墓の中

穴は真珠貝 標に星の破片 傍には百年の待ち人

作品語りと自分語り

読解も解題も中途半端な、あまり他人想いではない、専ら自分のための感想文を三つと、ぼやきを一つ。

 

・『居酒屋』(新潮文庫、著:エミール・ゾラ、訳:古賀照一)

文学史的には自然主義文学を日本に齎し、田山花袋島崎藤村あたりを通じて文壇に多大な影響を与えた存在として有名なゾラさん。まあ”自然主義文学”だなんていう学問的な分類は、研究者間でコンセンサスをとるための共通用語としては有用かもしれないが、一読者である僕にとってはそんな概念自体はどうでもよくて、「ある程度のご都合主義がまかり通る一般的な小説とは違い、現実のどうしようもなさをそのまま小説にした感じ」という曖昧なイメージで十分だろう。

パリの下層社会を生きるジェルヴェーズが暮らしを良くしようと努めるも、男や環境に振り回されて人生の坂道をゴロゴロ転がっていくお話。これを聞くだけでもどうしようもないが、終わり方がこれまた酷い。基本的に、悲惨な人生も最後には些細な救いが訪れる、という物語特有の甘いお決まりがあり、転がりつつある人生の坂道もスキーのジャンプ台みたいな効果を持つことが多い。でも、「綺麗に物語を終わらせたいなどというそんな甘えは許さんぞ」なゾラさんは、あらかじめ滑走路の最下点に、よっこらせとでっかい岩を用意しておき、ジェルヴェーズの背中を蹴って坂を滑走させる……。

一歩間違えれば(というよりも受け取る側によっては)露悪趣味にもなりうるこの作品は、やはり当時のフランス文学界で相当な話題になったらしい。評判としては「よくやった」か「流石にやりすぎ」に二分化されたようだが、この差は「綺麗な偽物よりもあるがままの現実」ということに対する個人的な価値観の相違に起因するものだろう。僕の好き嫌いはともかくとして、むしろその小説的方法論を躊躇うことなくぶち込んできたという点で、確かにゾラは評価されるべきだと思う。

しかし、僕はその内容や思想以上に執筆に対するゾラの執着心に目をひん剥いた。彼は脈々と続くある家系─ルーゴン・マッカール家─についての物語を、全20作のルーゴン・マッカール叢書として作り上げており、この『居酒屋』はその第7作に過ぎないのである。『居酒屋』は大体700ページだったから、一つ一つがこの分量だと仮定すると総計14000ページという計算になる。『失われた時を求めて』が訳書で4000ページ強だということを踏まえれば、この異常さは異常的に異常だ。しかも、毎年1作のペースで書き上げていたというのだから、あまりにストイックで背筋が一瞬ゾクゾクした。各巻の相関は薄いらしく、一作品ではなくあくまで一シリーズとして捉えるべきなのだろうが、それでもやはりこの現実的作品世界(作品的現実世界?)に対する執着心は驚愕と称賛と畏怖に値する。

いま、この叢書のうち新潮文庫では第8作に相当する『ナナ』も訳されて出版されている。上記の通り、これらは連綿とした血脈の上に成り立っており、『ナナ』主人公のナナは『居酒屋』主人公ジェルヴェーズの娘である。出版社の売り文句によれば『居酒屋』が「力作」なら、『ナナ』は「最大傑作」らしい。なんとも絶妙なランク付けで困るが、気になったので「最大傑作」は既に買って机の上に積まれている。埃がこんもりかぶってしまう前にはなんとか。

 

・『春の雪 -豊饒の海(一)-』『奔馬 -豊饒の海(二)-』『暁の寺 -豊饒の海(三)-』『天人五衰 -豊饒の海(四)-』(新潮文庫、著:三島由紀夫)

