墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

憂さ晴らしに書き散らし

最近うわべの事しか考えていない。考えられない。何か考えそうになると勝手に脳がそれを自動的に拒否する。してくれる。
僕はこのままでいいのか。このままだとどうなるのか。僕は何のためにここにいるのか。僕は何をしているのか。僕は何をすべきだったのか。僕は何をすべきでなかったのか。僕の周りは僕の周りであり続けるのか。逆に、僕の周りにとって、僕は僕であり続けるのか。今の僕は本当に僕なのか。
そういう余計な疑問は全部シャットアウトする。すごい楽だ。何も考えずに、今日やるべきことと、近日までにやるべきことだけをやって生きれば良い。「何も考えずに」と言っているが、もしその状況を一言で表すなら、やはり「楽」なのだろう。
今日やるべきことと、近日までにやるべきことが無くなると、途端に焦る。視野をより未来まで広げる必要がある。結局、見たくないものが蔓延っている空間に対して目を向けずに、とりあえず「なんか意味のありそうなこと」を選んでそれに向き合う。僕が動かなくても、時の流れに乗って漂流していける。滝壺がすぐそこにあっても僕は気付かないかもしれない。
唯一の趣味であったオタク趣味も、どこか他人行儀になって一つ席を空けた隣に座っている。自分のオタク性を維持するためだけに、「楽しいこと」ではなく、「なんか意味のありそうなこと」としてオタク文化を嗜みつつある。オタク趣味に限らず、なけなしの感性を掴んでくれるような作品はいくらでもあるに違いない。でも、僕にそれを掴みとっていくだけの弾性がない。漫然と眺めている。

僕はとても恵まれた生活をしている。五体満足だし、すごく醜い見た目をしているわけでもないし、衣食住は十分すぎるほどに事足りているし、毎日寝る時間も自由に使える時間もきちんとあるし、このまま多分無難に人生を送って、今のツケを中年くらいの頃にドカンと払わされて、それでも平均的な中流人間として人生を終える。
大した人生を送ってもない人間が何をボソボソ言ってるんだろう。お坊ちゃまはマンマの庇護下でヌクヌクと幸せそうに過ごす義務があるんだよ。無気力そうに過ごすためにはそれに見合うだけの対価の支払いが必要なんだ。その辺きちんと弁えないと。そういう風に僕の中の批判的な部分が僕をボコボコに殴ってくる。「石油王はうつ病にならない」理論を支持していた僕は今になって逆襲を受けている。でも、実際に僕は辛くなくて、いつもはむしろ楽なんだ。

朝の通勤電車内でガタゴト揺さぶられながら新聞を読んでいる中年のサラリーマンは辛くないのだろうかと思っていたが、彼らはそこまで辛くないのだろう(こんなことを言うと怒られそうだが)。思考停止は至福のひと時を与えてくれる。真摯に辛さを受け止めて自分のMPをゴリゴリ削っていくのも一つの人生だが、それはあくまでも選択肢の一つだ。受け止めても無意味な辛さから逃げる人を臆病だと思っても、その人の選択を否定する権利は他人にはない。その選択権すらも奪いにくる人がいるとしたら、きっとそれは乱暴な英雄か、もしくは他人を罵ることでしか自分を保てない曖昧な人間だろう。汝、サラリーマンを愛せよ。

無気力で活発な日々の中、内部から見た僕ではなく、ふと世界の中にいる僕の存在に気がつく。目を背けないとと思っている間に、びろんびろんに伸び上がったバネもどきがびよびよと転がっているのを見つける。それはキョーモキチントイキタネアシタモガンバローと変な音を軋み上げていた。