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墓の中

発言の無矛盾を目指します

僕も君も誰も天使じゃないよ

『僕は天使じゃないよ』というノベルゲームをプレイした。知り合いに「頼むからやってくれ頼む」とオススメされたので、よーしおじさん期待しちゃうぞと意気込んでプレイした。

ジャンルは懐古調SMノベル。中々ド直球で良い。近所に「和 日本料理 本場四川上海料理」という看板を掲げていて、日本料理なのか四川料理なのか上海料理なのか分からない料理店があるのだが、それに比べて遥かに直接的で簡潔で分かりやすくて良い。

SMなど普段体験しないジャンルなので身構えていたが、これが中々良かった。というかかなり良かった。勘違いされないように言っておくと、作中のSMが良かったのではなく、お話として良かった。

簡単に言えば、自分の醜い容貌にコンプレックスを持ち、かつSMに興味を持つ、人でなしの主人公が、どこか欠けている代わりにどこか飛び出した、歪な女性たちに魅惑され翻弄され破滅する物語である。破滅、と一言で述べていいのか分からない。傍から見ると破滅でも、主人公たちにとっては、時には救済たり得るのだ。

この物語にハッピーエンドはない。ただここでもやはり、傍から見てハッピーエンドはない、と言っておかねばならない。傍観者がいくら悲しく感じようとも、当の本人が満足であれば、それはハッピーエンドなのだ……と自称エンディング評論家の僕は語る。

というわけで、感想をツラツラと書き連ねていく。ネタバレ込み、かつ情報が断片的なので、ご了承いただきたい。

 

 

このゲームには、4人の攻略可能なヒロインと、1人の攻略不可能なヒロインがいる。百合乃、柘榴、翠子、ローザと、そして小梅である。

百合乃√、柘榴√、翠子√、ローザ√には複数のエンディングが存在するが、その中でもエンディング画面が異なり、そして「終章」が用意されている、特別なエンディングが一つずつある。それらをTRUE ENDと呼ぼう。(正式名称ではそれぞれ、百合乃√の炎の檻END、柘榴√の氷の涯END、翠子√の薔薇色の人生END、ローザ√のそらにおちるEND、となる。)

 

さて、メーカーによる謳い文句は「ヒトデナシと二人の少女の倒錯の世界」とあるが、ここにおける「二人の少女」とは百合乃と柘榴のことを指すことは明らかである。百合乃が光であれば、柘榴は闇であり、お互いに対となる存在として、主人公・市蔵を誘惑していく。

よって、今回この記事では、攻略可能な4人のヒロインのうち、メインとも言える百合乃と柘榴の二人を取り上げて、そのTRUE ENDを詳しく扱うことにする。

 

1.百合乃TRUE ~情欲の光に身を焦がす迷える聖母~

あらすじ

百合乃はロザリオ園の資金援助の為に、マスカレヱドの壇上に立ち、茨の鞭に打たれる。そのショックで幼児退行してしまった彼女を、市蔵は連れ出して逃避行する。ある日、市蔵は湖のほとりで百合乃を殺そうとするものの思いとどまる。彼はこれ以上、彼女の「」で居続けることは出来ないと思い、彼女をロザリオ園に引き渡す。しかし、市蔵との離別を嘆いた百合乃は自らロザリオ園に火をつけて焼身自殺する。市蔵はそれを見て悲しむのでも怒るのでもなく、ただ羨むのだった。

「なぁ……百合乃……お前と違って……なき俺はどこへ向かえばいい?」

 

「神」とは何か?

百合乃√には度々「神」という単語が出てくる。

百合乃はキリスト教の信者であったが、かつての震災(おそらく1923年の関東大震災だろう)で家族を亡くしてしまい、神の存在を怪しむようになる。しかし、孤児院であるロザリオ園に寄付してくれる市蔵を見つけて、彼をまるで神のように尊敬する。

ここまでは分かる。苦悩の中にあるとき、救いの手を差し伸べられたらその人を崇めたくなる、という気分は分からなくもない。しかし、雲行きがおかしくなるのはここからだ。

百合乃は「神」である市蔵に折檻を求めるようになる。罰を受けることで自分は初めて許されて生きていくことが出来るのだと、彼女は語る。

勿論そうした倒錯の持ち主─マゾヒスト─だから、折檻を依存対象である市蔵に求めた、というのは簡単だ。しかし、その倒錯の根本にどういう心理があるのか少し考えてみたい。

