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墓の中

発言の無矛盾を目指します

人間という多面体

「なにもかも真実さ。これまでにあらゆる人間の考えたなにもかもが真実なんだ」

フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(浅倉久志・訳)

 

中学か高校のことかもう忘れてしまったが、森達也の「真実はひとつじゃない」という評論を授業で読んだことを覚えている。かなり有名なので、ご存知の方も多いと思う。その文章の(少なくとも授業で読んだ範囲における)要旨は、「事実(事象)は一つしかありえないが、真実はその事実を見る視点によって異なってくるので、決して一つに限られるものではない。事実は多面体のようなものをしており、各々の真実はその一側面しか映し出さないのだ」といったようなものである。

「真実は人によって違ってくるんだ」みたいな主張は、度が過ぎると変に相対主義に偏ってしまう為、適切に扱わなければならないが、それでもやはりここで述べられていることは今も度々思い出すくらいに印象深く残っている。

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先日、G・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』(野谷文昭・訳)という中篇小説を読んだ(以下、『記録』と略する)。ガルシア=マルケスはコロンビアの作家で、1982年にノーベル文学賞を受賞しており、この中篇小説を自身の最高作であると述べている(が、僕は彼の作品を他に読んだことがないので、比較することはできない。『百年の孤独』『族長の秋』などが有名なようだ)。

ガルシア=マルケスはその出身故に、作品の舞台の多くはラテンアメリカ中南米)であり、その文化・社会が濃厚に描かれている。実際に、彼のノーベル賞受賞理由は「現実的なものと幻想的なものとを融合させて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する豊かな想像力の世界を構築した」となっている。例えば今回読んだ『記録』であれば、処女信仰や、名誉の為の仇討ち、母系制社会など、他にも単語化することの出来ない"異国"の雰囲気を感じられた。

 

さて、『記録』という"多面体"の全貌をいきなり捉えようとするのは困難であるので、その"一側面"である「特徴的な記述方法」に限って見ていきたい。これについて語れば、なぜ突然初めに「事実」と「真実」の話を持ち出してきたか分かるだろう。

この小説は、サンティアゴ・ナサールという男が殺された殺人事件と、その原因・結末を描いている。これだけ聞くとミステリのようだが、そうではない。(念のため定義しておくと、僕の中で「ミステリ」とは「作品内の探偵役が能動的に謎を解明しようと試みる作品」のことである。)読み進めるとすぐに、犯人の正体もビカリオ兄弟と呼ばれる二人の人物であると明らかになる。しかし、最初らへんを読んでも「サンティアゴ・ナサールと呼ばれる男がビカリオ兄弟に殺される」という事実以外、どんな状況で殺されたのかとか、どんな因縁があったのかとか、読者が知りたい情報がほとんど分からない。

そんな状況でガルシア=マルケスはどのように小説を描いていったのか。

 

まず、この『記録』は主に色々な人の証言でほぼ成り立っており、「『〇〇』と、□□は言った。」という形式で話が進んでいく。つまり、ほとんど主観的な内容であり、客観的な記述はかなり少ない。「事実」の記載ではなく、各々の「真実」が記載され続けているのだ。読者はこの「真実」の束から「事実」を見出す必要がある。

このような描き方は今となっては「ザッピング」や「マルチサイト」などと呼ばれるように有り触れたものである。しかし、ガルシア=マルケスは更に一手間も二手間も掛けた。

『記録』は140ページほどだが、30ページの時点で事件が発生する。それじゃ31ページからは真相の追及が始まるのかなと思いきや、なんかよく分からないがまた過去に戻って事件が起きるまでを書き始める。このように、何度も時間軸が事件前に戻ったり事件後に進んだりしながら、証言という「真実」が集められていく。

しかも、人の証言で成立している以上、その発言の中でも現在と過去を行ったり来たりする。これは何も読者の攪乱の為ではない(結果的にある程度攪乱させられてしまうのだが)。最終的に、事件に関連する各々の「真実」を何重にも丁寧に重ね塗りすることによって、重層的な「事実」が自ずから現れてくるのだ。それは、プリンターで印刷した写真ではなく、点描したモザイク画のように読者の前に呈示される。

勿論、技法が何であれ、その結果出来上がるものの質が一番重要である。そして、『記録』は巧妙に作られていて、途中まで何が現れるのか分からなかったが、読んでいくにつれて、いつのまにか何が起きているのか何となく分かるようになっていた。ネタを明かすことで突然に出来事が分かるのではなく、連続的に分かっていくように物語を描くのは中々簡単に出来ることではない。

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複数の「真実」によって「事実」を組み立てていく、という構造は、興味深い物語を生み出すことが多い。「事実vs真実」という話題下では、芥川龍之介の「藪の中」がよく俎上に上がるが、これは、複数の「真実」によって「事実」が段々と把握困難なものになっていく、という逆の構造をとっているので、今回のテーマとは少し外れる。

ノベルゲームだと、『暗い部屋』(暗い部屋制作委員会)が『記録』によく似た記述形式をとっている。物語そのものの雰囲気だけでなく、複数の人間の語りによって、過去を明らかにしつつ未来に向かって物語が進んでいく様子にも、心が惹かれた。

また、今回もう一つ取り上げたいノベルゲームは『ファタモルガーナの館』シリーズ(Novectacle)である。この作品は非常に評価が高く、そして僕もかなり好きなのだが、その理由の一つとして、別の「真実」によってこれまでの「事実」が一変する、という構造を巧みに取り入れている事が挙げられる。つまり、キャラクターや出来事に対する第一印象が最終的にはガラリと変わってしまうのである。善人にも悪い面はあるし、悪人にも善い面がある。現実には聖人君子や極悪非道の大罪人など滅多にいないのだ。

 

出来事は色んな方向から観測されることで物語となるように、キャラクターは色んな方向から何重にも塗りたくられることで一歩また一歩と人間に近付いていくのだろう。いわゆる「人間味」とは、複数の側面を持つということを、その意味の中に含むのかもしれない。