墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

コミュ省というものぐさ病

人生観という厳めしい名をつけて然るべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温く触れて行く事であった。微笑して過ぎる事であった。何にも執着しない事であった。呑気に、ずぼらに、淡泊に、鷹揚に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。それが彼のいわゆる通であった。 

夏目漱石『明暗』

 

今は昔、解剖実習のときに班員に対して「感情筋ってどれだろう」と訊いたことがある。表情筋ということばが学問的には正しく、班員には「君には感情に筋肉があるのか」などと笑いながらツッコまれてしまった。それ自体はただの言い間違いだったが、そのことによって、ある当たり前の事実を認識するに至った。それは、感情には筋肉は不要だが表情には筋肉が必要だ、ということである。

 

感情は内在的、表情は外向的なものであり、生活の上でそれらは度々衝突して、思考と行動の乖離(“心身の分裂”やら”ホンネとタテマエ”やら類似用語は色々ある)が起きる。これを踏まえると、表情は二種類─感情から思わず自然に導き出される表情と、感情とは全く無関係に作り上げられる表情─に分類できる。(思えば僕の話はいつも分類から始まる。そういうことしか出来ないので。)前者は健康的な概念で、後者は若干病的な概念とも言える。ただ、二種類に分類できる、というのは少し思い切りが良すぎ(!)で、現実的には感情と表情の関係は、自然な表情と完全新作の表情を両端としてグラデーションを描く。例えば、どこかに出かけるのは楽しみだけど面倒だというときに楽しみだという表情だけを見せるのは、自然な表情と人工的な表情の丁度中間あたりに位置する。

自然な表情という端点を用意したが、実際には我々は普段から素の感情を表に出すことは少ない。これは僕だけの話なのかもしれない……と一瞬思いはしたものの、やはり万人に共通していることだろう。自分の過去の経験(あまりお勧めしないが、思い返したくない真っ黒な昔話あたりが狙い目だ)をほじくり返してみて、「思わず素が出ている状態」というのを思い出してみれば分かるが、たいていが興奮していたり感動していたり動揺していたりという心的状態であり、それは実は普段の(定常的な)状態ではないことが多い。どうやら我々には感情にある程度手を加えて誇張し抑制し修正し表情を作り上げる機能が携わっている(穿った見方をすれば、生きていくためには身に着けざるを得ない)ようだ。この表情の推敲作業はいつも同様に行われるわけではなく、ソーシャルな場では厳しく、気心の知れた内輪もしくは一人きりの状態では緩む。これは表情に限らない。全ての行動において周囲に応じて推敲されている。研究室では無言なのに、外に出ると突然「あ゛ー!おちんちん!」と叫びだす人間をぼくは知っている。当たらずとも遠からず、誰だってそういうものである。しかし、おちんちんはいかがなものか。

 

それにしても、行動の推敲というものは文章のそれ以上に疲弊する。状況把握というインプット作業ののち、自分の見せるべき表情を選別し、その他の感情を表情として出ないように抑圧するという内的作業を経て、実際に表情として目に見えるレベルまで押し上げるアウトプット作業を行う必要がある。もちろん一々こんなことを意識して生きているわけではないが、分解しようと思えばこんなとこだろう。

特に内向的な人間にとって、最後のアウトプットが一番気の遣う作業になる。心理としては単純で、それまでの段階は自分の内側で処理できるが、一旦外に発露したものは回収不能であるという事実に対して不安を覚えるのだ。これについては随分前に記事を書いた。

paca-no-haca.hatenablog.com

(自己言及的だが、この記事だって外部に対する発露なわけだから、それなりに気を遣っている。)

冒頭で述べた通り、やはり感情には筋肉は不要で表情には筋肉が必要なのだ。何かを表に出すというのは心にとって重荷であるだけでなく、意図的に表情筋と発声筋を動かす必要があるという点で身体もジワジワと痛めつけてくる。

 

それでも何かを外に出す。ひとつは内側から押し出される圧力、つまり言いたいことを言うために。もうひとつは外側から引っ張られる圧力、つまり言うべきことを言うために。既出表現を使えば前者は「自然な」もので、後者は「人工的な」ものだが、アウトプットの閾値が高い内向的人間にとって前者はあまりない(というのも、基本的に言いたいことを言う欲求よりも発言によって外界に干渉する面倒くささの方が上回るので)。

親しい友人と喋っているとき、あまりにも外側からの圧力が弱くて(ありがたい)、たまに途中でスイッチが切れる。別に機嫌が悪くなったというわけではなく、もっとことは単純で、ただの電池切れとでもいえばよいのだろうか、バリバリの社会では予備電源を使って、無理矢理にでも稼動するのだが、ユルユルの内輪では周囲に甘えてスリープモードに入ってしまうことがある(ごめんなさい)。なんかボーッとしてしまって完全に静物画の気分になって存在する。でも、普通のボーッと違って、一応はインプットも内的処理も続いているので、僕はコミュニケーションしていると錯覚する。話は聞いているので僕の反応は気にせず続けて下さいということをせめてアピールするために、「うん」「そっか」「なるほど」という呆けた言葉を出す。更にひどいときは声も出さずに首を縦にふって意思疎通した気になる。言うなれば、僕には異常なまでのコミュニケーションの省略癖がある。(僕はそれを”コミュ省”だなんて呼んで、しめしめ我ながら上手いこと言ったものだと思ったが、特に誇れることでもない。)

普段からボソボソと喋りがちなのもこのようなものぐさの現れかもしれない、誘われれば行く、誘われなければ行かないという他人依存の行動原理もものぐさ故のものか……などと日常を顧みてものぐさ病の症状を並べるときりがない。困ったものだ。いや、別に僕は困っていないが、多分周りの人が困るし、そして僕もいつか困ることになるのだろう。うーん。

 

結論。今、人生においてお尻ペンペン係が切に必要とされている。