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墓の中

発言の無矛盾を目指します

案ずるより産むは難し

 SNSにおけるチャットや自分しか読まない日記などは別として、文章を書くことの主な目的は、誰かに何かを伝えることである。しかし、知り合いや友人などはともかく、赤の他人にその文章を読んでもらうのは、その人の時間、ひいては自由をその分だけ奪うことである。これは無条件に要求出来ることではない。読み手を一定時間拘束する交換条件として、書き手は、文章の内容に責任を負う覚悟を持ち、文章の質を上げる努力をしなければならない。その覚悟や努力もなしに一方的に読んで欲しいと望むのは烏滸がましい。文章を書くのに文法・語法以上の作法は無いが、文章を読ませるのにはより高度な作法が要求されるだろう。

 今回は、特に批評のおける作法について、述べていきたい。僕は文章家ではなく、まともに書いた文章など僅かしかないが、何かを発信するときは常に、発信者としての義務を意識しているつもりである。

 また、あらかじめ述べておくが、以下で述べていく"作法"は当たり前なことであり、そして綺麗ごとである。「世界中から戦争を無くすべきだ」といった主張のようなものである。僕自身がこの"作法"を守れているかどうか怪しい。しかし、守ろうと努力はしている。

 批評に限らず、文章を読ませる際に要求される"作法"を一言でまとめると、「正確に、分かりやすく、印象に残りやすいように、書く」であると僕は考える。前にあるほど根本的であり重要である。そして、後ろに行くほど難しい。

 もちろん、この”作法”が絶対的であるとは僕も考えてはいない。例えば、次のような意見がある。

正確・平易でかつ論理的な文章は「良い文章」であるという命題は、他者に伝達すべきコンテンツを最初からかなり限定したときにのみ真である。逆にいえば、およそ文章は常に正確・平易でなければならないと考えるならば、私たちが言葉と文章をもって表現したいと考える内容の豊かさを無視することになる

─井田良『法を学ぶひとのための文章作法』「文章というものを考える」

  確かに、「正確に、分かりやすく、書く」ということはその分豊かさを失うことになる。広がりを持たない文章に魅力は無いだろう。しかし、まずは基本を忠実にするべきではないだろうか。きちんと正確・平易な文章を書けるようになってから、「正確さ」や「分かりやすさ」に加えて、「印象の深さ」を求めるべきではないだろうか。少なくとも不正確で分かりにくい文章に、僕は魅力を感じない(印象には残るかもしれないが)。

 だからこそ、印象に残りやすいように意図して書くことが出来たら一流の文章家と言えるかもしれない。僕にそこまでの自信はないので、今回は基本的な「正確さ」「分かりやすさ」に限って述べていきたい。なお、「正確さ」の項目での「文章」は批評における文章を、「分かりやすさ」の項目での「文章」は任意の文章を、表すことにする。 「分かりやすさ」についてはほぼ国語の授業と化しているので、「正確さ」についてだけ読んでいただければ十分である。

 

◎正確さ

 全ての文章は正確でなければならない。正確であることは文章である為の必要条件である。「正確であること」とは、つまり「論理的に矛盾のないこと」である。ここでの「論理」とは論理学で言われるような厳密な「論理」ではない。

 推論は演繹的推論と帰納的推論の二つに分類される。流石に用語の説明は不要だろうから、それぞれの比較だけしておく。前者は厳密に論理として正しいが、その代わり情報は増えない(換言することしか出来ない)。一方、後者は論理として不備は残るものの、新しい情報を生み出すことが出来る。上記の「論理的に矛盾のないこと」とは「推論として妥当であること」とも言える。(軽く流してしまうが、実際はどの程度まで妥当と言えるかは主観に依存しており、その見極めは難しい。)

 さて、批評とは「無から有を生み出す」ことではない。何かを参照し、その「何か」を前提として、自分の考察を述べることである。いわば、「有から別の有を生み出す」ことである。「別の有」を生み出す以上、上で述べた帰納的推論が行われる必要がある。批評とは帰納的推論の積み重ねである。

 故に、必然的に導かれることが二つある。一つ目は「批評する為には、前提を明らかにしなければならない」ということである。前提の無い推論は有り得ない。(論理学的には実は有り得る。例えば、「AはBであるか、もしくはBでない」という推論は前提無しに導ける。)この「前提」を明らかにする作業の最たるものが、引用である。だから、最も簡単な批評の構造は「引用→解釈→考察」という形になる。ここでは、ただ「解釈」とだけ書いたが、例えばそれは文自体の解釈だったり、文同士の比較であったり、多岐にわたる。

