読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

墓の中

発言の無矛盾を目指します

修正ペンを適度に使う

ブログは楽で良い。字数制限も無いし、何度でも修正が可能だし。

こんな事を言っていると原研哉『白』(の一部)をふと思い出す。受験生のときに現代文の授業で読んだものの中で、いまだに覚えている数少ない文章である。

ネットの発達した現代社会では「諸矢を手挟みて的に向ふ」ような心構えでも許される代わりに、「仕上げ」に対する美意識を失ってしまった……というような文章だと解釈している。

 

Twitterブイブイ言わせていた時期があった。正確に言うと、ブイブイ言わせていると思い込んでいた時期があった。今思えば、消費されるコンテンツの一種に過ぎなかったのだが。結局承認欲求と承認そのものに対する自己嫌悪が凄まじくなって止めた。

昔から認められたり褒められると居心地が悪くなった。認められる為にその物事をしたと思われるのが嫌だったし、実際に認められる為にその物事をしていたときは益々嫌だった。更に言えば、認められて嬉しいと思ってしまう自分が一番嫌いだった。

多分僕は性格的にSNSに向いていなかった。ただのネットとは違い、自分に対して向けられている情報が多過ぎた。

 

……とここまで過去の懺悔を書き連ねたはいいものの、本題から外れてしまったので話を無理矢理元に戻そう。

Twitterをやって悪かった事ばかりではない。冒頭に述べたような「完成」や「仕上げ」に対する意識が高まったのも確かである。

 

 二、三千人くらいフォロワーがいると流石に「見られている」という意識が生まれる。衆人環視の意識が生まれると、次に発言に対する責任の意識が生まれる。(この意識の発生は少なくとも僕の場合はそうだったという話で、別に一般化するつもりは無い。)

しかもTwitterでは一度投稿したらそれを修正する事は出来ない。一旦削除して修正するという選択肢は無かった。「仕上げへの跳躍」に対する美意識(?)がそこにあった。

140字という文字制限の中で、「情報をどこまで出すか」といった内容レベルから、「どの言葉を使うか」といった用語レベル、「接続詞・接続助詞は何を使うか」などといった文法レベル、「句読点や括弧をどう使うか」といった記法レベルまで、拘るときには拘った。

「推すか敲くか」迷った事も何度もあったし、自分の呟きを読み返してみて「未成熟さに対する呵責の念」を感じた事もあった。全て独りよがりのものだったのだが。

 

SNSなどを通じて、他人に見られているという事を意識して、「完成する=世間に曝け出す」と考えて、その事に対する心構えを確固たるものにしていったのは、決して僕だけではないと思う。

ただその心構えは、あくまで心構えである。原動力であり抑止力である。水平方向にしか働かない圧力である。決して重責、上方向からの圧力になってはならない。

多分僕はそこも間違えてしまった。

 

それにしても、ブログは楽で良い。文字制限も無いし、何度でも修正が可能だし。

勿論何もかも修正する気は無い……が、心構えを重く捉えすぎてしまった僕にとって、修正が可能であるということは、肩の重荷をいい感じに降ろしてくれるリハビリ器具のようなものである。少しくらいは使わせてもらいたい。

 

 

一応このブログは一般公開してるんですけど、「修正ペンの白も白紙の白も同じ白」くらいの気分で気楽に書いていきたいですね。

以上です。