墓の中

発言の無矛盾を目指します

好きなものは好き、という話

僕は『エロマンガ先生』の山田エルフ先生が好きだ。裸でピアノを弾いてる山田エルフ先生が好きだ。メイド姿で和泉マサムネを出迎える山田エルフ先生が好きだ。和泉マサムネを叱咤激励する山田エルフ先生が好きだ。浴衣姿で夏祭りに行く山田エルフ先生が好きだ。もちろんカメラの前でスカートをたくし上げてパンツを見せる山田エルフ先生なんか最高だ。

シナリオだけ見れば30点アニメだが、opとed補正で300000000000000点、エルフ補正で大体300000000000000000000000000000000000000000000000000000点(チート)(IQ3)(山田エルフのパンツで差をつけろ)になる、といった感じだ。一言で言えば、“優勝”である。

 

IQを100に戻して

しかし、「キャラクターが好き」とは一体何なのだろう。

なぜこのようなことを突然言い出したかというと、僕は冷静沈着で無表情なキャラクターを好む傾向にある、と自己分析していたのだが、山田エルフ先生は全く冷静沈着でもなければ無表情でもない。つまり、僕の普段の推し路線とは真反対の存在なのである。こういうことは今回初めてではなく、過去何度もあった。故に、僕の推しベクトルは一体どこに向かっているのか、気になったというわけだ。

まあオタクなので、可愛ければ誰でもokみたいな感じで好き好き言ってる可能性も否めない。というか否めないも何も、多分そうだ。普段息を吸うように優勝しているだけにこれについては反論しようがない。ごめんなさい。

というわけで、この記事は自分のDD(誰でも大好き、の略らしい)を正当化することを試みるものである。

 

好きの分類

僕が思うに、「キャラクターが好き」という感情は大きく二つに分類される。「自分がそのキャラクターになりたい」「自分の隣にそのキャラクターがいて欲しい」という感情である。

例えば、僕にとって「冷静沈着で無表情なキャラクター」とは自分の理想の姿であり、これを見ることで「自分がそのキャラクターになりたい」という感情を経由して、「好き」という感情に至る。このようなキャラクターが隣にいて欲しくない、というわけではないが、それ以上に自分がそのキャラクターでありたいのである。

一方、僕にとって「山田エルフ先生」は傍にいて欲しい存在であり、別に自分がなりたいというわけではない。カメラに向かってスカートをたくし上げてパンツを見せたいなどとは思わない。むしろ僕はカメラかスカートかパンツになりたい。

この「隣にいて欲しい」という感情は便宜上二つに分けることが出来るかもしれない。それは「(隣にいて)自分に何か働きかけて欲しい」「(隣にいて)自分が何か働きかけたい」か、である。母的か娘的か、と言っても良いだろう。もちろんこの二つは完全に峻別できるという訳ではない。一人のキャラクターに母性と娘性が同時に存在することは十分あり得る。例えば、僕にとって山田エルフ先生は、ほぼ母的な存在である。叱咤激励して欲しいしメイド姿で出迎えて欲しいし夏祭りに誘って欲しいし、何よりもパンツ見せて欲しい。

このように、「好き」という感情は「自分がそのキャラクターになりたい」と「そのキャラクターが隣にいて欲しい」という二つに分けられ、その根本の感情に差がある故に、全然方向性の違うキャラクターを好きになるということがありうる……のではなかろうか。

 

もう一つの類型?

これにて、オタク特有のDD(誰でも大好き)をある程度正当化できた(ということにしておく)わけだが、少しだけ補足しておきたい。それは自己投影的なオタクではなく、傍観者的なオタクにおける「好き」についてである。

(男×女か、男×男か、女×女かはさておき、)そのカップリング自体が好きなのであって、傍観者である自分はそこに投影する必要はない」という方も多い。この感情自体は僕も理解することができる。ただ、この「好き」は、僕の感覚では、美を愛する感情、崇拝的な感情に分類され、上述の「好き」とは性質的に異なるものであるように感じる。

強いて言うのであれば、「自分がなりたい」「隣にいて欲しい」という分類に「神(理想でも美でも用語はなんでもいい)であって欲しい」というものを付け加えてもよいかもしれない。いわば、自分の存在に依存しない「好き」である。

 

自尊、自己実現、自己超越

この記事を書いていて想起させられたのは、マズロー自己実現理論(欲求段階説)である。これはアブラハム・マズローという心理学者が人間の欲求を五段階に階層化したものである。

それによれば、高次の欲求から

自己実現欲求(自分はこうなりたい)

・承認の欲求(周囲から尊重されたい)

・社会的欲求(社会的に居場所が欲しい)

・安全の欲求(安全に健康に生きたい)

・生理的欲求(食べたい、寝たい、トイレに行きたい)

と分類される。そして、これらの5段階の欲求段階の上に

・自己超越

の段階があるとマズローは発表した。

この理論が本当に正しいかどうかの議論はさておき、こう見ると、「隣にいて欲しい」というのは承認の欲求、「自分がなりたい」というのは自己実現欲求、「神であって欲しい」というのは自己超越、に対応していると考えられる。

ここに奇妙な一致があって興味深いが、単純に「好き」が欲求の充足を求める感情だという風に(かなり露悪的な表現ではあるが)考えれば、当然の一致かもしれない。

 

こんな恥ずかしい記事書く人知らないっ

最後真面目そうな話で締めたが、そんなことは実際どうでも良くて、ただとにかく今日も僕はエロマンガ先生推し続ける。ゴミシナリオでも、周囲に叩かれ続けても、僕は推し続ける。そこに山田エルフ先生が出演し続ける限り、推し続ける。たとえ伏見つかさの作品的に、山田エルフ先生が噛ませ犬(噛ませエルフ?)だと分かっていても、推し続ける。

だって、好きなものは好きだ。

 

僕はパンツが見たいんだ。