墓の中

やりたいことはやりたくないことをやらないこと

ゲームを好きになりました 日記を書きました 物語がひろがりました

……あゝ!あゝ! どうしてお前はあたしを見なかつたのだい、ヨカナーン? 一目でいゝ、あたしを見てくれさへしたら、きつといとしう思うてくれたらうに。さうとも、さうに決まつてゐる、恋の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに。恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを。

オスカー・ワイルドサロメ』(福田恆存・訳)

 

  『魔女こいにっき』というノベルゲームをプレイしたので、それについての雑感を述べる。シナリオ的にネタバレ無しには何も書けないので、毎度の事ながら読者の対象はプレイ済みの方(もしくはネタバレを気にしない方)のみに限る。あと引用は部分的に僕の記憶からです、ごめんなさい。

 章立ては

0.そんなに粗くないあらすじ

1.物語の先頭と物語の果て

2.瞬間と永遠、不確実と確実、語り手と読み手

3.美しいから触れられないなのか、触れられないから美しいのか

といった感じ。0章で『魔女こいにっき』の大筋をさらい、1章でありす√について、2章でアリス√についてそれぞれ詳しく見たあと、3章ではより広い文脈で『魔女こいにっき』を見る。全部で9000字くらい。

 

0. そんなに粗くないあらすじ

 まず初めに事柄を時系列に沿って簡単にまとめておく。公式で販売している『魔女こいにっき ビジュアルファンブック』に記載されている時系列表を参考にしたので、多少正確性は増したと思う。僕の勘違いがあれば教えて下さい。

 なお、物語の区別がしやすいように”第一の物語”、”第二の物語”、”第三の物語”、”日本昔ばなし”、”沢山の物語”と名前を付けた。これは僕が付けた名前であり、作品内には出てこない。

 

約210年前:第一の物語=砂漠の国の物語

・砂漠の国の王・ジャバウォックが隣国の姫・アリスに一目惚れして結婚する。物語好きで夢見がちなジャバウォックは、”永遠に止まらない時計塔”を建設しようとしたが、失敗し、王国を追放され、アリス・崑崙と共に楽園を目指し西へ進む。しかし、疲弊が積み重なり、途中で立ち往生を食らってしまう。

・ジャバウォックの眼中には楽園しかなく、そこにアリスはいない事に胸を痛めたアリスは、崑崙に命じて”竜の書”を作り上げる。この”竜の書”は「使用者は不老不死の生命を得て、永遠に物語を語り続ける」という効果をもつ。アリスはジャバウォックにそれを使わせることで、物語の内側に閉じ込めて永遠にそれを読んでいたかったわけ。

・勿論そんなアリスの思惑に気付かないジャバウォックは、崑崙に「この”竜の書”に願えば、永遠に物語を語り続けることが出来る」と唆されて、”竜の書”と契約し、不老不死の”物語”(の語り手、そしてその主人公)になった。こうして、ジャバウォックは、崑崙がよく語っていた思い出の地・日本へと渡る。

☆ちなみに、アリスは「ジャバウォックは自分のことを忘れるように」と願ったため、以後のジャバウォックにはアリスの記憶が無い。(これを取り戻すのがSECRET√)

約200年前:日本昔ばなし①=佐納歌音との物語

約80年前:日本昔ばなし②=南乃ありすの母や、相馬有栖との物語

☆ここらへんで主人公はジャバウォックから日本人らしい名前「桜井たくみ」に改名した。

約60年前:第二の物語=Cinderella Story

・南乃ありすと桜井たくみの邂逅。そして、二人は恋に落ちる。たくみは「俺は不老不死だからお前と一緒に歳をとれない」と正体と過去(勿論アリスの話を除く)を打ち明けるが、ありすはそれを受け入れ、共に生きることを決める。

約1年前①:第二の物語の終焉

・しかし、高齢者となったありすは痴呆症になってしまい、自らをJKだと思い込み、「学園に行きたい」と言い出す(!)。たくみはせめてその願いを叶えようと学園に通わせるが、ありすが自分のことを忘れていることを知り、失意のあまり、崑崙に頼み、自分の記憶を全て消してしまう。

