墓の中

穴は真珠貝 標に星の破片 傍には百年の待ち人

さよならは昔日のために

別れというものはおおむね緩慢に訪れる。在りし日々を思い返すことによってはじめて、ああ私たちは既に別れていたんだ、ということを知る。そして、いつ別れがあったのかは、誰も知らない。
みずからを努めて現実世界へ投企しようとはせず、ただ受動的に生活をおこなう僕は、とつぜんの劇的な別れというものをほぼ経験してこなかった。劇的な、とはなかなかよく考えられた形容に感じる。特定の一時点に何か出来事が起きることで別れることはまさに「劇」的であり、長い時間の幅で何も出来事が起きずに別れていくことは劇として成立しえない。僕にとって劇とは現実世界でも仮想世界でも他人事でしかなかった。
幼馴染、近所の友達、学校の同級生、部活や同好会の同輩、会社の同僚や先輩。それらはおそらく平均的にいた。今はきっと平均的にはいないだろう。気付けば、周りに人はまばらになっている。その不在が一時的なものではないということを知ったとき、僕らは既に別れていたことを知った。人は時の流れの中で生きており、現在を過去へと変えてゆける生物だから、一度確定的となった関係性も勝手に保たれるわけではないし、ましてやスクスク育まれてゆくわけではない。あるとき綺麗に咲いていた花壇は世話をしなければ枯れるし、荒れていく。なんだってそうなんだろう。当たり前のこと。
僕がこの自明の理を自覚したのは、体と頭がずいぶんと大きくなってからのことだが、他の人はもう少し上手くやっていたのだろうか。いま手元に残された数少ない人間関係を少し心もとなく感じる。涙も怒りも失望さえもないまま、人と人とが別れていく。今は曖昧に胸が締め付けられるだけだが、この狭心症がいつか悪化して致命的にならないかどうかは分からない。薄れ霞んでしまったとしても、あの時の感情は紛れもなく本物だったという慰めでどこまで生きてゆけるだろうか。希薄な人間関係を心地良く感じる、僕のような人間は、その心地良さにかまけて、関係保持の努力もせずに、手遅れになってしまうことが多い。怠惰や臆病を正当化するための文句として、来るもの拒まず去るもの追わずと嘯いて、柔らかく己の首を絞めてゆく。
風花が宙を舞っていた。裸の手はかじかみ、肩は震え、足はすくむ。本堂の裏に広がる林がザワザワと音を立てて揺れる。煙が寒さに強張った参列者たちの間をたなびく。告別式だなんて、たぶんこの人とは大分むかしに既に別れていたんだろうと感じた。ただ血の縁だけが辛うじて引き留めていた。その、なんというか生物的な必死さが哀しかった。でも、こんな風に大勢の人から忘れられずにいたのは凄いなとも思った。それから、誰もいない自分の葬儀を想像して、ちょっとだけ嫌な気分になった。