 

自己犠牲と自己実現

突然で恐縮だが、ユダヤ教という宗教がある。唯一神ヤハウェを信仰し、旧約聖書を教典とするユダヤ人の民族宗教だ。ユダヤ人は、かつて住んでいたイスラエルを他国に侵入されるなど、数々の迫害を受けるが、それでもヤハウェに対する信仰を失わなかった。それはなぜか。

彼らの論理によれば、ヤハウェは絶対に正しいので、何か意味があるはずだ、そう、これは私達に対する試練なのだ。ここで神を恨んでしまっては、本当の罪になってしまう。

この世が不完全なのは、『創世記』にあるようにアダムとイヴが知恵の実を食べてしまったことで、人類が完全な世界である楽園から追放されてしまったからだ。むしろ我々は試練を受けて当然である。

つまり、「試練を受けたのに信仰を失わなかった」ではなく、「試練を受けたからこそ信仰を失わなかった」。理想的な未来のための試練として、苦しい今を受け止めて生き続ける、それが彼らにとっての信仰なのだ。

 

罰当たりだが、ここで少し穿った見方をしよう。この論理は気を抜いてしまうと、「自己犠牲によってのみ、自己実現することが出来る」という考えを経由して、「自己保全は悪、自己犠牲こそ善」という考えに至るおそれがある。

だが、「痛いの大好き、痛くないと感じない」というマゾヒズムに比べて、この考えは一般人にも十分理解可能なものだろう。

百合乃の被虐的願望はこれと似たようなものを礎にしているのではないか、と僕は考えた。

 

醜いけど、醜いから、大好き

話を元に戻そう。ここではTRUE ENDではなく、最も百合乃の心理が色濃く表れているピエタENDを参考にする。

市蔵がチャペルにいきなり乱入し百合乃と抱き合うシーンが以下である。

ゆっくりと帽子とマスクを取る市蔵。

百合乃「あっ!」

百合乃の表情が怯えたようにこわばる。市蔵は二目と見られぬ程、醜い容貌の持ち主だった。

百合乃「…………」

しかし、やがて微笑みさえ浮かべて、市蔵の足元にひざまずき、市蔵の顔に頬ずりする百合乃。

(中略)

彼女は頬を上気させたまま、より強く市蔵にしがみつく。

百合乃「百合乃は……百合乃は……本当はこれを望んでいたのかもしれません……」

市蔵「…………」

百合乃「この人を救うためにわたしはいた。──そうですね、神様?

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 また、乱入事件のあとの、ロザリオ園のシスターたちの会話も挙げておく。

シスター「あの子はあの男性を救うことで罪を贖おうとしたのでしょう。あの市蔵という方の罪が深ければ深いほど、それを救う好意は強い力を持ちます

シスター「彼女はそれが自分の存在する意味だと理解した……と?」

 最終的に百合乃は自己の妄想に閉じ籠る。

百合乃「ああゾッとします……ゾッとします。ゾッとする程、醜い。もっとよく見せて下さい……その醜い顔を。ああ嫌だ嫌だ嫌だ汚らわしい。だけど好き好き好き大好きなおじ様!」

まず確実に言えるのは百合乃は市蔵のことを醜いと思っているということ。それでも─いや、だからこそ─百合乃は市蔵に執着する。

市蔵が醜い容貌をしていればいるほど、自己犠牲の程度は高まり、そして前述の思考原理により、心は満たされていく。これはシスター達の会話にもある通りである。

言ってしまえば、市蔵は百合乃にとって、試練を与えてくれ、高みへと至らせてくれる「神」(の代行者)なのであった

 

神様だって楽じゃない

彼女の「神」であり続けるためには、彼女に試練を与え続けなければならない。 彼女を痛め付け続けなければならない。翻ってTRUE ENDの市蔵にはそれが出来なかった。耐え切れなかった。彼女のことを真に愛してしまった。だからこそ、彼女の「神」の役を降りたのだ。しかし、それ故に百合乃は自らを火刑に処することで自ら「神」の御許を目指した。

市蔵(独白)「俺は頭のどこかで、この光景を当たり前のように感じていた。百合乃はいつか必ずこの光景へと帰着するはずだったのだという確信だった」

 

「神」を持つ百合乃は、目指す場所があり、ただ目指し続けた。

「神」を持たない市蔵は、目指す場所もなく、ただ彷徨い続けた。

だから、いつかどこかで彼は彼女に取り残される運命にあった。

そんな物語だと思いました。

 

