墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

はじめに言葉ありき 言葉は形と共にあり 言葉は形であった

 人はみな、無意識のうちに自分の”形式”に依存して生きている。それは例えば、学歴・資格・業績といった社会的地位であったり、よりミクロなレベルでは契約関係・交友関係・親族関係・婚姻関係であったりする。「自分はかつて〇〇大を卒業して□□を成し遂げた人間だ」「自分は〇〇と、□□という約束をした」「自分は〇〇の知り合い(家族)だ」という”形式”があるからこそ、それを前提として生活することが出来ている。こんな言い古されたことを掘り返す必要はないかもしれないが、専ら自分のために以下で整理しておく。

 自己同一性の内容は社会的自我(自分は〇〇という人間である)と実存的自我(自分は自分としてここにいる)に分かれるとよく言われる。そして、まず社会的自我が形成されて、それから実存的自我が発見される。これは児童時代に虐待を受けた人間が、一番身近な他人である親との接触が歪なものだったが故に、社会的自我を育て上げることを出来ないまま大人になったとき、自らの感覚を「宙に浮いた存在」と呼ぶことがあることが傍証として与えられる。(正式な症例報告ではないが、精神科医である高橋和巳氏が自らの書籍でそのように報告していたのでそれを参考にして述べている。また、自分の過去の記事(→虐待児と実存主義 - 墓の中)とも合致する内容なので蓋然性はかなり高いと考えている。)

 ともかく、社会的自我を形成せずに実存的自我を獲得するのは困難である、ということが言えるだろう。であれば、このように社会的自我という”形式”の存在─「形から入る」こと─は必要であり、また必然でもある。“形式”なき世界では人間は自我を持たずに、ただひたすら静的な世界となるだろう(ぶっちゃけ僕はそれでも構わないが)。

 この“形式”の必要性は自己同一性についてのみ通用する話ではない。形式があるからこそ様々な関係が発生し、保持される。点(人間)は線(関係)を生み、線は面(社会)を生むようになる。法律はそうした“形式”の最たるものだと言える。

 

 しかし、この“形式”といったものは、確実なものに対して安心感を覚える人間の瞳には、魅力的に映るからこそ、厄介な代物となりうる。ここでの「確実なものに対して安心感を覚える人間」とは「人間のうち、確実なものに対して安心感を覚える人間の集合」という制限用法ではなく、「確実なものに対して安心感を覚える生物であるところの人間」という同格用法である(「絵を描く小説家」と「絵を描く画家」を比較せよ)。つまり、人間である以上、”形式”という誘惑からは目を背けることが出来ないから、事はさらに厄介である。

 僕は、“形式”はあくまで自己や関係性のための手段に過ぎない、と主張しておく。必要を超えて過度の“形式”を欲した人間は、自己や関係性それ自体に目を向けることはなくなり、結果的に”形式”だけが残り、自我(より正確に言うならば実存的自我)は失われていく。まさに人間(や関係性)の形骸化という現象が生じる。

 

 最も簡単に“形式”を生み出す方法は発言である。発言とは意思の発露であり、発露によって意思は初めて周囲の人間に観測されて”形式”となるからだ。この手軽さ故に、日常的に発言による形骸を目にしては眉を顰めることが多く、特にSNSでは激しい。

─ここから根暗オタクの僻み─

 例えば、「みんなで〇〇に来た!□□(集団名)最高!」というFacebookの投稿は、わざわざ投稿する必要があったのだろうかと常々思う。投稿によって他人からの認知を得ることで、仲間たちの絆をより”形式”化して深めることを目的としている、と僕は解釈しているのだが、それは形骸化の危険性を鑑みた上での行動なのだろうか。自分は楽しかった、その場の雰囲気から推測するにみんなも多分楽しかった、と心の中で満足するのではいけなかったのだろうか。同様に、Twitterの「フォロワーさんに一言」文化も違和感を禁じえない。つくづく人間は大好きな”形式”に依存してしまうものだなあと半ば諦めの気持ちで眺めている。(かつて僕もズブズブに溺れていたからこそ、とても辛いものがある。)

 旅行の広告に「SNS映えするスポットが多数!」というキャッチコピーがデカデカと掲載されていたときは驚愕を通り越して茫然としていた。お前は旅行させたいのか、ソーシャルにネットワークさせたいのかどっちなんだ。(しかし、こう思った直後に、それらを両立すること、つまり旅行かつSNS両方を主目的とすることは十分可能だという結論に至って、その場では無理矢理飲み込んだ。)ここでも、旅行という目的の形骸化を微かに感じる。

─ここまで根暗オタクの僻み─

 別にSNSの投稿に限らない。日常的に発言は繰り返されており、そこかしこに形骸化の危険性は潜んでいる。究極的には、「〇〇だ」と述べたとき既に「自分は〇〇と述べた」という社会的自我を作り出していることになる。発言内容が誠実でない(つまり、ただの衒いや建前のために発言する)と、すぐ”形式”に身体は蝕まれていく。

 僕が言いたいのは、そのリスクをしっかりと理解した上で、”形式”を最大限利用するべきだということだ。前述のとおり、“形式”なしに我々(という自我の集合体)は存在しえないし、そもそも”形式”からは逃れられない以上、共に上手く歩んでいくことが最善だろう。

 僕は格好悪い人間であっても良いが、虚ろな人間になりたくないと強く願う。

 

 サルトルは「人間とは、作り、作りつつ自らを作り、自ら作ったもの以外の何物でもない」と述べた。この「作りつつ自らを作り」というところに「まずは“形式”を作りなさい、しかしその”形式”の上に胡坐をかいてはいけない。“形式”の創造の連続こそが、実存的自我の形成につながる」というサルトルの遺志を、若干我田引水気味に解釈して、筆を擱くことにする。