☆これ以降は、ジャバウォックでもなく桜井たくみでもなく「主人公」と表記する。

約1年前②:沢山の物語

・記憶を失った主人公は、加藤恋、梢あけみ、周防聖、柏原美衣、三人組(堀田、山田、岡田)、時計坂零とそれぞれ物語を紡ぐ。そして、最後に時計坂姉妹を助ける為に魔力を使いきり、消滅する。

☆勿論このときもまだありすはせっせと現役JKをしている。

現在①:崑崙との物語

・魔力を取り戻した主人公が復活。このとき、ほぼ全ての記憶(勿論アリスの話を除く)を取り戻す。……というのは大嘘で、実は崑崙が記憶を改ざんしており、ありすとの生活を全て崑崙との生活だったと思い込まされていた。

・そんなことに気付かずに主人公は崑崙とイチャイチャするが、ある日崑崙に真実を告白された主人公はありすの記憶を取り戻す。そして、バラゴンに姿を変えて、ありすの元へ向かう。

☆勿論このときもまだありすはせっせと現役JKをしている。

☆ここまでの流れを纏めておく。つまり「"第一の物語"(砂漠の国の物語)→ジャバウォック、アリスの記憶を失う→"日本昔ばなし"→"第二の物語"(Cinderella Story)→ありす、ボケてJKに→たくみ、悲嘆のために記憶を捨てる→"沢山の物語"の後、主人公が消滅→復活した主人公、擬似記憶を取り戻す→主人公、ありすの記憶を取り戻し、バラゴンとなりありすの元へ→"第三の物語"」という時系列である。

現在②:第三の物語=自称JKの高齢者ありすと、主人公であるバラゴンの物語

・この話は至ってシンプルである。つまり、魔女となったありすがバラゴン(=主人公)と共に、街に散らばった物語の欠片を拾い集め、”日本昔ばなし”、”第二の物語”、”沢山の物語”を読みながら、上に書いた時系列を辿るお話。

・そして全ての物語を読んで、真相を知った主人公とありすは、物語の最果てに辿り着き、大団円を迎える。これがオーラス√=ありす√である。

☆ここで”全て”や”真相”といった言葉を使ったが、本当は”物語”の支配者であるアリスについての記憶はまだ無い。これを取り戻し、アリスの本心、つまり『魔女こいにっき』の真の構造を知って、終幕となる。これがシークレット√=アリス√である。

 

1. 物語の先頭と物語の果て

 出来事を時系列順に並べると以上のようになるが、実際のゲームでは、プレイヤーの視点はボケた後の南乃ありすの視点と一致しており、故に、第三の物語(現在②)から始まる。つまり、プレイヤーは「ピチピチJKの激萌え南乃ありすが、様々な物語を読むことで、時系列を再構成する」という物語を読むことで、時系列を再構成するのである。この「プレイヤー=ありす」という構図はありす√のほぼ最後まで続く。わざわざ説明することでもないと思うが、

・南乃ありすの普段の生活(”第三の物語”)→これは勿論、南乃ありす視点。

・様々な物語("日本昔ばなし"など)→一見他者の視点のように見えるが、これは物語であり、それを読んでいるのは南乃ありすなので、やはり南乃ありす視点。

というように、ありす√のほぼ最後まで「南乃ありす視点」は保たれている。最後は少し主人公の視点も入ってくるけど。

 

 ありす√の最後あたりで、バラゴン(=主人公)がありすに向かって「物語の先頭でようやく会えたな」とか言っていた(ような気がする)。この「物語の先頭」とは何か。それは”第二の物語=ありすとたくみの物語”であるCinderella Storyにおける二人の出会いを指すのだろう。ボケ老人の南乃ありすは様々な物語を読むことによって、時系列を整理し、そしてバラゴン=主人公=桜井たくみとの出会いを思い出し、遂に「物語の先頭でようやく出会えた」のである。

 また、対となる概念の「物語の果て」についても少し述べておく。「物語の先頭」に立ったことで、物語は再開し、そして終幕へと向かう。この「物語の果て」は、かつて辿り着く事のできなかった「砂漠の果て」にある楽園を準えたものだろう。実際に、ありす√を終えるとタイトル画面はヒロイン達がオアシスで遊んでいるCGが背景となり、まさに楽園を象徴しているものだった。(しかし、それは、”物語”の支配者であるアリスが決して辿り着いて欲しくなかったものである。)