 世間に流布している常識を前提とする際には、わざわざ論拠を述べずに「一般的に、〇〇である」と言っても問題は無いが、本当にそれが一般的であるかどうかは常に自問自答し続ける必要があるだろう。一方、自分の感性のみに依る意見を述べるのであれば、「僕は〇〇だと思う」などと、その旨を明らかにした方が良い。

 二つ目は「批評には、論理の"飛躍"が必ず存在する」ということである。帰納的推論は新しい物を生む代償に、論理的欠陥を生む。その”飛躍”の大きさ(これも見極めるのが難しいのだが)に応じて、「〇〇である」「〇〇と考えられる」「〇〇である可能性がある」など言葉を選ぶべきだろう。ただ、僕は、全ての主張で「〇〇である可能性もあるかもしれない」のように予防線を張り過ぎていると、興が醒めてしまうように感じるので、なるべく断定できるところは「〇〇である」という断定口調を使うようにしている。

 一つ目の「批評するには前提が必要である」ということが意外と世間では軽視されているのではないかと思う。自分の意見だけを連ねるのは感想であり、批評ではない。(もちろん、この発言は感想を貶めるものではない。ただ二つを峻別する必要を促しているだけである。)繰り返すが、誰かに読んでもらう事を意図して批評を世に出すのであれば、そこには一定の責任が発生する。その責任の最たるものが、「そう発言する論拠を引用等で明らかにして、正確さを求める姿勢を見せるべきだ」というものである。世間はアカデミアではないから、引用ほどカッチリしていなくても良い。(大体引用するのは手間がかかって面倒くさい。)ただ作品内のどの部分を指して発言しているのかはっきりさせておくのは最低限の礼儀だろう。批評とは自分の哲学を片っ端から相手に投げつける場ではない。

 引用の必要性を述べた手前、一応一つだけ文を引用しておこう。

具体例のあげられない概念や理論は、空虚である。

 

─吉田民人・編『社会学の理論でとく現代のしくみ』

  吉田氏は著名な社会学者であり、社会学を研究するにあたり、机上の理論に社会を当てはめていくのではなく、社会の具体的な現象を礎にして理論を構築するのを良しとした。これは社会学の研究だけでなく、多くのこと(ここでは作品に対する批評)にも当てはまる信念ではないだろうか。はじめに具体ありき、である。作品の具体的な部分を礎にして、初めて作品(群)に対する批評となる。

 

 ◎分かりやすさ

 「正確である」という文章の第一条件を突破したら、次は、その文章の内容を上手く分かりやすく伝えたい、という方向に意識が向く。ここで、「分かりやすいことが本当に良いことなのか」問題について、少しだけ触れておく。以下は哲学者の永井均氏のTwitterからの引用である。

  この意見は、記事の冒頭で述べた、「正確・平易であることだけが全てではない」といった井田氏の意見に通ずるものがある。なるほど、例えば「□時間で分かる〇〇」シリーズなどは、色々と削って分かりやすい部分だけ抜き出してきてるから、それを読んで分かりやすいと思うのは当たり前の事であって、それを読んだところで〇〇についてはちっとも分かっていないことになる、ということだろう。勿論、「□時間で分かる〇〇」のように、タイトルだけで内容が薄っぺらいと分かってしまう本に限らず、分かりにくい部分をわざと省略したり、不正確に分かりやすくしたりするする本は巷に溢れている。

 しかし、僕がここで「分かりやすさ」に求めているのはそのように「正確さを失ってまで分かりやすくする」ことではなく、「正確である上で、なるべく分かりやすくする」ことである。「正確さ」は「分かりやすさ」より上位にある。

 

 さて、分かりやすい文章の書き方について包括的に説明することは出来ないが、僕が意識していることを幾つか述べたい。便宜上①文内のレベル②文同士のレベル③文章同士のレベル、の3つに分類して話を進める。総括出来ない以上、箇条書きの傾向が強くなってしまう。

 国語の授業などで何度も言われてきたことが多く、耳のタコが疼くかもしれないが、ご了承いただきたい。最初に述べたとおり、この”作法”は当たり前であり、綺麗ごとである。

 

①文内のレベル

そもそも文の形は正しいか:主語は正しいか、受動態と能動態が入り混じってないか、など。一番基本的な話。これは「分かりやすさ」よりむしろ「正確さ」に関わってくる。

読点、句点の位置は適切か:読点も文の読みやすさに多少関わってくるが、どちらかといえば、読点よりも句点の方が重要かもしれない。例えば、長すぎる文は、一文一義の短文に分割したりすることで、読みやすいように改善する、などが挙げられる。

