墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

散るゆゑによりて、咲く頃あり

冬が終わり、春がやってきた。

春がやってくると、否が応でも時は過ぎていくのだと、考えてみれば当たり前のことに思い当たる。しかし、過ぎていくのは時だけではない。人も関係も出来事も何もかもをひっくるめた風景が通り過ぎ、背後に広がる。どちらにせよ、過ぎ去ってしまってから人は初めてその事に気付く。人は前に風景を見ることはない。前に見えるのはただ見知った風景をあれこれ切り貼りした写真だけである。

 

「春は別れの季節であり、出会いの季節である」とよく言われるが、本当にそれは正しいのだろうか。

始まりはいつでも突然にやってきて、始まったことをきちんと受け入れらないまま時は流れていく。入学式のときに感じる期待や不安といったものは、始まりそのものに対する感情ではなく、これから始まる未来に対する感情である。自分が既に始まってしまったのだと気付くのは、もっと後のことなのだ。同様に、出会いも長い時間を経て初めて、カッコたる形で「出会い」となる。

確かに、春は別れの季節であり、出会いの季節である。しかし、その「出会い」とは"今"の出会いではなく、"昔"の出会いである。別れることによって、"昔"の出会いが浮き彫りにされるのだ。

物事をやり終えたときにやり始めたということを最も強く意識し、卒業式のときに入学したことを最も強く意識し、死ぬときに生まれたことを最も意識する。

 

桜は散るときに、最も咲き誇るのである。