 

 ちなみに、ありす√を終えると、EDムービーが終わった後のシーンがたったの5セリフだけあるのだが、そこが個人的に一番好きだった。高齢者であるありすの病室のシーンである。

看護師A

「あら……ありすさん」

「お孫さん(注:主人公のこと)、来ていたんだ」

看護師B

「またお話を読んでいたのかしら」

看護師A

「二人でお昼寝して……」

看護師B

「なんだかとても幸せそうね」

 結局最後の大団円は夢オチ(物語オチ?)なのである。しかし、それでも二人はとても幸せそうだと言う。「現実世界は何も変わらないけれど、物語や夢の中では幸せであり続ける」という描き方が心に残った。このような描き方は、同じライターが書いた『恋×シンアイ彼女』のラストにもある。何故心に残ったかについては3章で詳しく述べよう。

 

2. 瞬間と永遠、不確実と確実、語り手と読み手

 アリス√では、「南乃ありす」視点は終わり、「主人公=ジャバウォック」視点(これは、物語における主人公としての視点ではなく、現実における観測者の視点である)に移る。この時点で、「南乃ありす」は用済み(という言い方は悪いが、要は別次元の存在になってしまった、ということ)であり、ここまでの話とは一線を画している。

 時計塔の上でジャバウォックに見つかったアリスは真相を語り始める。まとめると以下のようになる。

・かつてジャバウォックはアリスに対して一目惚れしていたのに、いつのまにか見向きもしなくなっていた。

・それを悲しんだアリスはジャバウォックを主人公とする物語をつくり、語り手としてジャバウォックを、読み手としてアリスを配置した。

・そして、その物語内に何人も「ありす(例えば、相馬有栖や南乃ありす。そして恐らくほぼ全てのヒロインの本名はありす)」を仕込み、主人公と恋をさせた。その「ありす」に自分を投影し、永遠に楽しもうとした。

・物語内なら、彼(ジャバウォック)はありす(アリス)を愛してくれる。物語内なら、何度でも何度でも読み返せる。何度も、何度も何度も何度も何度も、恋が出来る。

 

 ここで、幾つか引用しておく。まずは、OPムービーの間奏中に書かれるキャッチコピーである。

ひと目惚れより永遠を

どうか日記に残せたら

あなたが明日へ去らぬよう

私に魔法が使えたら

  瞬間的なひと目惚れなどという移りゆくものより永遠の愛が欲しい、その為にもあなた(ジャバウォック)を主人公とする日記(物語)を繰り返し読むことで、あなたが明日に行かないように昨日という物語に閉じ込めよう……というアリスの心を指している。

 最後のシーンで、アリスがこの感情を暴露する台詞がある。

あなたは、さっそうと明日へと去ってしまった

私だけが取り残された

魔法が使えたら……って

 この台詞と上述のキャッチコピーの対応性は偶然ではないだろう。

 アリスとは全く関係ないヒロインのEDテーマ『永遠の魔法使い』からも歌詞も一部(本当は全部引用したいが)を引用しておこう。

やがて

おとぎ話だけが取り残されて

ただ 恋心だけ取り残されて

どこにも行けず

たたずむ僕は 魔法使うよ

永遠なれ

  物語内で愛し合っているのはあくまで「主人公」と「ありす」であり、かつての夫婦であったジャバウォックとアリスではない。そこに過去の事実の面影は最早ない。「おとぎ話」の中で「恋心」という形式だけが「取り残され」るのである。それでも私に出来るのは永遠に物語を読み続けるだけなんだ……と、これも実はアリスの絶望的な心情が現れてるのが見てとれる。

 

