墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

虐待児と実存主義

皆、変なものには土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている。私にはそれが迷惑だったし、傲慢で鬱陶しかった。

村田沙耶香コンビニ人間

 

 昔テレビで児童虐待を扱った特番を何度か見た。”正義”による憤怒や”愛”による憐憫がそこにはあった。しかし、それは虐待という事件を自分の価値観の下で解釈し、そしてその価値観の下で虐待児を救い出そうとしているに過ぎないように感じた。そこに、「虐待児の価値観」など介在しなかった。

 僕は虐待されたことがない。だから、虐待された人の気持ちの上辺を知ることは出来ても、真に実感することは出来ないだろう。それでも、僕は今回この記事で(少なくとも作品中の)虐待児の心理について少し踏み込む。ただ、それは土足ではなく、用意されたスリッパに履き替えて、来訪する意識で書こうと思う。

 「用意されたスリッパ」とは、「虐待児を描いた作品」である。理想を述べれば、「虐待児描いた作品」の方がより虐待児の心理に近付けるのだろう。しかし、今回2つの「虐待児を描いた作品」に共通点が見出だせたので、ある程度信用出来ると考えた。加えて、ルールとして、なるべく自分の価値観は押し付けないように、文章だけで判断するように心がけた。
 勿論、もし「それは流石に言い過ぎで独りよがりではないか」という点があれば、是非ご意見を賜りたい。僕に出来るのはただ文献を参考にして、僕の思考原理の下で、他人の思考を推測することだけである。

 また、便宜上「実存主義」という言葉を多用した。これは哲学用語の「実存主義」とは少しズレるかもしれない。というのも、「実存(主義文学と呼ばれるものを読んで、僕が感じ取った)主義」という方が適切だからだ。その辺りはご了承いただきたい。

 さて、本論に入ろう。以前このような記事を書いた。

paca-no-haca.hatenablog.com

 『SWANSONG』で、尼子司は死ぬ寸前に突如、人そのものを肯定し始めた。この肯定が、あまりにも突然過ぎるので、僕は違和感を覚え、「これは作者である瀬戸口が、わざとそういう風にキャラクターを動かしたのではないか」と考えた。しかし、それでも腑に落ちず、胸の内に燻っているものがあった。この記事では、その違和感を解消しようと試みる。

 

1.土の中の白鳥

 まず、『SWANSONG』での尼子司の最期を、簡単に振り返っておこう。片手を失い満身創痍となった尼子司は、意識が朦朧になりながらも地震によって崩れ落ちた教会に向かう。そして、死に瀕した状態で、突然次の台詞を言うのである。

醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです。

─尼子司/『SWANSONG』

  これが突然過ぎる「人そのものに対する肯定」である。また、一度は粉々に砕け散ったものの、あろえ(倒壊した教会の下敷きになって死んでいる)がそれを接着剤で再び繋ぎ合わせて作った、ボロボロのキリスト像を、尼子司は天に向けて掲げるのである。

神の子なんか関係ない。これは、いまはもういない僕の友達がその小さな両手で丹念に一つ一つ組み上げた手あかのついた石のかたまりだ。僕は誇らしくてしかたがない。だから、絶対に立ててやる。そして、このやたらにまぶしすぎる太陽に見せつけてやるんだ。僕たちは何があっても決して負けたりはしないって。

─尼子司/『SWANSONG』 

 このシーンでは、先程の「人そのものに対する肯定」より、一層強い感情が現れている。多少意訳すると、「ボロボロになった状態でも、人そのものとして世界に抗い続けるぞ」といった感じになる。「神の子」や「太陽」といった単語は「世界」を象徴するものであり、尼子司がそれに対して挑戦的であることが、この解釈の根拠になる。

