知っている。その扉の先には我々が知っている風景しかない事を……。

─悠木皆守、Ⅳ. Jabberwocky

 

  皆守にとっての「内なる世界」とは、今此処で五感をもって感じているもの全てだけでは覆い尽くせるものではない。もし仮にそうだとしたら、「内なる世界」は扉の向こう側すら保証されない矮小なものになってしまう。一秒後すら保証されない脆弱なものになってしまう。そこで皆守は想像の力を借りて、「内なる世界」を現在の知覚経験から未だ経験しない風景、経験しえない風景へと拡張する。

 ざくろも述べていた通り、「外なる世界」において、何かしらの実在を想像する(信じる)ことはできても、証明することはできない。しかし、「内なる世界」においては、何かしらの実在を想像することはできるだけでなく、更にその実在の証明は「想像したから」の一言で既に事足りているのだ。このタイミングで、想像とは創造である、と述べるのは狙いすぎだが、まさにその通りなのである。

 以上を踏まえて、皆守は「内なる世界」を「実際に経験した事柄だけでなく、想像可能な事柄を全て寄せ集めたもの」と拡張規定する。そうすれば、扉の向こうが世界の果てでない事は想像できるし、一歩先が奈落でない事も想像できるし、一秒後も時間が流れている事も想像できるから、安心して生活することができる。(もちろん、またその逆も想像できるのだが……)

 

世界とは……言葉になるすべて……。意味になるすべて……。

─悠木皆守、Ⅳ. Jabberwocky

 

  この一言で、彼のボヤキは締めくくられるが、ここでの「世界」とは「内なる世界」を指しており、「外なる世界」は一切意識されていない。「外なる世界」に対する皆守のポリシーを知るには、おそらくエピローグまで待たねばならない。

 

俺の世界がはまるべき場所……まるでジグソーパズルの一片の様にはまる場所……そんなもっと大きな世界なんて本当にあるんですか?俺はね……思うんですよ……俺たちに外側なんてない……俺の世界に外側なんてない……この世界、あんたも、そしてこの河も、あの太陽も……そしてこの……………真っ赤な空も。外側でもなんでもなく……全部が世界でしかない……ってね。全部、俺の世界でしかないってね。

─悠木皆守、Epilogue. 素晴らしき日々

 

  「外なる世界」との訣別。自分はジグソーパズルの一片などではない。当然ジグソーパズルがパチパチはまっていくような“外枠”もない。ただ全ては今此処にいる自分の「内なる世界」でしかない……と、皆守はそう考える。

 しかし、ここで一つ疑問が生まれる。「外なる世界」、つまり物質世界とでも言うべき世界が無いというのであれば、「内なる世界」を感じている「自分」って一体何だろう?それは一体どこにいるんだろう?

 

俺は、俺の世界の限界しか知らない……知る事が出来ない……だから……俺は俺でしかない……一つの肉体を何人もで共有してた俺が言うのもなんだけど……いや、だからこそ、俺は俺でしかありえないと思える……俺は、この腕でも、この脚でも、この心臓でも、この肉体でも、脳でもない。当然、俺はこの道でも、この河でも、この空でもない。俺は……俺だ……そして……俺の世界が世界であり……それに外側なんてありはしない。

─悠木皆守、Epilogue. 素晴らしき日々

 

  「自分」は「外なる世界」に身を置いているわけではなく、ただ「自分」は「自分」でしかありえない……。遺憾ながら、今の僕はこのことを直感的に納得は出来るのに、いくら考えてもきちんと説明する術を持たない。致し方ないので、ここで無粋な言葉遊びをするより、読者の感性に丸投げすることを選択する。本来の目的が「登場人物たちの『世界』を実感のうちに理解する」だったことを踏まえれば、僕の粗雑な説明がなくても各々の中で直感できればそれで十分成功と言えるだろう(これはただの言い訳です)。

 悠木皆守の「世界」観を要約すると、以下のようになる。まず、「内なる世界」とは、実際に経験した事柄だけでなく、想像可能な事柄を全て寄せ集めたものである。一方で「外なる世界」と呼ばれる世界などない。故に、全ては「私」の「内なる世界」である。ここでの、「私」とは「ただ『私』であるもの」を指す。

 これらを踏まえて、物語冒頭で突然に始まり、初見では困惑しつつもなぜか印象に残ってしまう、悠木皆守の「世界の限界」論に立ち返ってみよう。

 

世界の限界って何処なんだろう……。世界のさ……世界の果てのもっともっと果て……。そんな場所があったとして……、もし仮に俺がその場所に立つ事が出来たとして……やっぱり俺は普通通りにその果ての風景を見る事が出来るのかな?