 2.柘榴TRUE ~女はこの世の底から、その瞳に天を映す~

あらすじ

市蔵は小梅を売ることで柘榴をマスカレヱドから救い出し、満州に逃げる。しかし、満州での生活は上手くいかず、市蔵は喀血するほどに体を悪くする。柘榴は市蔵の薬を買うために日本兵に身体を売るが、それを見ていた市蔵は激しく悲しみ、柘榴を本当に愛しているのだと気が付く。そして明くる日、市蔵は柘榴と二人でソリに乗り北へと向かった。そのとき、柘榴は初めて寒いという感覚を得る。それは、痛覚以外で初めて感じる感覚だった。

「北見さん……わたしは許されたのでしょうか?」

 

痛いから、自分はここにいる

SMノベルの名の通り、柘榴も被虐的心理を持ち合わせているのだが、なぜ彼女はマゾヒストになったのか。それについてまず考えたい。

柘榴は生まれつき痛覚以外の感覚を持たなかったため、外界からの刺激をほとんど受けずに育ってきた。刺激なくしては記憶も残らず、最も古い記憶は背中に刺青を彫られた時の思い出である。彼女はそれについてこう語る。

柘榴(独白)「それは想像を越える激痛でした。一つ傷付けられる度に焼けるような痛みが背中一面に広がるのです。普段感覚を失っている肌が一気に燃え上がったのです」

(中略)

柘榴(独白)「わたしにとってもこの苦痛は、生きていることの証となりつつありました。男の刃が背を切り突くたび、わたしの虚ろな肌はわななき、生命を得たのです」

人は生まれると外界や自己(手指など)との接触を試み、その中で外界と自己の境界を見定めて、自己を確立すると言う。

「手の指」を「口」の中に入れる。なんか感じる。これは「自分」だ。「足の指」を「口」の中に入れる。なんか感じる。これは「自分」だ。「ぬいぐるみ」を「自分の手」で触る。なにも感じない。これは「自分」じゃない。

一方、感覚を持たない柘榴は少女になって初めて、「自分」を見つけた。痛ければ「自分」、痛くなければ「自分」じゃない。痛覚は自分と外の世界を繋ぎとめる唯一の感覚(視覚・聴覚などを除く)だった。

だからこそ、彼女は苦痛を「生きていることの証」だと思う。こうして、彼女は苦痛を求めるマゾヒストになった。同じマゾヒズムでも、百合乃とはまた違う心理状態である。

 

天地開闢

心理の追究はここまでにしておいて、物語に目を移そう。TRUE ENDの話。

柘榴は日本兵に犯され、市蔵はそれを見て嘆く。二人はその帰り道、夜更けに雪道を歩きながら次の会話をする。

市蔵「俺は今夜、本当にお前を愛しているのが判った。これ以上、お前を苦しめるわけにはいかない」

柘榴「苦しいとは思いません、わたしは幸福です」

(中略)

市蔵「ああ、これでようやく、お前と一緒に堕ちられる」

市蔵、冷えた柘榴の手を握り締める。

柘榴「(呟き)いいえ、もうわたしたちは堕ちているのではなく──」

ここでこの台詞は終わるので、予測することしか出来ないが、続きとして考えられるのは次の二つ。

①(もう堕ちているのではなく、)既に堕ち切っている。

②(もう堕ちているのではなく、)既に昇り始めている。

このうち、柘榴の人物紹介である「女はこの世の底から、その瞳(め)に天を映す」を考慮すれば、①が最も考えられる解釈である。堕ち切らなければ、「この世の底」とは言えないからだ。

また、北へ向かっている最中にこのような描写が出てくる。

高く蒼い空を背に、立つ柘榴。乾いた風が細い髪の房を揺らしている。遠く果て無き地平線を眺め、美しいと言う。

これが「その瞳(め)に天を映す」に対応する描写だとするならば、綺麗に解釈出来る。CGも、柘榴の立っている「地」=「この世の底」とその瞳に映る「天」以外を描かずに両者を対比させるようなものになっている。

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菩薩と救済

その凛とした柘榴の姿を見て、市蔵は「菩薩か──」と声を漏らす。おそらくCGも「菩薩」を意識して描いている。例えば、下の文殊菩薩の絵を見ていただきたい。

顔・体の角度、手の位置、服のなびき方などがほぼ一致している。これは偶然ではないだろう。

ちなみに、「菩薩」とは仏教用語で、仏(如来)に成ることを目的に修行する者のことを指す。もっと狭い意味で言えば、自ら修行しながら民衆を正しい仏道へ導く行者(えらい)のことを指すらしい。