三島由紀夫は、間違いなく近代以降の日本文学界で最も優れた作家(の一人←予防線)である。もっとも、優れた作家すなわち好みの作家、とはならないのがまた面白いところなのだが。彼は1970年、その生涯の果てにこの大作を仕上げた直後、自衛隊の駐屯地にてハラキリを遂行した……という情報は随分と前から耳にしていたが、寡聞にして作品の粗筋について僕は知らなかった。しかし今になって思い返すと、この無知こそが僕を作品にのめり込ませるための良い鞭だったのかもしれない。いわゆる純文学において、その展開自体は命ではない(“純文学”という用語は恣意的に使われる傾向があるのであまり好きではないが、他に上手い用語も思いつかないので仕方なく使った)。普段の生活に目を向けてみると、書く側も読む側もネタバレであるということを気にすることなく、調べればあらすじがすぐ目に入るような世界になっている。筋書きを知っていることと読むことは全く別のことである(じゃあその差はどこに由来するのか、ということについてはまた別の機会に議論するとして)という不文律があるからこそ、このネタバレは公認されている。しかし、いくら展開自体に重きをおかないからといって、何も知らない状態で物語を読むのと、それを知ってしまった上で物語を読むのは、面白さは違ってくる。殊に三島の長編は展開もよく練られており、些細だがどんでん返しも多い印象があるので、あらかじめ結末を知った状態で読むのはお勧めできない。だから、─ここまでの長い前置きにこの接続詞を使って導き出す結論としては非常に収まりが悪いが─あらすじをたとえそれがどんなに粗いものだとしても書くのは止めておく。

そんな風に僕は何も前情報がない状態で第一巻を読み終わると、狂おしいほどに続きが気になって、なるがままに書店に走り第二巻を購入した。そして第二巻も読み終わると、余韻に浸る間もなく、これはしまったと思った。こんなことになるんだったら、続きもこの前一緒に買っておくんだった。(読み終わったのは休日の夜だったのでそのとき既に本屋は閉まっていた。)その翌日、普段なら書店を隈なく徘徊して「本日も異常なし」とばかり満足そうに立ち去っているはずの僕は、書店に入るや否や脇目もふらずに第三巻第四巻を目指し、レジを目指し、出口を目指していた……。それから数日間はまた幸せで苦しいひとときを過ごした。読み終わった後にふと目の前にあるものが凄まじい才能の塊だと気付いた瞬間の僕は、満足、安堵、崇拝、羨望、嫉妬、絶望といった感情の坩堝だった。まあそのときはグツグツ熱せられている坩堝のように情熱的なわけではなく、ただ床に種々の絵具を汚らしくブチ撒けた感じだったので、感情のガラクタ山とでも表す方がより正確かもしれない。

しかし、なんといってもその卓越した観察眼と表現力よ。人事によって塗り重ねられて不透明になってしまった「世界」を鋭く透徹な視線で暴くこと自体はもちろん類稀なる才能だが、更に三島は膨大な語彙という量的な武器だけでなく、的確かつ魅力的な表現という質的な武器を巧みに操ることによって、その「世界」を作品へと昇格させる。僕の稚拙な言葉で三島の作品を総括して言い表す(これは一種の冒涜といってもよい)のであれば、「熱烈で玲瓏な言葉によって理知的にしかし情緒的に描き出された人物や事象が、めくるめく織り成す魅了の世界」とでもなろうか。そして、抽斗の多さ。観察眼と表現力が物語の「深さ」を作り上げているならば、着想の多彩さが物語の「広さ」を作り上げていると言える。15歳から本格的に執筆を始めたとして割腹自殺まで約30年。その間に彼は一体どれだけの世界を考えて作品として著したのか。僕は物書きを目指しているわけでもないのに、文学とは全く異なる分野に生きているはずなのに、こんな圧倒的な天才を目の当たりにしては、自分の普段感じている自尊心がいかに脆弱な土台を基に成り立っているのか気付かされボロボロに崩落してしまう。

物語に直接は触れないという自縄自縛のもと、精一杯に抽象的な概要を述べると、確かに四冊で纏めて一つの作品ではあるが、一冊一冊ごとに作品として完結している。第二巻までは外界の出来事に、第三巻からは主人公の内面に重きを置いて描いた物語であるという感触を受けた。実はこの感触は正しいと言えるのだが、その理由をここで述べると作品に触れざるを得ないのでもどかしい。あー。あーーーーーーーーーーーーやめやめ。「作品の話をしたいのにネタバレが怖くて出来ない」って嘆くやつ、本人も聞いてる人も誰も幸せにならない。やめやめ。もうこれ以上この話はしません。すみません。気になったら第一巻だけでもいいんで買って読んでみて下さい。

ちなみに、僕はこの小説についての感想を書きたいがために、この記事を書き始めたまである。結局半端な感じの感想になってしまったが、これ以上書くとこの作品に対する感想ではなく、三島由紀夫に対する盲目的な崇拝になってしまいそうだから、ここまでにしておく。

 

・『細雪 (上・中・下)』(新潮文庫、著:谷崎潤一郎)