(中略)

もしそれを俺は見る事が出来るなら……世界の限界って……俺の限界と同義にならないか?

(中略)

世界の限界は……俺の限界という事になるんだよ。世界は俺が見て触って、そして感じたもの。だとしたら、世界って何なんだろう。世界と俺の違いって何だろう……って。あるのか?世界と俺に差。だから言う。俺と世界に違いなんてない……。

─悠木皆守、Ⅰ. Down the Rabbit-Hole

 

  この内容を解釈するために文章よりも数式を用いたくなってしまうのは、僕の胸裡に染み付いた理系ゴコロのせいだろうか。ともかく、数式で書き下すと、

 

皆守流「世界」の定義より、

「世界」=「俺」の「内なる世界」

∴「世界」の限界=「俺」の「内なる世界」の限界

皆守流「内なる世界」の定義より、右辺を言い換えて、

「世界」の限界=「俺」の感性・想像力の限界

この右辺は「俺」の限界とも言えるので、

「世界」の限界=「俺」の限界

∴「世界」=「俺」 ■

 

のようになる。正直、この数学的議論は皆守の意図よりも論理を優先させている印象があって、物語的議論として正しいかは懸念が残る。しかし、今の時点ではこの解釈でしか悠木皆守の思想に接近することが出来なかったので、暫定的に提示する。

 節の最後に、作中に幾度も登場する詩の原文を引いておく。原文なのは衒学趣味というよりも、むしろことばのリズムを大切にした結果である。難しい英語ではないし、訳は調べればすぐに出てくるだろうから省く。

 

The brain is wider than the sky,

For, put them side by side,

The one the other will include

With ease, and you beside.

 

The brain is deeper than the sea,

For, hold them, blue to blue,

The one the other will absorb,

As sponges, buckets do.

 

The brain is just the weight of God,

For, lift them, pound for pound,

And they will differ, if they do,

As syllable from sound.

─Emily Dickinson

 

  詩に余計な注釈を添えるのも、なぜここで引いたのか弁解するのも、野暮というものだろう。

 

間宮羽咲の「世界」

 悠木皆守は「内なる世界」を想像の力を借りて拡張することで、余計な不安を抱え込むことなく生活していた。そして、やはり幼少期の間島羽咲も、沢衣村で安寧の日々を過ごしていた。(もちろん、彼女が皆守と同様の独我論的「世界」観を持ち合わせていたかは分からないが、幼心ながら恐らく類似のものを感じ取っていたはずだ。なぜなら、以下にも見るように「世界の限界(果て)」を更新するという過程が描かれているからである。まあぶっちゃけ作者の意図から逆算しても、意識していることがビンビンに伝わってくるし。)

 しかし、父の死という非日常を契機に、日常の中では疑うことなく受け入れてきた「世界」が歪み始める。そして、父の通夜の晩に、斎場を抜け出して向日葵の生い茂る坂道に挑むのだった。この大きな坂を登り切って「世界の果て」の向こうに行けば、父に再び出会えると信じて……。

 

羽咲「あの向日葵の先……あの向日葵のお花畑を越えた先……いつもその先を越えられなくて……」

由岐「大きな坂?」

羽咲「お父さんの田舎の……大きな坂……」

由岐「あれって、そんなに大きかったかねぇ?」

羽咲「たぶん今はそうでもないと思う……でもあの時は……子供の時はものすごく大きく感じた。これは世界の果ての壁なんだって思ってた……この坂を登りきったら……そこが世界の限界だと思ってた。でも違った……その坂を登りきったら、その丘を越えたら……その先にも……街があったんだよ……その先にも坂があって、その先にも……永遠に街が続いてた……世界に果てがないんだって、その時気が付いたの……

─Ⅴ. Which Dreamed it

 

  果たせるかな、羽咲は丘の頂きに辿り着いたとき、世界の果ての不在を確認し、世界の無限の広がりを理解し、涙を流す。そのとき彼女が抱いていたものは絶望、などでは決してない。それはきっと、逆説的な感動と僅かな安堵。あまりにも広い世界とちっぽけな自分の乖離に、手の届かない神秘に気付かされ、心を打たれる。世界の果てと思っていたものの正体、その向こうに広がる平凡さに気付き、心を和らげる。