 しかし、なんとなく解釈したところで違和感は拭えない。どうして突然尼子司は人そのものを肯定し、世界に反逆し始めたのか?そんなことを心のどこかにしまい込みながら過ごしていたある日、中村文則『土の中の子供』(以下、『土の中』と略記)という小説に出会った。この作品は、小児の頃に虐待されていた大人が社会で生きる物語であり、2005年に芥川賞を受賞している。主人公は27歳であり、一種の希死念慮を持っており、作中で何度も死に瀕する。そのときの心理描写について詳しく見ていきたい。

 

 まずは、一人で暴走族に喧嘩を売った結果、リンチに遭って意識を失いそうになる場面である。

全身を蹴られながら、意識が遠くなっていくのを感じた。バイクの光に照らし出されながら、無残にされるがままになっている自分を、虫ケラのように感じた。私は興奮していた。この状況に似つかわしくない感情だと思った。蹴られている痛みに、マゾヒスティックな快楽を感じているというわけではなかった。彼らの攻撃はしつこく、激痛しか感じない。虫ケラでいることに、陶酔しているというわけでもなかった。何というか、きっとこの先にあるものを、私は待っていた。何か、私を待っているものが、そこに確かに存在するように思えた。

─『土の中』

  「この先にあるもの」とは何か。これについては、虐待されていたときの回想シーンに、より具体的に書かれている。

そのあたりから、私の記憶は途切れた。正確にいえば記憶はあるのだが、それは映像を伴わなかった。自分の身体が、その姿形が消え失せ、黒いモヤになった感じだった。黒いモヤから、私の生きる意欲が─それは眠りたいであるとか、水が飲みたいといった単純なものだったが─微かに生まれ、その都度加えられる暴力の痛みで死んだ。私はそういった感覚の固まりと化していた。その時、奇妙なことだが、これが人間にとって本当の姿ではないかと思ったことがある。自分が人間になる以前の人間へと、人間として完成する前の未完成な、しかし存在の根源であるような固まりに、なったような気がした。

─『土の中』

 2つの場面は、暴力を振られ続け、ボロボロになった限界の状態で、「存在の根源」を求めたり、それを本当の姿だと思ったりしている、という点で共通している。

 最後に、飛び降り自殺をしようと階段の踊り場から身を乗り出す場面から引用したい。

落下していく最中、私の意識はある到達点までいくだろう。私は自分を落下させた加害者となり、被害者となる。不安と恐怖の向こう側に、何かを見るだろう。それを見ることができるのなら、何をしてもいいような気がした。地面に衝突していくまでの時間、もう絶対に取り返しがつかないと知った瞬間、私は圧倒的な後悔で身体を貫かれるだろう。落ちていきながら、宙を摑むように手を動かし、回転する身体を、そうしたところで何の効果もないのにもかかわらず、一定に保とうともがくだろう。地面が近づいていることを確実に予感しながら、私は世界の全てを恨む。絶対に助かることのない、あと僅かで確実に死ぬ存在である自分から、抜け出そうともがくのだ。その圧倒的に自分の全てを支配する力を体感しながら、私は核心に近づく。私は、予感しているのだった。私はその中で、もっとも私らしくなるのだろうと。

─『土の中』

 ここまで読めば分かると思うが、『土の中』と『SWANSONG』の主人公には共通点を見出すことが出来る。まず一点目だが、ボロボロになった状態で初めて「存在の根源」や「人そのもの」を発見し、それを求めたり肯おうとしたりする点。(『土の中』に肯定の意識はあまりないが、それでもそれを「本当の姿」と認めようとしている。)二点目は、極限状態でも世界に抗う中で人はもっとも人らしくなれると賛美している点。そして三点目は、幼い頃に虐待を受けているという点。(『SWANSONG』は『土の中』とは異なり、物理的な暴力は少なかったが、心を抉るタイプの言葉の暴力は多かったように感じた。)少なくともこの三点は共通しているといって差し支えないだろう。

 さて、虐待児についての作品間の共通点を三点ほど提示したが、続く二章と三章ではこれらの作品と実存主義の間に共通点を見出したい。ただ、寡聞故に哲学としての実存主義について僕は多くを知らないので、「実存主義文学」と呼ばれる作品と『土の中』を比較していこうと思う。

