墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

紙の表と裏は紙一重

人生を幸福にする為には?ーーしかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。

芥川龍之介「瑣事」

 

サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』をプレイした。以前も記事に書いた『素晴らしき日々 〜不連続存在〜』と同ブランドの作品である。

とても良かった。とても良かったので、どうしようもなかった。どうしようもなかったので、プレイ直後に部屋を飛び出した。

どうしようもないときの感情表現を、部屋を飛び出す以外に知らないまま、20代になってしまった。深夜徘徊してようやく落ち着いたので、他の感情表現として感想を書こうと思い至った。

今は眠いので多分この記事が形になるのは明日になるかもしれないが、とりあえず書き進めることにする。

なお、この感想はネタバレを含むが、ネタバレというほどのネタバレは無いし、ネタバレを気にしないのであれば作品をプレイしなくても読める内容だと思う。

 

さて、素晴らしき日々のキャッチコピーが「幸福に生きよ!」であったのに対して、サクラノ詩のキャッチコピーは「幸福の先への物語」 であった。

この記事では一体「幸福の先」とは何だったのかについて論じたい。

良い部分は他にもある(むしろ他にあると言いたい)が、このゲームを語るのにこの話は避けて通れないだろう。

 

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僕はハッピーエンドというものがそんなに好きではない。というのも全てが上手くハッピーに終わるはずなどないからだ。

もし全てが上手くハッピーに終わっているように見えるならば、それはハッピーでない部分を隠して、みんなで「(多少例外もあるけど全体的に)みんなハッピーに終わって良かった良かった!」と口裏を合わせているに過ぎない。

平たく言えば、押し付けがましさがあるのだ。「みんな幸せ」ってなんだ?幸せは個人のものではないのか?少なくとも集団の幸せは個人の幸せに還元されるのではないのか?というか「みんな幸せ」なんて言ってくるお前は誰だ?

 

……などと思ってしまう。僕は集団を過度に嫌うので、どうしても話が個人主義になってしまうのはご容赦いただきたい。

(ちなみに、ここでの個人主義は、狭義の自己中心主義とは異なる。前者は「お前のモノはお前のモノ、俺のモノは俺のモノ」、後者は「お前のモノは俺のモノ、俺のモノも俺のモノ」である。よって、僕は「お前のモノはみんなのモノ、俺のモノもみんなのモノ」を嫌う。)

この感情を端的に表した場面が(サクラノ詩ではなく他のゲームに)あって、とても気に入っているので引用しておく。

 

「僕も……そうだな。大団円って、わかる?映画とかで、最後みんなが登場して、みんながハッピーになって終わる、みたいな」
「うん。わかるよ」
「あれがちょっと苦手なんだ。だって、そうして喜んでる奴のなかにも一人くらい、本当は輪に馴染めてないやつがいるんじゃないかって。そしてそいつはきっと僕に似てる」

 

逆張りと勘違いされそうだが、みんなが幸せだからといって僕が幸せだとは限らない。しかし、それは反社会性というほど強いものではない。あくまで非社会性なのだ。みんなの幸せと自分の幸せは完全な一致を見せずにある程度の距離があるのだ。

 

だから、僕はハッピーエンドが好きではない。というよりも違和感を覚えてしまう。

 

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のどかに、それこそ幸福なひとときを過ごしているとき、急に不安に襲われることがある。(何度も僕の個人的な感情が続いて申し訳ない。)

幸福が永遠に続くはずがない。どこかで必ずこの幸福は終わり、そしていつか不幸が訪れる……そう考えると恐ろしくなってしまう。

「恐怖とは対象のある恐れであり、不安とは対象のない恐れである」らしいが、いつかどこかで訪れる不幸という漠然としたものに対する恐れに付きまとわれている。

これは過去の記事でも書いたような、僕の悪い「いつでも未来のことを考えて落ち込んでしまう」癖かもしれない。

 

しかし、この事から分かるのは幸福を陥落させるのは決して不幸だけでない、ということだ。

例えば、過度な幸福を人に与えよう。人は幸福を噛み締め、飲み干し、味わい尽くしたとき、ふと目を覚まし、俯瞰して、"幸福な自分"というものを見つけてしまう。

"幸福な自分"を見つけてしまった自分は最早幸福ではない。"幸福な自分"と対になる、"不幸な(とまではいかないものの、平凡な日常を過ごす)自分"が嫌でも目に入ってしまうからだ。

こうして、幸福なひとときは崩れ落ちる。(それでも幸福でいられる人は、とても強いのだと思う。)

 

サクラノ詩の最終章から引用しておく。

主人公(直哉)が、様々な事が上手くいき、みんなと祝勝会でワイワイ騒いだ後、深夜に一人ぼっちの家に戻ってトイレでゲロを吐いているシーンである。

藍はずっと家を離れていたのだが、その晩に戻ってきて直哉を介抱している。

 