 向日葵の先が「世界の果て」でないことを知り、向日葵の先に何があるかを知り、「世界の果て」を更新し、想像しうる範囲を広げた羽咲。まさにこの一連の出来事は、独我論的「世界」観の成長を表すものである。(幼き羽咲にひどく共感していた僕としては、この体験をこの一言に要約してしまうのは、忍びない。……しかし、これは仕方ないのだ。感情を言語化すること自体、その情報量を減らすことだから。)

 6章でも、この向日葵体験は新しい意味合いを携えて提示される。

 

羽咲「ねぇ……このどれかがお父さんの魂なんだよね……でも……羽咲の身長じゃ、お父さんの魂に届かないよ……」

皆守「馬鹿か……お前じゃなくても……父さんの魂には、もう誰も手なんか届かないよ……」

羽咲「こんな近くまで来たのに……」

皆守「それでも、届かないんだよ……父さんの魂には……」

羽咲「世界の果てまで来たのに……」

まるで星が降っている様な空……。羽咲が世界の果てだと信じたのも仕方がなかったのかもしれない……。ここが世界の果てだと……、にも関わらず……羽咲は泣き出して……、

羽咲「ここは世界の果てじゃないんだよね……とも兄さんっっ……お父さんの魂はここには無いんだよね……」

羽咲は俺の胸で泣き出す。俺は優しく羽咲を抱いてやる。

羽咲「世界の果ては無いんだよね……だって……」

羽咲は指さす。沢衣村と違う方向を……、そこには、沢衣村と同じように人々の生活の光が灯っていた。村の先には村があって……さらに先には街があって……その先にいくつもの村や街があって……。そのいくら先を進もうとも、死んだ父さんの魂と会う事は出来ない。その事を羽咲は初めて悟ったのだろう……。父の死を……、死という事の意味を……。

─Ⅵ. JabberwockyⅡ

 

  星空の広がる天の届かなさが、死んでしまった父との訣別をより一層確実なものにする。死とは「世界の果て」を以てしても覆すことの出来ない絶対的なものなのだと、満点の星空の下で確信する。死の不可知性、神秘性、絶対性は他の場面でも触れられるが、ここほど真摯な語りを感じるシーンは無い。だからこそ、あの「夜の向日葵」は今でも僕の心の中に咲き続けている。

 

悠木皆守・高島ざくろ・間宮卓司による問題提起

 高島ざくろと共に独我論的「世界」観の導入を、悠木皆守と共にその発展を、間宮羽咲と共にその成長を見てきた(そして願わくは、感じてきた)。しかし、独我論的「世界」観は、その懐疑的な物の見方ゆえに、自ずから限界にぶち当たる。

 

他人も含めた世界って何だ?世界が俺なら、他の連中は何だ?それらも世界を持っているのか?だったらそれは別々の交わらない世界なのか?それともその世界は交わる事が出来るのか?すべての世界……すべての魂は……たった一つの世界を見る事が出来るのか?

─悠木皆守、Ⅰ. Down the Rabbit-Hole

 

まるで、私達はそれぞれに内の世界を持ち、共通の外なる世界を持つ様に感じている。ならば、その共通の外の世界はどうやって至るのでしょうか?

─高島ざくろ、Ⅰ. Down the Rabbit-Hole(ざくろルート)

 

あらゆる人々にそれぞれ平等にあらゆる世界があるのなら、なぜその世界は一つになりうるのだろうか?なぜそのたくさんの世界はここにあるんだろうか?

─間宮卓司、Ⅰ. Down the Rabbit-Hole

 

  これらはそれぞれ別々の場面で異なる三人格が呈した疑問だが、その内容はどれも似通っている。自分が「内なる世界」を持ち、他人もまた「内なる世界」を持つならば、その「内なる世界」の起源となるような共通の「外なる世界」が存在するのだろうか……と、三人とも「外なる世界」の予感を感じつつも、やはり懐疑的な物の見方に足を引っ張られて、頭を悩ませる。

 

悠木皆守による疑似回答

 この問題に対する作品としての答えは明示されていないが、しかし妄想逞しい僕は、エピローグの皆守がピアノを弾くラストシーンから、強引に答えを読み取ってしまった。(そのときは強引な解釈であるつもりは努々なかったけれど、他人にまでこの解釈を押し付けるには躊躇われてしまうのだ。)

 

鍵盤の音が俺の耳に響き……そして他の誰かの耳に響く。

誰かが作った曲を俺が弾く。そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけじゃない。でも俺はその曲を弾く。だいたい好きな曲だから……感動した曲だから……

その旋律は、誰かの耳に届く、俺以外の誰か、皿を洗う羽咲に、最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、店に集まるオカマ野郎どもに……

音楽は響く。店内に響く。世界に響く。世界の限界まで響く。

そこで誰かが聴いているだろうか?聴いていないのだろうか?