 

この世のどん底まで堕ちた柘榴は、天を見上げる。その姿は菩薩のようで、神々しかった。その瞬間、柘榴は初めて寒さを知る。

柘榴「とても寒いですね……」

柘榴は髪を押さえながら、ふるりと身体を震わせた。

市蔵「柘榴……お前……寒さが?」

柘榴「あ……」

市蔵に言われ、柘榴も初めて気づく。自らの頬を指先で確かめる。

市蔵「……柘榴」

柘榴「ああ……」

市蔵、ふらふらと立ち上がり、柘榴にそっと手を差し出す。柘榴は手に触れると、両手で包み込む。そして市蔵の手の温かさをじっくりと味わい、溜息のような呟きを漏らした。

(中略)

柘榴「北見さん……わたしは許されたのでしょうか?」

このとき、痛覚以外感じない自分を欠陥品であり、罰を受け続ける存在であると思い続けてきた柘榴は許された。「菩薩」は救済されたのだ。

 

物語はあくまで物語、現実はあくまで現実

ここまで書いてきて分かったことだが、この物語を「どこまでもボロボロになったときに、初めて世界は真の姿を現し、そして許される(救われる)」というテーマまで還元すると、よく見かけるものになる。昔も似たような記事を書いた。

paca-no-haca.hatenablog.com

 

多分僕が柘榴TRUE ENDを好きなのは、このテーマが好きだからなのだろう。

必ずどこかに真理(宗教的に言えば救い)があり、逆に真理はそこにしか存在しない。ホンモノはほんの僅かであって、数多に存在しないからだ。僕はそう信じている。

これは宗教なのだろうか。ホンモノへ至るための道の存在を願うのは、宗教なのだろうか。僕は神というものを信じないと決めているが、この気持ちはそれと矛盾するのだろうか。

 ……みたいなことを思いました。単純に「救い」や「真理」という言葉の響きが好きなだけかもしれないけど。物語と現実がゴチャ混ぜになって、区別がつかなくなって、物語の美しさだけで考えているのかもしれない。

それを判断するには、今の僕は幼稚すぎてまだ分からない。

 

3.小梅終章 ~光なき盲の少女が、すべてを照らす~

あらすじ

4人の攻略可能なヒロイン─百合乃、柘榴、翠子、ローザ─の終章を全て読むと、1人の攻略不可能なヒロイン─小梅─の終章が開放される。全て彼女の独白・手記で構成される。

彼女は市蔵の身の回りの世話をする従順な盲目の侍女であり、日常の象徴として描かれる。自分の醜い容貌がコンプレックスである市蔵も、彼女が盲目だからこそ側に置いておける。

しかし、完全な盲目ではなく、重度の弱視であることが、彼女の独白により明らかになる。

「どんなことも全て見えないフリをする……盲目であることは、わたくしの護りなのでありました──」

彼女は、彼が醜い容貌をしていることも、いかがわしい小説を書いていることも、怪しい集会に参加していることも、全て知っていた。知っていても、彼を蔑むようなことはなかったし、むしろ彼は蔑まれるような対象ではなく純粋でさえあったと語る。

そして、自分は市蔵の腹違いの妹であったと明かす。市蔵の父親である古河宗吉と使用人の間にできたのが小梅だったのだ。

「あの方はわたくしの大切な、大切な、お兄様で御座いましたから──」

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そもそもどの世界線?

この小梅終章は一体どの世界線の話なのか、という問題は結構難しい。というのも、次のような独白があるからだ。

あのお方のお心をお護りしたかったのです。そのためにならわたくしは、何でも出来るつもりで御座いました。

あのおぞましい舞台に引き上げられましたときにも──

見知らぬ男に抱かれましたときにも──

無慈悲な爪に傷つけられましたときにも──

ですが、ですが、あの方の望むことならばと耐えました。

・「おぞましい舞台に引き上げられ」るのは、柘榴五章(地を這うものEND)

・「見知らぬ男に抱かれ」るのは、柘榴5章(氷の涯END)

・「無慈悲な爪に傷つけられ」るのは、翠子・ローザ五章(廃人END)

であり、どれも違う世界線だ。つまり、この小梅終章の小梅は、これまで見てきた世界線のどれかの延長線上にいる小梅ではなく、また、これまで見てきた世界線を複数に跨いだ記憶を持ち合わせている小梅である、ということになる。どういうこった?