豊饒の海』の夢から覚めず、少し長めの作品を読みたい気分だったので、谷崎の一番の大作であり、三島にも高く評価されている『細雪』を読んでみようかと思った。これは谷崎が戦中から戦後にかけて書いた小説であり、その頃は軍部からの圧力が強く創作にも出版にも苦労したと本人は語る。関東大震災後に関東から関西に移住してから谷崎は関西を舞台とすることが多くなっており、この作品の主な舞台も1930年代後半の大阪である。主人公は次第に没落し始めている上流階級を生きる四人の姉妹で、未婚である下二人の結婚を巡ってドタバタする話。これは雑な要約ではなく、この物語における問題点は「姉二人が妹二人をいつどこにどうやって嫁に出すかどうか」に尽きていて、1000ページ以上に渡ってそれを描き続ける。

谷崎といえば『刺青』『卍』『春琴抄』『痴人の愛』といったような歪んだ関係性を耽美的に描くというイメージが強かったが、『細雪』はどちらかといえば通俗的だったので読んでいて新鮮だった。確かに末の妹は自由奔放で狡猾な性格─ここで重要なのは「自由奔放かつ狡猾」なのではなく、「自由奔放ゆえ狡猾」であるということだ─であり、言葉は悪いかもしれないが”歪み”が見え隠れしている。しかし、全体を通して上流階級の日常を描いた小説であるという体裁は崩れない。

“歪み”というものを作品に持ち込むのは、ぶっちゃけズルいのだ。異常なものを見せれば誰だって面白かったり記憶に残ったり心に刺さったりしやすいに決まっている。その”歪み”を懇切丁寧に描いたもののみが評価されるべきなのだが、とりあえず要素だけの”歪み”を浅くぶち込んで動揺を誘う一発芸作品も恐らくかなり多いのだと思う。余命半年で残りの人生をいかに使うのかとか、受験戦争やいじめを出して学校の闇を表現するのとか、そういう要素だけの”歪み”には見飽きた。だからこそ、通俗的で“歪み”の少ない小説でさえも優れた作品を残す谷崎の姿を見て、より一層その技量の高さを確信することになった。

最近僕は気に入ったフレーズをメモして残すことにしているのだが、面白いことに『細雪』を読んでいるときはほとんどメモを開くことがなかった。(なお、『豊饒の海』では可算無限回メモを開いていた。)だが、それは谷崎の拙さを全く意味しない。というのも、「気に入る」ということの前提には、読んでいるときに引っかかるということが必要である。引っかかるということはそれは何らかの点において自然でなく、つまり意識的に気に入ったもののほとんどは不自然なのだ。谷崎の書く台詞や地の文があまりにも自然で、ふとこれが物語であることを忘れてしまう。これは日常を表現することを目的とした小説にとって一等相応しいことではなかろうか。むしろ心に残る文というもののほとんどは作家が意気込んで狙って(≒不自然に)書いたものであるのだろう。ただそれが悪いことだとはつゆほども思わないが。

細雪』の文章は大体三種類の文から成り立っている。台詞と、心の声と、事態を客観的に説明する文。「AはBだと思った」という安直で直接的な心情の描写はあるが、内心を客観的に分析的に表現する文はあまりない。三島が隅から隅まで分析的に説明をし尽くすのとは対を成している。これは上でも述べた「自然さ」を醸し出す(自然さは醸し出されるものではないかもしれないけど)のに一役を買っているのではないかと思った。分析するのはもちろん頭を使うが、その分析を理解するのにも頭は必要だ。頭を使うと引っかかる可能性が高くなり自然さが損なわれるかもしれない……。まあこれは考えすぎかもしれないけど。

彼の『文章読本』を僕はきちんと読んだことがないが、その裏表紙によれば「文章に実用的と藝術的との区別はない」と書かれているらしい。出版年は1934年で、初期の谷崎の作品(『刺青』『痴人の愛』『卍』あたり)にこの考えが反映されているかは分からないが、少なくともこの『細雪』にはその精神の在り方が感じ取れる。生活と美は少しも矛盾せず、共に寄り添い、花が土のおかげで咲き誇るように、美は生活の中で燦然と光り輝くのだ。

 

・ぼやき

梅雨です。雨は嫌いです。農家以外で雨が好きだという人は、雨に濡れない安全な場所から雨を見ているから好きなのではないのかと思います。たとえば「雨の音が好き」や「雨の日の雰囲気が好き」というような雨自体を無視した印象をもとに「雨が好き」と言っているのであれば、それは少し軽率ではないかと思います。そんな些細な事でつっこむくらいに雨は嫌いです。梅雨です。