墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

あるオタクの信仰告白

一昨々日。「さよ朝見てきた」という言葉を何度か目にして、見た人のメンツ的に多分アニメ映画なんだろうなそういえば2月上旬くらいに広告を見かけたっけと思いながら、検索エンジンに文字列を打ち込む。正式名称は「さよならの朝に約束の花をかざろう」らしい。ははーんあの花とかここさけとかそこらへんか。ぶっちゃけあの系列は何が良いのかよくわからんかったし、いや悪くはないけど、でも大して期待せずにとりあえず話題作りのために見ておきましょうかね、というかなり上から目線がファーストコンタクトだった。「お前(登場人物)の話でどうして俺様が心を動かされなきゃならんのだ」「感動するかどうか決めるのかは世間じゃなくて俺様だ」「制作陣のお涙頂戴の安直な演出で俺様の意識に入り込んでこようとするのはけしからん」と自意識がパンパンに膨れ上がったせいで他者の意識を全く信用できない僕にとって、このくらいの反応は朝飯前で条件反射で日常茶飯事で、そして嫌になって止めようとしても止められない。明日の夕方に近場の映画館で見ようと思い座席選択画面を開くと、平日のせいかまだあんまり埋まってなかったので、まあ明日見に行く気になるか分からんし現地で席決めればいいやと画面を閉じた。

 

一昨日。義務感によって半分強制的に部屋の外に出て、映画館のチケット売り場に行くと、なんと大体席が埋まってて唖然とした。いや、お前ら……見るなら前日のうちに予約しとけや、うわメッチャ空いてる~って鼻歌唄いながらスキップで来る人の気持ち考えたことありますか?全く最近の若者ときたら……と自分を棚に上げてグチグチ文句を言いながら席を購入し入場。

両脇には人。一列全部人。どこを見渡しても人。うぇぇ。僕は映画を見に来たのであって映画を見る人を見に来たわけじゃないんだが……。肉体的には肩を窄めて精神的にはふんぞり返って席に座る。結構ギリギリに入ったのですぐに予告編は終わり映画が始まる。僕の感情と理性の無意識の戦いが始まる。(以下は当時の再現実況なので拙い表現の連続です。多分ネタバレもあります。どうかご容赦を。)

 

んー機織りと人生における出来事のアナロジーが根幹となるテーマっぽい、なんか登場人物3人出てきて典型的なロマンス始まった、うわー突然の侵略。こいつらなんなんだ?一人竜に掴まってボロボロになりながら脱出。あー綺麗な景色。お次は死んだ母親に抱かれる赤ん坊と涙酒は乙な男発見。オタクが涙酒涙酒言ってたのこいつか。笑うから止めてくれ。ん、赤ん坊を抱いた手を剥がせないってそれ……死後硬直じゃない?なんとか赤ん坊を回収して歩き出すマキア。メインはこのマキアと赤ん坊の話ッスかねー。来ましたタイトルロゴ。

(中略)

エリアルと二人で暮らすマキア、見た目も性格も置かれてる環境も好きすぎる……。まあ「過酷な環境下で、多感な年頃の息子に邪険に扱われても健気に振る舞い続けるシングルマザー」はテーマとしてたまに見るけどね、僕は大好きですよ。てかこの息子、まんま僕だもん。好きに決まってるじゃん……。はー好き。好きーーーーーー。好き……。ま、ありきたりだけどね。よく描けてると思いますよ。あー好き好き好き。苦しい……。マキア、好きだ……。

(中略)

戦争始まった。これクライマックスでしょ。クライマックス。中学生だから戦争の最中で巻き起こる様々な巡り合わせ、好きだよ。基本だもんね。絶対好きだよ。あ、レイリアが唯一の拠り所である娘を求めて崩落寸前の城を彷徨い歩くやつね。それ知ってる。好きだもん。知ってるよ好き好き。

あーー出た!!!!生と死の対比、生と死の対比。生と死の対比!!!!!出産!!!!戦争!!!!!!ありきたり。ありきたり。でも好き、好き。生まれる生まれる生まれる生まれちゃうあああああ。