 より具体的に述べると、二章では「主人公と『存在そのもの』の邂逅」を扱い、三章では「主人公の、世界に対する反抗」を扱う。それぞれ、この一章で述べた共通点の一つ目と二つ目に対応する内容である。

 

2.美しいヴェールに覆われた醜い世界

 そもそも、「実存主義」とは何だろうか。Wikipediaで調べてみると、「人間の実存を哲学の中心におく思想的立場」と出てくる。実存(existentia)とは現実存在の略語であり、本質存在(essentia)と対比される言葉である。つまり、現実存在は「存在しているもの自体」であり、本質存在とは「存在しているもののその意味」である、と言える。言語学における、シニフィアンシニフィエの関係に似ているものがある。かのサルトルの有名な言葉を引用し、実存主義の主張を超絶圧縮して表現すると、「実存は本質に先立つ」のである。

 例えば、ここにペーパーナイフがある。ペーパーナイフを作るときに人はまずペーパーナイフの用途(本質存在)を考えてから、実際にペーパーナイフ(現実存在)を作り上げる。ここでは「本質が実存に先立つ」ということになる。しかし、人間はそうではないと、実存主義は主張する。人間は、まず何の意味も目的も付与されないまま、現実存在として、この世に生まれ落ちる。それから、生きていく中で自分の本質存在が、自分や周囲の人間によって構成されていく。つまり、「実存は本質に先立つ」。

 この考えを出発にして、実存主義は様々な広がりを見せていく。中でも一番アグレッシヴな主張は「世界には実存しかなく、そこに意味は無い」といった虚無主義であり、少しマイルドになると「物事の意味(本質)は全て社会によって構成されている」といったものになる。このように多少悲観的な発想に繋がってしまうことが多く、実存主義文学もその風潮がある。今回取り上げる作品も、このように淡々と悲嘆に暮れる作品が多いが、決して実存主義=悲観主義ではないことを強調しておく。例えば、後期のサルトルなどは「だからこそ、実存である人として、積極的に世界を意味付けし直していこう」という前向きな姿勢で社会に関わっていったように、決してニヒリズムに終止するものではない、ということをここで念の為に述べておきたい。

 

 哲学としての実存主義はここまでにして、文学としての実存主義に触れていこう。まずは、大御所であるジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』の有名なシーンを取り上げたい。主人公であるロカンタンが、公園のベンチに腰かけ、マロニエの木の根を見つめながら「本質は全て人間によって規定された物だ」ということに気付き、吐き気を覚えるシーンである。

私はさっき公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私のベンチの下で、地面に食いこんでいた。それが根であるということも、私はもう憶えていなかった。言葉は消え失せ、言葉と一緒に物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した微かな目印も消えていた。……普段、存在は隠れている。しかし存在はそこ、私たちのまわりに、私たちのうちにある。存在は私たちである。口を開けば人は存在について語らずにいられないが、しかし結局、存在に触れようとはしないのだ。私が存在について考えていると思っていたときにも、実は何も考えていなかったと思わなければならない。……存在はとつぜんヴェールを脱いだのである。存在は抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。

ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』(鈴木道彦・訳) 

 普段、実存は、意味やカテゴリーや言葉といった「ヴェール」で包まれて、守られている。しかし、その「ヴェール」による隠蔽に気付き、それを剥ぎ取ってしまったロカンタンは、実存そのものの露出を目の当たりにする。そして、彼自身もまた「ヴェール」によって覆われた存在であり、その「ヴェール」を剥ぎ取られてしまえば、何の拠り所もない存在であると考える。こうして、ロカンタンは、マロニエの木の下で吐き気に襲われる。

 同じ実存主義者として知られるカミュは『幸福な死』において、同じ考えを異なった視点で眺めている。この物語の主人公メルソーは、『嘔吐』のロカンタンと異なり、自らその「ヴェール」を剥ごうとした。以下は、唯一の肉親である母親の葬式の翌日に、母親と共に住んでいた家の中に佇む場面である。