 さて、アリスの本心を知った主人公は何を思うか。以下がその返答である。

確かなものだけを俺たちは語ればいいのか

君に一目惚れをしたから

永遠に一緒にいたいと……思った

けど変わっていくんだ

確かなものなんてない

だから人は……いや、俺は、物語を求めるのかもしれないな

そこには永遠が閉じ込められているから

めでたしめでたしだけが、閉じ込められているから

  「現実に永遠なるものなど存在しない」と認めた上で、「だから物語に永遠を求める」のだと言う。そして次の台詞に続く。

俺はいつだって、砂漠の果てにある、ありえないものを信じていた

本当にあるのかどうかなんて分からない

そのほとんどは、結局、実現できずじまいだった

嘘つきだと言われてもしょうがない

でも、語らなければならない

人は、本当に、世界にあるものだけでは、やっぱり寂しいから

その果て、あるはずのないものを信じないと……生きていけないのだから

  アリスは永遠に確実なものだけを読み続けたが、ジャバウォックは瞬間的でも不確実でもいいから語り続けた。アリスは昨日を求めたが、ジャバウォックは明日を求めた。ここにジャバウォックとアリスの決定的な違いが表れている。

 

 こうして、ジャバウォックはアリスを”フった”。長い長いラブストーリーの終わりである。耐え切れなくなったアリスはジャバウォックと共に物語の歯車となって永遠に廻り続けようとする。歯車に押し潰される中、ジャバウォックはアリスにこう告げる。

今は、もう、お前を愛することができない

その代わりに……この痛みを、歯車の悲鳴を愛そう

だから語るが良い

それがありえないものだとしても

叶わぬものだとしても

いいじゃないか

お前はつたないながら、語り始めた

人に語られるだけじゃなくて、

自ら、語り始めたんだ

存分にそれをすればいい

世界にこうあれと、願えば良い

やがて物語は竜として

天をふるわす咆哮をあげるだろう

  最後の最後で、ようやく読み手アリスは語り手アリスとなった。ジャバウォックはそれを高らかに賛美して、物語は終焉を迎える。

 全体の根幹となるテーマ(少なくともアリス√に関して)としては、「瞬間⇔永遠、不確実⇔確実」という対比を用いながら、「ジャバウォック⇔アリス」という人間関係を、物語における「語り手⇔読み手」という関係に落とし込もうとした、と僕は結論付けたい。無理矢理メッセージを読み取るのであれば、「何かを語り続けろ、何かを生み出し続けろ、恐れずに前に進み続けろ」といったところだろうか。

 

3. 美しいから触れられないのか、触れられないから美しいのか

 ー 以上、『魔女こいにっき』について部分的にある程度詳しく見てきたが、この章では、より広い視野で『魔女こいにっき』を俯瞰したい。つまり、『魔女こいにっき』のシナリオライター・新島夕氏が書いた別作品と比較してみようということである。

 僕が過去にプレイしたことのある氏の作品は『ナツユメナギサ』『はつゆきさくら』『恋×シンアイ彼女』を含め4作品しかないが、その作品群の中で、ある一定の共通点が見受けられる。それは平たく言えば「主人公とヒロインが最終的に一緒の人生を歩まない」という点である。

 (以下、上記作品のネタバレを含みます。また、ずっと昔にやったものもあるのでシナリオについては多少不正確かもしれません、ごめんなさい。)

 例えば、『ナツユメナギサ』の最後では、主人公は実は死んでいて、それをヒロインが成仏(?)させる。片方が死ねば、勿論一緒の人生を歩むことは出来ない。

 逆に、『はつゆきさくら』の最後では、ヒロインは実は死んでいて、それを主人公が成仏(?)させる。記憶が正しければ、この『はつゆきさくら』ではメインヒロイン全員の√において、主人公は消え去り、そこにヒロインが取り残されて主人公の事を想い続ける……みたいな感じだった思う。やはり、ここでも主人公とヒロインは一緒の人生を歩んでいない。

 『恋×シンアイ彼女』はどうか。主人公はメインのメインヒロインである姫野星奏と一度結ばれるものの、星奏は音楽の道を歩む為、立ち去っていく。数年後、主人公と星奏は再会し、仲睦まじい同棲生活を送り、今度こそ共に人生を歩んでいくのだろう……と思ったところで再び星奏は音楽の道を歩み始める。そのあとも主人公は星奏を追い続けるが、遂に物語内では辿り着けずに終わる。

 しかし、この『恋×シンアイ彼女』の終わり方は(少なくともプレイヤー側から見て)悲壮感が溢れるものではなかった。ED直前のシーンで、疲れ果てた主人公は公園のベンチに座り、過去の輝かしい日々を思い返す。そして、ED明けの最後のシーンで、公園のベンチでうたた寝しながら、こう思うのである。

