墓の中

穴は真珠貝 標に星の破片 傍には百年の待ち人

本心の耐えられない軽さ

「お前、最近勝手に喋りすぎじゃないか」自問自答の囁きはゼロ距離で訪れる。

僕の頭の中は元来結構お喋りで、というのもガチャコンと自他の言動を刻んでは体系という抽斗に詰め込むための質疑応答を繰り返すからなのだが、ある日気付いたのは、これはいわゆる知的創造ではなく、ただ機械的に自分に都合の良いように事柄を処理するだけの作業である、ということだった。確かにそれは一定の人間性を担保するものではあったが、僕は長年この流れ作業の手際の良さを「頭の良さ」と混同していたために、その自己肯定感によって作業効率は更にブーストされて、終いには習慣から条件反射へと僕の生活に根付いてしまった。

しかし、この問答で得られた血も肉もない空虚な議論は、自分の内側に留めておく分には堅固な要塞になるが、実際に社会性フィルターを通さずに他人に対して提示しつづけると、今度は逆に自らを陥れるための罠となる可能性さえある。一つは自分で正しいと思っていることが実はお話にならないほどのウンチ的愚考だった可能性。体系の管理者が自分しかいない以上、どこかで甘えが発生してドアホ議論になることは往々にしてよくあることだ。二つ目は自分で正しいと思っていたことが他人にとって正しくないという可能性。どんな人間の間にも共有しえないオリジナルルールというのが存在するから、その食い違いを乗り越えてまで自らの正当性を主張するのは何も生まない(というのは悟りを開いた仏の考えで、凡人的には話の通じない相手を理不尽に言い負かすことで少なくとも爽快感は生まれるので、僕もよくやる)。三つ目は万が一自分だけが正しかったとしてもそれを言うことが社会的に”正解”ではない可能性。「正論が最も優れている」というそもそもの前提が無条件に成立しない場というものは確かにある。正論のない世界はクソくらえだが、正論だけの世界もつまらない。だから、この事実は良くも悪くもある。

様々な身の危険から逃れるために慎重に慎重に社会性フィルターで漉してゆく。無意識のうちに情報をブチブチに千切って取るに足らない有象無象の言いがかりが脳内工場から製造されていくから、誰に対する発言でも出荷チェックは必要だ。ただ例外的にオタクと作品や妄想について語るときだけはもうお祭りの屋台のように、作った端から売り払っていく。というのも「我々は現実ではなく架空の話をしているのだ」という共通認識のもとでは、完全なる正しさよりも、ある程度の正しさで裏付けられたエモさの方が重要になってくるので。(ただの機械でしかなかった昔の僕は絶対にこんなことを言わなかっただろう。この点においては、僕は人間味を取り戻したと言っても過言ではない。)

漉された後の、どんな思想にも偏見にも欲望にも染まっていない無色透明で無味乾燥な言葉。これではさぞつまらなかろうとその場に応じてアレンジするために市販のノリやネタをふりかけて味付けする。なんか自分のモノかもよく分からん台詞が出来上がる。最近の自分を振り返ると、このふりかけ速度が加速しているような気がする。よくもまあこんなにペラペラ喋るもんだと。そんなこんなである日、冒頭に書いたようなお達しが脳内行政官によって下された。

いくつか近々の思い出を記憶から切り出してみると確かに饒舌の傾向があるような気がする。たとえ饒舌でなかったとしても、口は半自動的に言葉を発していて、自分の本心の在り処(そもそもそんなものがあったのかさえ分からなくなるが)が境界不明瞭にぼやけ始めているのを感じる。行動や発言として表さなくてもいいから自分の本心だけは大切にしろとあれほど念じ続けてきた結果、その本心が迷子になりかけている。元々精神を聖地として囲い込むために自己の内外を乖離させたのに、回り回って上っ面だけが勝手に歩き出して、今度は逆に自分の精神を侵し始めている。

まあそれも一過性の杞憂でしょうと楽観的な脳内医師が嘯く。先生本当ですかどうかそうありたいものですがと脳内患者が懇願する。というのも最近柄にもなく小説を読み耽ってしまったのがどうも契機として怪しい、情報量の多さに思念が行き場もなく生成された結果、一時的に脳の支配構造が変性して口や頭が勝手に動いてしまっているのかもしれませんなと脳内医師がいかにもな口ぶりで分析する。そうだそうだそもそもこんな堅物が簡単に変化するとは思えんしなと脳内野次馬が相槌を打つ。しかし、自分の変化にまつわることについては、どうにも今だけでは判断できない。ただ時の経過だけが顛末を伝える使者となる。変わるということに疎い僕はその使者の到来が少し怖い。