かれは、この住居と貧乏の匂いに執着していた。少なくともそこではかれは、かつての自分とまたつながることができた。そしてかれが意図的に自分の姿を消し去ろうと努めていた或る生活のなかでは、こうした深いで忍耐のいる比較対照のおかげで、かれはいまでも自分を、悲しみや悔恨の時間にいる自分とくらべることができたのだ。(中略)かれは、自分になんの努力も要求しない住居の暗い影のなかを歩きまわるのだった。ほかの部屋だったら、かれは、新しいものに慣れなければならなかったろうし、そこではまた、闘わなければならなかっただろう。かれは世間に身を晒しているうわべの部分を少なくしようと思っていたし、一切が燃えつきて眠っていたかった。

カミュ『幸福な死』(高畠正明・訳) 

 世間によって自分に付与される、意味という「ヴェール」を自ら剥ごうとしている様子が窺える。カミュの別作品である『異邦人』にもこのような傾向は見られる。ムルソーも自ら世の不条理に歩み寄り、そしてその不条理を愛した。

 さて、一章でも取り上げた『土の中』に目を向けてみると、この作品も「ヴェール」の剥がれる様子が描かれている。それは主人公が夜道を目的もなく歩いている場面である。

その時、不意に周囲に拡がる世界を巨大なものに感じた。田園となって広がる地面や、灰色の雲に覆われた空や、道路や、見えないはずの空気までが、どこまでも巨大に、圧倒的な存在感をもちながらそこにあるように思えた。世界は、その広がりの中に私という存在を無造作に置いたままにしている。私はあまりにも無力であり、私の全存在をかけたところで、この世界に僅かな歪みすら加えることはできない。世界は強く、無機質にただ広がり、私を見ることもなく存在していた。死ねばいい。死んだところで、世界は私に気を止めることなどない。死は他の全ての事柄と当価値であり、この広がりの中では、大した意味など有していない。世界はやり直しの効かない、冷静で残酷なものとして私の面前に広がっていた。

─『土の中』 

 この主人公も『嘔吐』のロカンタンと同じく、裸の世界を眺めていた。ただそこには無機質なものが広がるばかりであった。自分はただの存在であり、それ自体に何の意味も持たなかった。

 加えて、虐待から脱却した直後に学校で周囲の状況を眺め回す場面も引用したい。

常に虚ろだった私が周囲を把握するようになったのは、それから一ヶ月ほど経った頃だった。それは、学校に入り、体育を見学している最中に、まるで浅い眠りから覚めたように不意に訪れた。「これが、生きるということなのだろうか」私はそう思いながら、気味が悪いほどにくっきりと、次々と目に焼き付いてくる周囲を見渡していた。二つに別れてボールを投げ合う、笑顔を浮かべたクラスメイト達、指示を与えながら、同じように笑い声を上げる教師。(中略)常に内向的に成長し続けた私は、本を読むようになった。先人の書いた物語を読みながら、この世界が何であるのかを、この表象の奥にあるものが、一体何であるのかを探ろうとした。

─『土の中』

 こちらは幼いながらも「ヴェール」の存在に気付き始め、それを気持ち悪いものと感じ、『幸福な死』のメルソーと同じく、その「ヴェール」の裏にある何かを自ら求める主人公の姿が描かれている。

 以上、この章で見てきた通り、「存在そのもの」を肯定するかどうかはさておき、主人公が「存在そのもの」と面と向かって邂逅するという点では、『SWANSONG』『土の中』と、『嘔吐』『幸福な死』は共通していると言える。

 

3.白鳥は死ぬ間際に一声だけ美しく啼く

 『SWANSONG』で、尼子司は死ぬ寸前に世界に抗い始め、人を賛美し始めた。『土の中』で、主人公は死に近い極限状態で抗う人こそ、人の本当の姿だと考えた。それでは、『嘔吐』『幸福な死』ではどうなのだろうか。