……夢うつつに、かすかな足音を聞いた。

なんとなく。

目を覚ましたら、美しい思い出の続きが、俺を待っている。

そんな予感がした。

  CGには、うたた寝している主人公の顔を微笑みながら覗き込む星奏。勿論星奏がそこにいるはずはなく、主人公の妄想に決まっているのだが、主人公の希望は失われてはいないことがよく表れている。これが1章でも述べた「現実世界は何も変わらないけれど、物語や夢の中では幸せであり続ける」という描き方である。

 

 ここまで見てくれば分かると思うが、確かに主人公とヒロインは最終的に一緒の人生を歩まないけれど、そこに”絶望”などといった積極的な負のイメージは付与されないのである。

 これを踏まえて、『魔女こいにっき』を考え直してみる。ありす√では、高齢者であるありすは間もなく死に、そしてたくみは一人で生き続けるだろう。一緒の人生を歩むことは出来ないだろう。しかし、そこにはもう絶望は(多分)無い。彼らは物語の中では幸せであり続けるからである。

 一方、アリス√は少し異質かもしれない。「ジャバウォックとアリスは一緒の人生を歩まない」とまでは言えないが、少なくとも、「ジャバウォックの方はアリスと一緒の人生を歩まないと誓った」。そして、「積極的な負のイメージが無い」とまでは言えないものの、「ジャバウォックの方はアリスを肯定し讃えた」。

 アリスは限界を突破した超絶メンヘラなので、この枠組み内では捉えきれないが、ジャバウォックの方は十分この枠組み内に収まる、と主張するのは行き過ぎだろうか。

 

 さて、それでは、氏はなぜ「主人公とヒロインに一緒の人生を歩ませない」のか。その理由を決定することは出来ないが、推測することは出来る。それはありきたりなハッピーエンドは茶番にしか見えないからである。

 僕はこのブログに限っても繰り返し主張し続けてきたことがある。この記事を書くのもそろそろ疲れてきたので、かなりカジュアルな感じで書く。

物語「男の子と女の子が出会いました」

僕「OK」

物語「男の子と女の子が恋に落ちました」

僕「OK」

物語「男の子と女の子は今とても幸せです」

僕「OK」

物語「男の子と女の子は末永く幸せに暮らしましたとさ」

僕「すと~~~~っぷ!!!はい、ちょっと待って下さい!え~っと、今二人とも大体20歳くらいだよね?日本の平均寿命知ってる?約80歳!だから残り人生60年くらいあるよね?そんな長い期間、本当に幸せなままでいられる?その自信はある?まぁ、自信だけあっても困るんだけどね。出来ればその将来の幸福の確実性を示すために今後の人生を描いてくれる?とりあえずそれを見てから本当に幸せだったかどうか決めるので。それと……」 

 つまり、「二人が結ばれてハッピーエンド」は物語的には確かに終わりかもしれないが、引き続く物語世界を考えたとき、本当に彼らは今以上、もしくは今と同程度に幸せでいられるのか?という疑念が拭えないのである。

 

 目的というのは達成された途端に、その目的性を失う。であれば、恋愛シミュレーションゲームの目的である「主人公とヒロインが結ばれ、幸せになる」が達成されても、同様にその目的性は剥奪されるだろう。目的は達成されないからこそ、目指し続けることが出来るのだ。多少の論理の飛躍はあれど、僕はこの事実からこのように議論を展開したい。つまり、美しいものは触れられないからこそ、美しいままであり続けるのだ。

 

 以上のことから、氏がなぜ「主人公とヒロインに一緒の人生を歩ませない」のかという疑問について答えられると思う。それは、主人公とヒロインが結ばれてしまっては、お互いがお互いに達してしまっては、美しさが奪われてしまうからだ。そして、なぜ「そこには負のイメージが付与されない」のか。それは、お互いがお互いを求め続ける心を残しておかなければならないからだ。

 永遠に結ばれることなく、お互いがお互いを求め続ける。そこに美しさを感じるのは僕だけではないと信じているし、氏が同じような感性を持っているのではないかとも勝手に思っている。

 

 

 以上で、『魔女こいにっき』の感想とします。

 最後に僕の感性だけで評価しておきます。好きか嫌いかで言えば、結構好きでした。