エリアルを介抱するマキア。ここで昔話して親子関係を昇華させるのだめ……もういいよ……もういいんだ……。どうせ綺麗な別れの演出はい朝日に照らされる湖で告げる別れすきぃ!!!!ちくしょう好き好き。ごめん。マンボウ。……………………………………………………。

崩落する城を頂きより眺めるメドメル。分かってます。分かってますよ。関係性を回収するのは物語の基本だもんね。さあ来るぞ来るぞはいレイリア来ました。うんうん。あれ?これもしかして冒頭のシーンと重ねて飛び降りるやつかマジか好き好きやべぇ、は?……………………………………………………………………………………………。

(中略)

あ、ラスト。あ、これ、僕にとって究極の感情爆弾、あっ…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 

帰り道の記憶はあまりない。売店でパンフレットが売り切れていたのは覚えている。部屋に帰ってもなお茫然と無意味にスマホを点けては消すのを繰り返していた。外が暗くなり、そろそろ何かしようと抽象的なことを思い始めても、具体的には何もしたくないので、とりあえず外に出た。あー一年半くらい前も似たようなことあったなー多分これ相当好きだったんだなー今度はどうすんだろとか他人事のように思いながらただひたすら歩き回った。身体を動かして物理的にパトスを発散すると少しは気が紛れてくるもので、次第に僕の理性は復活してきた。そうなった僕がすることと言えば大体決まっていて、いつも通り作品と自分の感情について分析を始める。母と子の役割がどーのこーの、神話の一部としての人生はあーだこーだ、死生観と時の流れがうんたらかんたら、うんぬんかんぬんはちんぷんかんぷん。頭の中で考えをこねくり回す。これが僕の普段の衝動的行動のスタイルであって、いつもこれで大体満足していた。

でも、今回は考えれば考えるほど、書けば書くほど、あのときの感動がどんどん理性で濾されて、搾りかすみたいな思想や文章しか生成されず、むしろあの美しい世界が穢されてしまうのが恐ろしくて途中からまた思考停止の状態に陥っていた。そして、強制終了する直前に僕の頭は次のような方針をアウトプットした。

 

「とりあえず、明日もう一度見て考えよう」

 

昨日。午前9時過ぎ、僕は再び映画館にいた。昨日は周囲に人が沢山いて無意識のうちに作品に対する注意が削がれていたかもしれない、今度は客のほとんどいないであろう平日の午前を狙って(客の中で)最前ど真ん中をとって見よう、と僕は考えていた。一番近場の映画館では午前上映がなかったので、電車に乗って違う映画館に向かった。

チケット売り場に立って高らかに宣言する。

さよならの朝に約束の花をかざろう、一枚お願いします」

あらあらおじいちゃん、その映画は昨日も見たでしょ。

「席は前、真ん中、後ろのどのあたりがよろしいですか?」「前で」

ここまでは予行演習通り即答。

「前ですと4列目の真ん中は既に埋まっております」

おいおい、4列目ってかなり前だぞ。そこ座るなんて、そんなに近くで見たいんかい。僕は、見たい。

「3列目の真ん中で」

最前には最前を。ハンムラビ法典にもそう記されている通り、僕は選択した。

入場すると、人はまばら。うんうん、人が少ないって素晴らしい。満足そうに頷き僕は席(3列目真ん中)に座る。スクリーンが近い。近すぎる。これは(首の)骨が折れそうだと思いながら、4列目真ん中を選んだ人も今頃真後ろで絶望しているだろうとほくそ笑むのだった。そして、開演。マキアとエリアルを取り巻いた、人と国と神話の物語が再び始まる。僕は気を引き締める。

 

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結論から言うと、一度目より泣いた。最初から最後まで泣いていた。閉演後にフラフラと売店を覗いたらここでもパンフレットは売り切れていた。でも、そんなことはどうでも良いくらいに、僕は完全に恋に悩める乙女になっていた。恋心というものを作品に対しても定義できるのであれば、まさしくそれだった。部屋に帰って、昨日書いた”分析”を読み返して本当に搾りかすでしかないことを痛感して憂鬱になった。それからキービジュアルを見てはため息をつき。作品を思い出してはため息をつき。スマホを点けては消し。タイトルについて考えてはため息をつき。台詞を思い出してはため息をつき。スマホを点けては消し。いつの間にか夕方になっていた。