 結論から先に述べてしまうと、『嘔吐』のロカンタンは、世界に抗おうとしなかった(ので、この章のテーマとは少しズレる。ただ僕はこの終わり方も好きなので、一応軽く説明するが、飛ばして読んでも構わない)。彼はただ諦めた。ただ「在る」だけの世界を受動的に受け入れようとした。しかし、自らを全ての絆から断ち切り、パリへと旅立つ直前に、最後に馴染みのカフェに別れを告げる場面で、ある転機が訪れる。かつていつも聴いていたジャズのレコードを聴いた瞬間の話であった。

声は歌う。

 

Some of these days

You'll miss me honey.

(いつか近いうちに、いとしい人よ、

わたしの不在を寂しく思うでしょう。)

 

レコードのこの箇所に疵がついているに違いない。妙な音がするからだ。それでも何か胸を締めつけるようなものがある。……レコードは疵がつき、摩滅し、女性の歌手はおそらく死んでしまった。しかし、過去もなく、未来もなく、一つの現在から別な現在へと落ちていく存在者の背後で、……メロディは常に変わらず、若々しく凛としている。……黒人の女歌手が歌うのを聴きたいのだ。最後にもう一度だけ。彼女は歌う。これで二人が救われた。ユダヤ人と黒人の女が。救われた二人。

─『嘔吐』

 おそらく過去に死んでしまっている女性歌手が、現在を生きているロカンタンに対し、レコードを通じて語りかけてくる。それを聴いたロカンタンは心を打たれ、過去と現在という時間を超えた繋がりに「意味」を感じるようになる。そして、最後に次のように思うのである。

おそらくある日、……私は心臓の鼓動がいつもより早まるのを感じて、自分にこう言いきかせるだろう、「あの日だった、あの時だった、すべてが始まったのは」と。そして私は─過去において、ただ過去においてのみ─自分を受け入れることができるだろう。

─『嘔吐』

 現在に存在する、全ての存在がたとえ無意味なものだったとしても、未来になってから過去として振り返ることで、意味を見出すことが出来るかもしれない……と一縷の希望を胸に込めて、ロカンタンはパリへと旅立って幕引きとなる。 

 一方、『幸福な死』は実にカミュらしい終わり方をしている。物語の最後で、重い病を患ったメルソーは苦しみながら次のように呻くのである。

メルソーは両目を閉じた。かれはへとへとになっていた。唇は蒼白でひからび、息が、はあはあしていた。

「ベルナール」とかれは言った。

「なんだね」

ぼくは、人事不省のまま命を終わりたくない。ぼくには、はっきり見きわめることが必要なんです。わかってくれますね」

「ああ」とベルナールは言った。

─『幸福な死』

 メルソーは、激しい苦しみの中で、かつて自分が自殺幇助をしてピストルで頭を打ち抜いてやったザグルーの最期を思い出す。

かれ(注:メルソーのこと)いつもよりずっと敏感に、自分の指と足の先が氷のように冷たくなっているのを感じていた。そのこと自体は一つの生命を啓示していた。そしてこの寒さから熱さへの旅のなかで、かれは、《まだ燃えることを許してくれる生命に》感謝していたザグルーをとらえたあの昂揚を、ふたたび見いだしているのだった。……死と直面したザグルーの不動性それ自体のなかに、かれは、自分自身の生の、密かで過酷な姿を見いだしているのだった。熱が、そしてまた土壇場まで意識を保ち両目をあけたまま死なねばならぬというあの誇り高き確信が、そこではかれを助けていた。

─『幸福な死』 

 そして、孤独な状態で死を迎える寸前に、自らの感情を以下のように表現する。

意識されているということは、欺瞞なしに─たった一人がたった一人と─自分の肉体と差し向いになって─死に向って両目を見開いていなければならないことだった。人間たちのあいだでの一つの仕事が問題なのであった。愛も、背景も、なにひとつなかった。あるのはただ、孤独と幸福の無限の砂漠であり、そこでメルソーは最後のカードをひいているのだった。