 

とりあえず困ったら

ノベルゲーム的定石に則れば、まずはメタ視点を考える。

「実はこれまでのお話は全部、市蔵や小梅の妄想(だったり市蔵が作った演劇だったり)の中のお話でした~」と考えるとどうだろうか。

これは上手くいかない。なぜならば、小梅自身がまるで体験したかのように話している時点で、それらは実際に起きた出来事であると考えられるからだ。自分が登場する物語を読んだからといって、物語の出来事を取り上げて「私の人生にはこんなことがありました」と言う人間がいるだろうか。それこそ物語と現実の区別がつけられなくなっている。

次に思いつくのは「精神集合体・小梅は任意の世界線上に遍在しており、他の世界線で見た出来事もまるで自分の出来事かのように思える」というSF的設定である。

確かにそれはそれで面白いかもしれないが、大正・昭和の雰囲気にいきなりユビキタスな話を突っ込んでくるのは流石に場違いだ。袴ブーツ姿でタイムマシンをビュンビュン乗り回して「あらいけない、急いで世界線ε-17-aに戻らなくては怒られてしまうわ、ハンケチはまた今度お返しいたしますわね、ごめんあそばせ」と慌てる少女など見たことがない。正気か?

 

究極のメタ視点

メタ視点を取り入れないとおかしい、メタ視点を取り入れてもおかしい、という大変な状態になってしまった。であれば、なるべくとりたくはないが、最終手段である「作者のミス」の可能性を考慮しなければならない。つまり、作者はただ「小梅は市蔵の異常性癖のために、これまで色々な苦労をしてきたんだよ」ということを言いたかったのではないだろうか。その際に、別の世界線の小梅のSM苦労話を引用してきてしまった。そう解釈するのが一番妥当であるように思う。

だから、物語を勝手にこちらで修正すると、以下のようになる。

「小梅終章における世界線では、市蔵はたくさん小梅に迷惑をかけるものの、攻略可能ヒロインの四人と誰ともくっついて破滅することなく、結局病気で孤独に亡くなった。小梅はその死後にこの手記を書いている。そしてまさに今、小梅も病気で亡くなろうとしている。」

こうすれば、以下の小梅の独白とも整合性がとれてスッキリする。

長い無理が祟りましたのか、市蔵様は三十を越しました辺りで病床へ伏せるようになっておりました。奇しくも二人きりで、静かに住み、尽くしたいというわたくしの願いは、悲しい形で叶えられてしまいました。

このように考えれば、小梅終章は、これまでのシナリオとある程度独立した世界線の話であり、別に他の世界線の延長線上にあるとかシナリオの総決算になるとかそういうわけではない。小梅が初めて自ら主人公として舞台に上り、心中を語り、そして舞台から下りる。そういう話として捉えられる。

ただ読者から作品に手を加えるのは御法度かもしれないので、これは次善案として提示しておく。最善案の席はいまだに空いている。

 

答えの無い謎

小梅終章にはもう一つ小さな謎が残されている。それは小梅の手記の最後の頁にある。

「このようなものを戯れのように書き連ねておりますのは、誰に読んで頂きたいからでも御座いません。強いて言えば、わたくし自身のために──

一人きりになりましてから、ずっと胸に抱えてきましたことを、最後にもう一度見つめなおしてみたい想いからで御座いました。この人生もどこかでは、必ず無駄でなかったと確認出来るのではないかと、思い出にすがり──

ですが……ここまで書き進めて参りますうちに、どこか気持ちが変わってきたようにも思います。

人が与えられた最高の恵みとは──」

小梅、穏やかな表情で目を閉じている。指からするりとペンが抜けて、床に落ちる。しかし小梅の反応はない。

 この直後、つまり死ぬ寸前の小梅の心中も引用する。

「けれども……こうして光の中におりますと、今までありましたすべての事柄が、夢まぼろしのようでございます。よろこびもかなしみもすべては光に溶けて消えてゆくようです。

