墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

僻地の聖地で孤独に功徳

 今日、栃木県は栃木市の岩舟町に行ってきた。岩舟町は新海誠が監督した作品『秒速5センチメートル』の第一話「桜花抄」における舞台、つまり"聖地"と呼ばれる場である。

 何か旅に出る端緒があったのかと改めて自分に問うてみても判然としない。登場人物が見て聴いて感じた景色を追想したいと思っていたわけでもなく、ただどこか普段から遠い場所へと漂浪したかったわけでもなかった。普段は行動へと移す前に必ず理性が出しゃばり監査してくるのだが、少し寝不足だったこともあってそんな悪癖もそっちのけで冷たい空の下に飛び出していた。ただ癖はどこまでも癖で、電車の座席に座り温かさに包まれると次第に常日頃の精神構造を取り戻し、いつのまにか窓の外に自分のこころの在処をぼんやりと探し始めていた。

 

 『秒速5センチメートル』は好きな作品のうちの一つだ。話が個人的な趣味と合致していたこともあるが、それ以上に鮮やかな景色が僕の目を、心を悦ばせた。僕はよく綺麗な風景(定義:人間がいない、もしくは一人のみの空間)の写真や絵画を見て細やかな幸せと切なさに浸る。多分人以上に僕は風景そのものに対する執着が強い。世間で名画と呼ばれるものが悉く僕の心に対して何も訴えかけてこなかったことと比較すると、嗜好に偏りがあるのを強く感じる(その偏好が元々の人格の歪みによるものなのか、それとも感性の乏しさや経験の乏しさに起因するのかは知らない)。

 僕がその他の視覚情報に対してなにかを感じることが少ないように、綺麗な風景に対して「だからどうした」と冷めた目で見る人がいるのもよく分かる。どっちが正しいとかそういう議論はお互いが疲弊するだけだし、第一決着できるものではないから止める。問題は僕がなぜここまで風景に固執するのかということだ。

 

 僕が風景を見るときにどのような感情や願望を持っているのか過去を掘り起こして考えてみると、「『世界にただ一人』という状況っていいな(になりたい)」というのが共通するようだ。目の前に風景がある。それを見る僕がいる。世界は僕とその風景で完結している。そして、僕は良い気分になって酔い痴れる。

 これは果たして倒錯的だろうか。僕は孤独がそこまで好きなのだろうか。そう自分に問いかけると、否定的な意見が返ってくる。例えば、「部屋に一人」と「世界に一人」を比べたときに、後者が明らかに魅力的に感じる。同じ孤独でも感じ方が違うのであれば、孤独そのものを好んでいるわけではなく、特定の孤独によって得られる何かを欲しているということになりそうだ。僕は一体、完膚なきまでに孤独な世界で何を求めるのだろうか。

 

 僕は平穏が好きだ。もっと言えば、それが嬉しいことであっても何も起こらない方が好きだ(”何も起こらない”という”嬉しいこと”が起きるのはどうなのか、というのはなしで)。褒められるにしろ貶されるにしろ、外部からの影響を受けることに僕の心はとても敏感で、毎日意識的に無意識的に適切な処置を施すことでなんとか自己防衛している。

 ここまで自分のこころを掘り下げて、僕はひどく納得してしまった。ああ、世界に自分一人しかいなければきっとそれは素晴らしいほどに静かだと。部屋に一人でも確かに直接的な接触はないかもしれないが、アクションの発生可能性はそこかしこに潜んでいる。それが「部屋に一人」と「世界に一人」の決定的な差なのだろう。

 

 もちろん孤独は寂しい。でも、他人がいなくても僕の中には自分という話し相手がいる。新しい情報さえあれば自分勝手にお喋りが始まる。だから、他人がいないという寂しさは少なくとも僕にとって決して致命的なものではないと感じる。ただ本当に何もない真っ白な世界で一人生きるのは厳しいかもしれない。自分の楽しめるネタがないのは孤独以上に残酷だから。

 でも欲を言えば「世界に一人」よりも「世界に二人」の方がきっともっと幸せなのだろうなとも思う。潔癖症すぎる僕は既にこの現実世界では諦めているが、理想の女性(”理想”の内容は流石に気持ち悪いので言えない)がいれば、二人で生きるのが人生の最適解に違いない。一応念のためにもう一度言っておくともうこれについては既に諦めてる。空しいね。

 

 だから、ここまでの議論をまとめる(要約する量でもないけど)とこうなる。僕は静謐のために孤独を求める。だからこそ、「世界に一人」だと錯覚させるような風景画に強く心が惹かれる。多分今回旅に出たのは、この心理を背景とした上で『秒速5センチメートル』の景色をふと思い出し、”聖地”に行けばより強く孤独を感じ悦に入ることが出来るのではないかと期待したのだろう。

 

 ふーん、と僕は鼻息を漏らすと電車の窓ガラスが曇る。お前が無性に田舎を求めるのも孤独欲によるものなのかい。窓ガラス越しに尋ねる。そうかもしれないね、さてカチッと自分のこころを解明して満足したところでそろそろ最後の乗り継ぎだよ。

 宇都宮線から両毛線に乗り換える。いよいよ聖地が近い。期待に胸を膨らませて僕は車内に乗り込んだ───

 

 

 

あ、混んでる。

 

 

 

 両毛線は普通に混んでいた。電車が駅に止まる毎に乗客数は増えていった。岩舟駅に降りるとまばらだが人(車)がいた。建物がポコポコ建っていた。不良っぽい人たちが騒音バイクでウォンウォンしていた。人の存在が身体中で感じられた。僕は「世界に一人」ではなかった。ここは聖なる地ではなかった。てか作品中じゃ雪降ってたし。雪の降ってない岩舟ってただの田舎じゃん。現実世界の作画、作中の塗りと全然違くない?雪の代わりに愚痴が心の中に積もっていく。

 あれほど現実世界には理想化された仮想世界と同等のものを期待しちゃ駄目だと自分に言い聞かせていたのに、潔癖症な僕が並大抵のことで満足できるはずがないのに、もう既に諦めているなんて嘯いていたのに、それでも今度こそはと待望して、そして失望してしまった。悲しい。大体分かっていたけどやはり悲しい。現実に救いはないのだという思いが更に募っていく。

 まあ突発的な電車旅のオチとしてはオチてるしこれはこれで良いのかもしれない。せめてもの情けに、岩舟駅の近くにあった寺を観光してきた。クリスマスイヴなのにお寺にお参りなんてグローバライゼーションも甚だしいなと苦笑しながら参拝した。復路は往路とは違う路線でグースカ寝た。栃木県を出発して気付いたら埼玉県にいて、また気付いたら東京都に戻っていた。どこかの駅を通ったときに見たイルミネーションが綺麗だった。

 

 

今年のクリスマスはそんな感じで楽しく過ごした。