─『幸福な死』 

 三つの場面から、「死」という絶望的な状況に瀕して、「一人の人間」として「欺瞞なしに」「両目をあけたまま」「見きわめる」という反抗(とまではいかないものの対峙)を行うことを、「誇り高く」覚えているメルソーの姿が浮かび上がってくる。

 このように、『SWANSONG』『土の中』と、『幸福な死』の間には「主人公の、世界に対する反抗」という共通点もある。

 

4.自分と他人、他人と自分

 ここまでで、虐待児の心理は実存主義と似通うものがあるのではないかということを述べてきた。しかし、相関性は多少あるかもしれないが、そこに因果性らしきものがあるかはまだ分からない。もっと言えば、ただ単に実存主義的に描こうとした作家がたまたま虐待をテーマにして描いたのを僕が見つけて、そこに相関があると言っているだけかもしれない。僕は虐待児を描いた作品(作家)を他に知らなかったので、議論には限界がある。

 しかし、それでも僕は「虐待によって、実存主義的思想が生まれることがある」ということを一つの可能性として提示しておきたい。根拠としては弱いが、『土の中』の文中にその片鱗を読み取れる場面がいくつかある。

 まず、虐待されているときに何故自分が暴力を振るわれているのか考える場面である。

そもそもなぜ彼らは私に暴力を振うのか。その疑問について、考えたこともあった。だが、幼かった私が行き着いた結論は、彼らが私ではなく他人だからだ、という、単純なものだった。色々と理由はあるのだろうが、少なくとも、彼らが私自身だったなら、私に対してこのようなことはしない。私以外の存在、それが何をしても不思議ではないし、どのようなことをする可能性もあるのだと思った。「他人だからだ」蹴られる度に、私は頭の中でそう呟くようになった。

─『土の中』

 この場面では思考が他人から開始しているように僕は感じた。自分というものがひどく希薄なのだ。普通、他人は「自分ではない人間」として定義されるが、ここでは自分が「他人ではない人間」というように逆に定義されている。「自分は他人によって規定される」というのは「意味は社会によって構成されている」という思想と繋がりはしないだろうか。
 また、次の場面は、昔虐待から逃れた直後に過ごしていた虐待児保護施設を再び訪れるシーンである。ここで主人公は施設長と話をしているといきなり幻聴が始まり錯乱する。

椅子が倒れ、グラスの割れる音が響いた時、私は立ち上がっていた。目の前に、初老の男が白い歯を剥き出しにして立っていた。彼は「落ち着け」と叫び、両肩を鷲掴みにし、私を酷く揺さぶる。彼は私を両腕で捕え、そのまま締め上げようとした。彼の肌が、私の肌に重なる。私は「他人だ」と叫び、逃れようとするが動くことができなかった。他人が、私に密着している。密着し、私の中に、入り込もうとしている。恐怖で身体が震え、肌の内側から染み出るような嫌悪感が、強烈な寒気となって私の身体を侵食する。「他人だ」「他人だ」視界が薄れ、喘ぐように叫びながらもがき続けた。
─『土の中』

 普段、他人と接触するだけでは他人が流れ込んでくるという妄想は抱かないが、「私」の中身が空っぽであるから、このように感じたのだろう。

 ちなみに、容易に予想が出来ることだが、やはり自己の希薄性は実存主義文学でも度々目にする(もしかするとその因果関係は逆で、むしろ、自己の希薄性を描いた作品だからこそ、実存主義文学と呼ばれるのかもしれないが)。例えば、カフカ『変身』などが挙げられる。有名な作品なので、わざわざ詳しく説明する必要も無いだろう。カフカが自らを投影したと言われる、主人公のグレゴール・ザムザは、ある朝目覚めると巨大な虫になっていたが、そのことによって家族から疎まれていることを感じて、最終的に率先して自らの消滅を望み、死ぬのだった。