忘却……それは最後にわたしに与えられた神の恩寵なのでしょう。ああ、白い光がわたしを包んでくれるように感じます。それはおだやかにゆるやかに……」

小梅は今際の際に何を思ったのか。「人が与えられた最高の恵み」とは何か。この部分だけでは判断できないし、作品全体を見渡しても判断できない。その真意は読者に委ねられている。(昔はこういうのを見たら「は?丸投げじゃん」と思っていたのだろうが、今はこういう思わせぶりな終わり方もアリかなと思う。)

 

こうして"懐古調SMノベル"は終幕を迎えるわけだが、これまで4人の歪な女性たちに主人ともども引っ掻き回されていた、1人の真っ直ぐな少女が初めて表に立ち、凡庸に、哀しく、しかし穏やかに余生を過ごすエンディングを最後に持ってくることで、全体として収まりのいいゲームになったのではないかと思う。

 

4.雑感 ~僕はオタクじゃないよ~

あとは雑多な感想です。話題はあっちこっちに飛びます。

・タイトルである「僕は天使じゃないよ」は、シスターである百合乃に崇拝される市蔵の気持ちを指している。作中でも「僕はどうしようもない人間なのです。気味が思っているような『優しいおじ様』なんかではありません。それどころか、世間様に知れたら、罵倒され軽蔑されるような、妙な性癖の持ち主なのです」と百合乃に手紙を書いている。おそらく他の√ではこのタイトルは深い意味を持たない。だから、これはゲームのタイトル、というよりも百合乃√のタイトルと言った方がいいかもしれない。

・公式サイトのトップには以下の謳い文句が掲げられている。

所詮世間は舞台に過ぎぬ。

そうだ、お前もなにかの役を演じずにはおれぬ。

精々歌うがいい、踊るがいい──この物語に端役はおらぬ。

「舞台」を意識していることに疑いようはない。実際に、全体を通じて演劇の台本チックなテキストになっていた。主要人物以外は名前を用意せずに、古美術商・編集者・客・官憲・シスターなど集合名詞を使っているのもわざとだろう。

このキャッチコピーを見ると、「ん、『世間は舞台』?メタ視点で攻めてくるか?」と穿った見方をしてしまいそうだが、ここにそれほど深い意味は込められていないと思う。少なくとも、登場人物たちは自らを舞台の上の登場人物だと気づいてはいない。

・翠子√は全体の設定を理解する上で一番重要である。翠子とは一体何者か。古河家とはどういう関わりがあるのか。そもそもなぜ古河家と関わっているのか。ローザとはどういう関係か。ローザ・翠子√の廃人ENDで突然出てくる絹江とは誰か。柘榴√の地を這うものENDで翠子と話している「男」とは誰か。などなど。

・ローザ√では、ローザの話を「信じる」or「信じない」のどちらかを選ぶ選択肢が4回も出てくる。そのくせ、これはシナリオの分岐にまったく関係しない。で、終章でローザの頭のネジが外れる原因になった、親殺しの話が出てくるのだが、最後に突然ローザが出てきて「信じる?信じない?」で終わる。

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うわーその終わり方はずるいなぁと思いながら読んでいた。ローザの無邪気さと邪悪さと掴み所の無さが滲み出るようなエンディングで良かったと思います。

・主人公はSMに固執している、という設定なのだが、そこまで強い欲望を感じられなかった。偏執狂というのは、欲望が胸の内に沸き立って、いてもたってもいられない人のことを指す。百合乃以外のヒロインの√に入ると、途端にSMに対する執着心がなくなる主人公は、偏執狂ではない。ただのSM好きだ。「SMノベル」を謳っている以上、もう少しそこらへんの葛藤などを上手に描いて欲しかった。

・「大正昭和の不安定な時世において、人々の中に集団的に生まれる狂気・妄執・異常心理」というテーマや雰囲気が谷川潤一郎の作品を想起させた。実際、柘榴終章で柘榴が刺青を彫られる話は『刺青』を参考にしている。ただこちらは、刺青が竜ではなく蜘蛛であり、彫師は死なないし、女郎は男を虜にする魔性の女になる、など違う点も多いので、物語とは直接関係ないと思われる。

・音楽が雰囲気に合っていて、非常に良かった。柘榴√の氷の涯ENDで「北へ」が流れ出した瞬間に背筋がゾクッとした。本当に良かった……。

・どうやら「氷の涯」という言葉は夢野久作の小説を参考にしているようだ。その舞台はハルピンであり、柘榴TRUEの舞台が満州であることと一致する。ただ、僕は読んだことがないので、内容まで参考にしているかは分からない。

 

以上です。短くまとめると、好きでした。