 

夕方だと気付いたのは空が夕日の色に染まりかけていたからだった。その瞬間、ビビッと僕の背中に電撃が走った。キービジュアルの一枚にマキアとエリアルが手を繋ぎながら太陽に向かって駆ける画像があり、僕はそれを何回も何十回も見返しては届かなさに呻いていたのだが、今ならそれに届くのではないか、届かずとも近い場所に行けるのではないか、と衝動的に思い至ったのだ。(今思い返すと意味不明だが、当時は本気で思っていたし、前々回の記事に書いた通りで、僕のこのような衝動はある種の癖である。)急いで日の入りの時刻を調べると、今日は17時40分。今の時刻は17時15分。ここから一番近い展望台まで大体10分。間に合う。期待に痛いくらい胸を膨らませて、外に駆け出した。とあるビルに辿り着きエレベーターに乗り込み、僕は展望台のある25階のボタンを押す。上昇を終えたエレベーターから降りて僕は窓に駆け寄る。

夕暮れの中。どこを探しても草原を駆け回るマキアとエリアルはいなかった。夕日はビルだらけの平野の向こう側に落ちて、外国人観光客が大声で喋っていてうるさかった。窓枠は邪魔だし、何より天井と床が邪魔だった。これは前々回の記事と同じく当たり前の結末で、本当に馬鹿らしい(本人ですら思う)が僕は展望台でただ一人悲嘆に暮れていた。それからどうやって部屋に帰ったか覚えていない。ここ数日間の自分の行動の記憶が曖昧になりつつある。部屋でまたため息をつくのを繰り返していたが、突然あるアイデアが降ってきて、それがあまりにも画期的で魅力的だったので、採用することにした。

 

「その世界から離れて悲しんでいるなら、何度も見ればいいじゃないか」

「何度か見て飽きたなら、それで悲しむことはなくなる」

「つまり、飽きるまで見続ければいい」

 

今日。昨日より少し早い時間帯に、もっと郊外の方の映画館に行ってきた。もちろん人の少なさを狙ってのことである。この狙いは巧を奏し、今度は列的に真ん中より少し前くらいのセンター、かつ(客の中で)最前の席をとることが出来た。もう、僕と作品の間に阻むものは何もない、最高の環境だ。またマキアたちに会えると思うと、それだけで胸が熱くなった。そして、開演。もう気を引き締めることもない。

 

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あ。こんなの飽きれない。一生見てたい。一生一生、見てたいもん。三回も見ると展開はもちろん制作陣の狙いも、そして作品としての粗も徐々に分かり始めてくるが、でも好きなものは仕方ない。性癖(性的嗜好ではなく、本来の意味)は変えられない。単純だって馬鹿にされても構わない。僕は、僕が愛せるものを愛したい。

部屋に帰って、買ったサントラを聴く。目を閉じると、BGMだけで場面が再現される。これはイオルフの集落。これはエリアルの幼少期。これは二人暮らしの時代。これは戦争時。これは空を飛んだ時。これは別れの時。人生が神話の一部としてめくるめく再現されて、スイッチが振り切れてバグってしまった機械のように、感情が溢れ出す。「すごいね」「いっぱい、一生懸命、生きてきたんだね」「おかえり」「ただいま」「いってらっしゃい」

僕は彼らの幻影を見続ける。マキアを聖女のように崇拝して、彼女の言葉によって救われ続ける。いまだに苦しくてたまらないけれど、いつか折り合いをつけて、届かないものとして一緒に歩んでいけるなら、これ以上のことは望まない。

 

そういうわけで今回は僕の完敗です。ただの感想の垂れ流しになってしまいましたが、これで少しは恋心が晴れたような気がします。

この作品を死ぬまで色褪せることなく想い続けられることを切に願います。

明日も見てきます。次はもっともっと遠いところに行ってみようかと思います。