自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的なものだった。こんなふうに空虚なみちたりたもの思いの状態をつづけていたが、ついに塔の時計が朝の三時を打った。……彼の鼻孔からは最後の息がもれて出た。

フランツ・カフカ『変身』(原田義人・訳) 

 グレゴールが死んだ直後の展開も凄まじい。自分を投影しているキャラの消滅によって、世界が平和に戻る様子が、あからさま過ぎるくらいに描かれている。

「これで」と、ザムザ氏(注:グレゴールの父)がいった。「神様に感謝できる」……彼ら(注:グレゴールの父と母と妹)は今日という日は休息と散歩とに使おうと決心した、こういうふうに仕事を中断するには十分な理由があったばかりでなく、またそうすることがどうしても必要だった。……それから三人はそろって住居を出た。もう何ヶ月もなかったことだ。それから電車で郊外へ出た。彼ら三人しか客が乗っていない電車には、暖かい陽がふり注いでいた。……三人の仕事は、ほんとうはそれらについておたがいにたずね合ったことは全然なかったのだが、まったく恵まれたものであり、ことにこれからあと大いに有望なものだった。

─『変身』

 人が死んだ素振りなど一切ない。グレゴール(≒作者であるカフカ)という邪魔者がこの世から消え去ることによって、新しい生活が始まり、世界の開ける様子が鮮明に見えてくる。自己の希薄性がここにも見られる。やはり、自己の確立出来ていない(と言われる)児童期の虐待は自己を疎外視することに繋がり、その影響で「無意味な世界」に一歩近づくのではないだろうか。

 

5.壁の向こう側には

 冗長に文字を連ねてきたが、まとめに入ろう。この記事で主張したいことは二つある。

 一つ目はこの記事を書く動機に関することであり、具体的に言えば『SWANSONG』のラストについてである。それに対する回答を無理矢理要約するのであれば、「極限状態に立った人間が、実存としての人を肯定し、世界に対して抗い始めるという状況は、他の作品でも見られ、決して特殊なものではない」ということである。

 僕はこの思想について完全に理解することは出来ないので、思想そのものを確かめることは出来ないが、ある程度多くの人が(恐らく誠実に)描いた作品に共通する点があれば、思想の輪郭を掴むくらいのことは出来る。そして、今回は納得できる程度の共通点が見つかったと思っている。

 二つ目はより根拠の薄い主張であるが、最初に述べた虐待児の心理についてである。簡単に纏めると、「虐待を受けることで、自己に対する他者の優位性を感じ、自己が空疎なものになってしまうことがある。その結果、『意味は社会が規定する』という実存主義的思想に傾倒する」となる。虐待児の心理と実存主義の相関関係については一章〜三章で、その因果関係は四章で触れたが、残念ながら正直どれも根拠に乏しい。これについては以後何か気付きがあれば補足したい。


 最後に、安部公房『壁』の一節を取り上げて終わろう。

壁よ

私はおまえの偉大ないとなみを頌める

人間を生むために人間から生れ

人間から生れるために人間を生み

おまえは自然から人間を解き放った

私はおまえを呼ぶ

人間の仮設と

安部公房『壁』「S・カルマ氏の犯罪」 

 解釈が難しいが、「壁」とは人間によって作り上げられた秩序のことであると僕は考えたい。人間が壁を作り、壁の中で人間は自然から逃れて生きる。
 壁に対する我々の選択肢は幾つもある。壁の中で生きるか、壁を自分なりに装飾するか、新しい壁を作り始めるか、それとも壁を粉々に破壊するか。尼子司もメルソーも最後の選択肢を選んだ。そして、壁の残骸が積み上がった荒野の上で地平線を眺めた。きっと、その瞳には美しく儚い夕陽が映っていたのだろう。その夕陽は、実存という反逆の灯火であった。

 

……と締めたところで、借りたスリッパを脱ぎ自分の靴に履き替えて部屋を後にしよう。