墓の中

穴は真珠貝 標に星の破片 傍には百年の待ち人

メビウスの輪の上で

 「あの時の自分は結構良かった」と「あの時こうすりゃ良かった」はまったく矛盾しない。悔しくなるほどに矛盾せずに、感情だけが勝手に和解してお互いに手を組んで、今度は自分のことを襲ってくる。実際は完璧を目指すだけの根気も度胸も機会もないにもかかわらず、理想だけは独り歩きして完璧主義をとってしまう人間。彼らにとって、自分を褒めるという行為と自分を責めるという行為は奇妙な表裏一体の関係にある。「こういう点で良かった」と入力すれば、「ああいう点で悪かった」と出力される。「ああいう点で悪かった」と入力すれば、今度は「そういう反省ができて良かった」と出力される。更に「そういう反省ができて良かった」と入力すれば、「いくら反省しても過去の悪かった点は修正できない」と出力される。

 このループは褒めと責めをいい塩梅に両立する最高のsolutionかもしれないワイは中庸の神や、と一時期思っていたこともあったが、もちろんこの妄想も褒め責めループに組み込まれていく。渦巻は全てを巻き込み次第にその規模を増していく。大体「自分は一生根っこからの批判をされない代わりに、一生無条件の肯定もされない」という状況は、それ自体が一つの苦しみを生み出す。どこに行っても何をしていても常に敵(もっともそれは自分なのだが)の射程圏内にいるような気分で日々を過ごすのは結構しんどいものがある。

 それでも、この精神的自傷行為が癖になって抜けない。「これは本当に良くない」と自覚しても止まらないから、これは本当に良くない。その悪癖は、自分を延々と責め続けることが自分に対する慰めになる異様な錯覚へと導く。家庭内暴力による共依存一人二役で演じているような感覚。お前はゴミクズだな。はいごめんなさい私はゴミクズです。でもそういう風にゴミクズって自覚できる程度にはゴミクズじゃないよ。ああどうもありがとうございます少しは救われます。なに勝手に感謝してんだよ、お前がゴミクズだということには変わりないことをゆめゆめ忘れるなよ。はいすみませんでした以後気を付けます。

 

 リストカットする人の動機を想像した。鬱屈とした感情を他人にぶつけることは出来ない。でも自分の身体は自分のものだしどうせ価値のないものだから。そういう理由でストレス解消のために自分に刃を向ける人がいる、という話をたまに聞く。ただ他に、自分を傷つけ戒めることの代償として自分が存在することを許される、と考えている人もいるのではないかと思う。自分の精神的自傷行為を肉体的に置き換えたら、きっとそういうような動機でリストカットする予感がある。

 それってマゾヒズムなの、と問われると少し戸惑う。僕は自分からの暴力は甘んじて受け入れるどころか積極的に飛び込んでいくが、他人からの暴力は一切御免だから、どちらかといえば歪んだナルシシズム、水面に映った顔に向かって石を投げ続けるナルキッソスかもしれない。自らの醜い顔を受け入れるために、波で歪ませて更に醜くした顔を眺める。ふと我に返って醜さを思い出した彼は再度石を鏡像に投げ入れる。でも彼は泉の傍から離れようとしない。彼はどんなに醜くても自分が好きで好きで仕方なかったから。

 

 これはあれです。今日受けてきた採用試験を思い返しては良さげな手応えと自分の至らなさの間を単振動し続けるのに耐え切れなくなって漏れた、ちぐはぐであやふやな愚痴です。すみません。