それでも俺は……音楽を奏でる。誰のためでもなく、それを聴く、あなたのために……。

─悠木皆守、Epilogue. 素晴らしき日々

 

  この独白と共に空気力学少女と少年の詩 Piano ver. が流れている中、僕は完全にサルトルの『嘔吐』の結末を思い出して憑りつかれていた。章の冒頭で「既存のものを礎にして議論を進めるのは避ける」と述べた手前、他作品を持ち出すのは心苦しいが、あのとき理性を介さずに反射的に直感してしまった事を偽物として切り捨ててしまうのは、より心苦しい。読者の温情を期待して、そのクライマックスを雑に要約しておく。

 存在というものについて考え続けた末、ただ「そこに在る」だけで何ら意味を持たない世界に気付いてしまった主人公ロカンタン。彼は、全ての人間関係を断ち切ってパリへと旅立つことを決める。そうして、最後に馴染みのカフェに別れを告げる場面で、かつていつも聴いていたジャズのレコードを耳にする。

 

声は歌う。

 

Some of these days

You’ll miss me honey.

(いつか近いうちに、いとしい人よ、

わたしの不在を寂しく思うでしょう。)

 

レコードのこの箇所に疵がついているに違いない。妙な音がするからだ。それでも何か胸を締めつけるようなものがある。……レコードは疵がつき、摩滅し、女性の歌手はおそらく死んでしまった。しかし、過去もなく、未来もなく、一つの現在から別な現在へと落ちていて存在者の背後で、……メロディは常に変わらず、若々しく凛としている。……黒人の女歌手が歌うのを聴きたいのだ。最後にもう一度だけ。彼女は歌う。これで二人が救われた。ユダヤ人と黒人の女が。救われた二人。

─『嘔吐』

 

  既に亡き人であろう女性歌手が、今生きているロカンタンに対し、レコードを通じて語りかけてくる……この偶然とも言うべき、過去と現在という時間を超えた繋がりに「意味」の兆しを感じ、女性歌手の救済、そして自らの救済へと至る……というのが、『嘔吐』の結末の大枠である。

 これを踏まえて、再び皆守がピアノを弾くシーンへと場面を戻す。

 

鍵盤の音が俺の耳に響き……そして他の誰かの耳に響く。

誰かが作った曲を俺が弾く。そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけじゃない。でも俺はその曲を弾く。だいたい好きな曲だから……感動した曲だから……

その旋律は、誰かの耳に届く、俺以外の誰か、皿を洗う羽咲に、最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、店に集まるオカマ野郎どもに……

音楽は響く。店内に響く。世界に響く。世界の限界まで響く。

そこで誰かが聴いているだろうか?聴いていないのだろうか?

それでも俺は……音楽を奏でる。誰のためでもなく、それを聴く、あなたのために……。

─悠木皆守、Epilogue. 素晴らしき日々

 

 ロカンタンにとってのジャズが、皆守にとってのピアノとして再び現前したような錯覚に襲われる。過去に誰かが作った曲を、現在に皆守は弾く。作曲家と皆守に接点があるわけではない。しかし、楽譜(として記された曲)が二人を繋げる可能性をもつ。現在に皆守が弾いた曲を、未来に誰かが聴くかもしれない。皆守とその誰かに接点があるわけではない。しかし、旋律が二人を繋げる可能性をもつ。

 「誰のためでもなく、それを聴く、あなたのために……」というのは一見矛盾しているようだが、しかしそれは「特定の誰かのためではなく、遍く存在する『あなた』のために……」と読めば全く問題ない。ここに皆守はいまだ見知らぬ存在に対して旋律を捧げているのだ。そして、その旋律はたしかに僕─皆守にとって「見知らぬ存在」─のもとへと響き渡った。

 

 さて、先ほどの三人格が抱いていた疑問の解答を述べる準備が整った。彼らは問う。自分が「内なる世界」を持ち、他人もまた「内なる世界」を持つならば、その「内なる世界」の起源となるような共通の「外なる世界」が存在するのだろうか?その問いに対し、僭越ながら皆守の代理人として僕が答えよう。