助詞は何を選択するか:「は」と「が」の選択、「ため」と「から」の選択、など。添削などの特殊な状況を除き、これは多分書いている本人くらいしか気にしないので無視しても良いかもしれない。

単語は何を選択するか:その単語の語義が文脈と矛盾していないことの確認はもちろん、他により適切な単語はないか考える。また、解釈が難しいかもしれない単語はなるべく正確に言い換えを行う。

指示語は何を指しているか:「これ」や「それ」の指している対象がはっきりと分かるかどうか確認する。もし、分かりづらければ、「この『〇〇』」や「その『□□』」と明示する。

 

②文同士のレベル

文の間で矛盾がないか:これも「分かりやすさ」ではなく「正確さ」に相当するかもしれない。行が近い文同士で矛盾が生じることはほぼ無いが、少し行が離れると文同士で微妙に矛盾が生じていることがたまにある。これは用語の定義に注意していないと生じやすい。例えば、今回の記事であれば、「文章を書く」ことと、「文章を読ませる」ことははっきりと区別しているので、これをゴチャ混ぜにすると矛盾が生じてしまう。

接続詞を入れるか否か:接続詞なしで文がいくつも続く文章は、読む側だけでなく書く側も精神が削られる。だが、全ての文が前後と丁寧に接続されているわけではないし、同じ接続詞(例えば「しかし」や「よって」など)が連続すると文章として見栄えが悪くなる。よって、接続詞を入れるか否かはその都度選択しなければならないし、場合によっては、文を入れ替えたり、書き換えたりする必要が出てくる。

換言の重要性:誰かに何かを伝えるためには一度だけでなく何度も主張を繰り返さなければならない。ただし、同じ文を何度も繰り返すのでは読み手も鬱陶しく感じてしまうので、一見同じ内容の文に見えないように言い換えて、ギリギリ鬱陶しく感じないレベルで繰り返す必要がある。

例示の重要性:分かりやすくするためには例を挙げることが有効である。ただし、その例が適切かどうか、文意に外れない例であるかどうかをきちんと確認する。もし、少し文意から外れるようであれば、その旨をきちんと述べておく。永井氏の指摘の通り、例示は分かりやすい一方、正確さが落ちてしまう可能性が高いので、注意が必要なのである。

 

③文章同士のレベル

 章を幾つか重ねる場合のはなし。

章内の構造をはっきりさせる:一番単純かつ分かりやすい構造は「テーマの提示→議論→まとめ」である。最初にこの章では何について議論するのかあらかじめ提示しておき、最後に議論を要約して再び整理する、というサンドイッチ形式である。他にも様々な形式をとれるだろうが、章内でテーマは一貫させておいた方が分かりやすい。

章同士の繋がりを明確にする:章の間で何の絡みも無いまま、議論が独立で進むよりは、それぞれの章にどのようなテーマがあり、それらがどのように呼応しあっているか述べる方が、全体の構造を掴みやすい。例えば、1章、2章の内容を3章で使ったり、1章と2章の内容が対比になっていたりするとより良い。(正直そこまで綺麗に繋げることは難しいけれど、多少他の章と関連させるだけでも感じ方は違ってくるように思う。)

 

 以上が、「分かりやすさ」を求めるときに、僕がいつも意識していることの羅列である。意識は出来ても、実行出来るかは別問題であるが、意識しておくに越したことはないだろう。ただこれだけは確実に言える。それは、いくら分かりやすく書いた(と書き手は思っていた)としても、前提知識の有無や価値観の相違などから、正確に内容の伝わらない事が多々ある、ということである。むしろ完全に正確に伝えるのは無理だと考えるべきであって、書く側に出来るのはなるべく多くのことを正確に読み取ってもらえるように努力し祈ることしかない。

 

 

 突然、国語教師みたいに文章の書き方について声高らかに講釈し始めてしまったが、最近正確に文章を書くだけでもひどく難しいことだと認識し始め、一度ここらで気付けの為に文章の書き方について自分の考えを纏めておこうと思ったのが所以である。 

 「案ずるより産むが易し」とはよく言うが、あれは常に成り立つわけではないらしい。少なくとも文章を書く事について、「産む」のは「案ずる」のより遥かに難しい。いつか「案ずる」ことが出来たら、すぐに「産む」ことの出来るような文章力を持てるようになるまで、ちまちま邁進(語義矛盾)していきたい。以上です。