【藍】

「どうした、直哉、つらそうだけど、嫌な事でもあったのか?」

【直哉】

「嫌な事なんて無かったさ。良い事ばかりだ」

【藍】

「そうか、良い事ばかりでも、直哉はつらそうなのだな」

【直哉】

「良い事ばかりでもつらそう?ああ、そうなのかもしれないな」

【藍】

「何故だ?良い事ばかりなら、人はつらくならないだろう?それでも直哉はつらいのか?」

【直哉】

「人間はさ。人はさ」

「上手くいっている時に、ちゃんと生きている時に」

「一番調子にのっているんだ」

一番うまくやっている時、一番まともな時が、一番クソなんだよ

(中略)

「なんだって分量を誤れば、吐き気がするぐらい、気分が悪いもんだ」
「それが最高にきらきら光ったもので、最高に幸せなものだって、分量を誤れば血を出してでも吐き出したくなる」
最高に輝いた瞬間だって、度が過ぎれば苦痛以外の何物でもない

 

人は「これとそれが同じであること」よりも「これとそれが違うこと」の方に早く気付く。
人は差異に敏感であり、それ故、対比に弱い。

光は同時に闇を映し出す。生きることはその言葉の中に、本質的に死ぬことを暗に含んでいる。

……とまぁこんな事を言いたかったのであろう部分を、上記のシーン直後の直哉の台詞から引用する。

  

「すべての最高には、最悪がべっとりとはりついている」

「もちろん逆も然り」

最高は最悪で、最悪は最高なんだ……

 

一瞬ニーチェの「ルサンチマンによる価値の転換」(貧しい人こそ富んでおり、富める人こそ貧しいのだ、みたいな)を想起してしまうが、ここではそこまで強い主張をしていない。

世間における道徳の話ではなく、自分の感じ方の話をしているだけで、きちんと自己の中で完結させている。

 

それでは「幸福」とは存在しないのだろうか?幸福である限り不幸が付きまとうのだろうか?

その問いに対して、直哉はこのような言葉を残している。

 

「苦しみは大事だ」

「悔しさは大事だ」

「世の中のクソみたいなものは大事だ」

「それが感じていられるのならそれは最高の生き方だ」

 「何も感じる事が出来ないなら生きているのか死んでいるのかわからない」

「苦しみを感じられればそれだけでも生きていける」

(中略)

「輝く時だけが生きている時じゃない」

「うまくいっている時だけが、生きている時じゃない」

 

幸福である事だけを求めるな、正の感情も負の感情も引っくるめて全て肯定しろ、それが生きる意味だ、というように僕は解釈した。

恐らく「幸福の先への物語」はここら辺を意味しているのだろう、と考えている。

 

幸と不幸は紙一重である。いや、むしろ紙の表と裏である。表があれば必ず裏もあり、また裏があれば必ず表もある。(メビウスの輪には表しか存在しないじゃん、という意見は正しいがこの文脈では適切でない。前の記事参照。)

 

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僕が普段から感じている、ハッピーエンドの押し付けがましさ、そしてハッピーエンドでも付きまとう不幸への恐怖と誠実に向き合っていて、とても好感が持てた。

勿論一言で言ってしまえばありきたりな人生哲学だが、大切なのはそこに至る過程である。高尚な哲学でも記述の仕方を間違えると馬鹿馬鹿しい自己啓発本になってしまうし、些細な人生観でも濃厚に描けばそれは一つの人生となる。

 

ライターのすかぢ氏は、オフィシャルアートワークスに掲載されたインタビューで、「素晴らしき日々の向日葵の坂エンドはいわば俗的な幸福像であるが、今回幸福の先をテーマとするにあたり、同じような俗的な幸福像は提示しないようにした。しかし、それ故に物語的な欠損を生んでしまったと思う。続編となる『サクラノ刻』ではこのようなテーマに負けないほどの説得力のあるラストを描きたい。『幸福の先』のさらに先を描きたい」と述べていた。(かなり要約してしまったが、本当のインタビューはもっと長い)

物語的な欠損というのが少し分かりにくいと思うので、補足しておく。氏は「ハッピーエンドで気持ち良く終わる事こそ物語的完全性であり、そのハッピーエンドは正しく俗的であるべきであって、高尚なテーマ性であってはならない」と考えているので、俗的な幸福像をあえて避けて代わりにテーマ性を押し出した本作は物語的な欠損を負わざるを得ない、ということである。

でも別に僕はハッピーエンドが物語的に完全であるとは思わないから、本作が物語的に欠損しているとも思わない。多分それは人の感じ方による。

 

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感じた事はもっと沢山あるし、書きたい事ももっと沢山あるけど、とりあえず今僕が(主な制約条件として時間的に)書けるのはこのくらいです。いざ筋道立てて書こうとすると自分の気持ちがある程度まで圧縮されてしまうのでもどかしい……

ただこれだけは最後に言わせてもらいたいのですが、僕はめちゃくちゃ好きでした。テーマだけじゃなくて全体的に。雰囲気とか綺麗なCGとかシナリオの進め方とか表現とか演出とか色々。頭悪そうだけどこれが多分一番の本音。あーちくしょうちくしょう悔しい

 

以上です。