 まず、皆守が主張していた通り、「外なる世界」は存在しない。全ては自分の「内なる世界」でしかない。しかし、他人の「内なる世界」は「他の世界」として、たしかに存在する。では、その「他の世界」にはどのように到達できるのか?それは人と人の間を繋げるような偶然的な何かを信じることによって。その祈りは確定的で強固なものではないが、信じるしか出来ない脆弱なものだが、そこに「他の世界」の兆しを見出すことは出来るだろう──。

 たとえ話をするならば、地球に生きる人にとって、(宇宙船でも開発しない限り)地球の表面が全てである。地球から何万光年も離れた星に生きる人(?)にとっても、その星の表面が全てである。しかし、二人とも同時に存在する。そして、二人の邂逅は決して叶わないが、数万年前の星の光が数万年かけて到達することによって、お互いの存在を兆しのうちに信じあう事はできる。

 この節で述べたことが的外れだったとしても構わないと僕は考えている。皆守の思想を「実感のうちに理解した」という自覚を得た今、それ以上のことは望まない。

(2018/9/20追記: 僕は普段曲を聴く時、歌詞を意識せずに完全に耳当たりの良さだけを愉しんでいるのだが、今日たまたま『櫻ノ詩』(同じくすかぢ氏がシナリオを書いた『サクラノ詩』の、すかぢ氏が作詞を担当したテーマ曲)を聴いているときに、「世界の限界を超える詩を この筆に乗せて 届けよ 私を超えて」という歌詞がふと耳に残った。「世界の限界」について書き殴った直後だったので、無意識のうちに耳が反応していたのかもしれない。この歌詞を聴いた僕は「なるほどね」と思わず呻いた。血縁関係や時代の流れを軸に描いた作品である『サクラノ詩』だからこそ、『すばひび』よりも強い「世界(=私という一個人)の限界を超える」可能性を提示できたんだね……と、これまた世界の限界を超えてビビビッと飛んできた電波を受信してしまったのでした。)

 

おまけ:間宮卓司の「世界の限界」

 『すばひび』を難解にしている原因の一つとして、どこまで論理的で理性的な内容で、どこからが非論理的な狂気の表現なのか分かりづらい、ということが挙げられる。最後に、後者に属する“言葉遊び”と思しきものを一つ取り上げてこの章を締めくくる事にしよう。

 

地上すべて炎に包まれる前に……我々は空に還らなければいけない。そうだ!空に還る!我々は空に還るのだ!そうだ!世界の果て……空の果てがやってくる!世界が灼熱に包まれるその前日……世界の果てがやってくる……世界の限界がやってくる……そう、すべてが終える空がやってくる。終わりでも始まりでもない……空……空の臨界地点……無限と有限の境界……すべての対が終わる場所……すべての対が終える場所。終ノ空

─間宮卓司、Ⅱ. It’s my own invention

 

  ここまで扱ってきた「世界の限界」は「感性・想像力の限界」を意味していたが、この卓司の演説における「世界の限界」とはむしろ「時間的空間的な限界=終わり」を意味している。ゆえに、この場面では「世界の限界」から「終ノ空」という言葉が連想され紡がれていく。しかし、そこに論理的な連関があるようには思えない。少なくともこれまで見てきたような独我論的「世界」観とは無関係のように思える。

 間宮卓司を主人公とする2章は、狂気色が強く、このような“言葉遊び”が特に豊富に見られる。“言葉遊び”は“言葉遊び”として鑑賞するとして、考察するに当たっては十分に注意しなくてはならない。と思いました。

 

幕間

 第一章だけで随分な分量になってしまったので、一旦ここで切り上げる。一応一番書きたかったことは書くことができたから、後は誰かに少しでも伝わる事を祈って、今回はこれで良しとする。

 続く章では「幸福」「素晴らしき日々」「終ノ空」「音無彩名」の四つについて書いていくつもりだ。恐らく分量的にはそれぞれが第一章ほど長くなる予定はないし、構想自体は既に練ってあるので、近いうちに注釈付けを再開できるだろう。(できるかな)(できるといいな)(できるのか?)(できないかも)

 

 あの日語りえなかったものを、この日から語りなおし始めよう。

 再び語りえなくなるところまで。

 

 

2018/9/23追記:続く第二、三章を無事記すことができたので、以下に掲げておく。